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7歳で性器切除され、13歳で見知らぬ男と強制結婚させられた。
性交と出産時の苦痛、夫との愛のない暮らし……。
著者キャディの半生を語った衝撃の現実です。
多くの方に読んで頂きたい本です。
同じ人間として生まれてきたのに、生まれた地域によっては、今も苦しめられている人々がいます。
そのひとつが、女性性器切除です。
古くから伝えられてきた風習なので、つらくても受け入れることしかできない。
そして、当たり前の様にそれを自分の子どもに引き継いでいく。
この忌まわしい因習について、多くの方に知って頂き、この問題について考え、議論し、そして、撲滅させなければなりません。
その為にまずは、現状を知りましょう。
本書を読むと、女性性器切除や、アフリカのセネガルの生活がどの様なものであるかもわかります。
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日本に七五三があるように、セネガルでは割礼が少女が大人になるために必要なのだという。残酷で非道な儀式を日常として体験し、苦しみ疑問を抱きながらも我が子にまた繰り返すある女性の半生。人間が人間らしく、生きる喜びを感じられる生き方とは、一体なんだろう。
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女子割礼というと、宗教的ないわれがあるかのように感じる人もいるから、女子性器切除という訳語が当てらるようになったのでしょう。
ただ支配するためにだけ、幼子の体に剃刀を入れる、その暴虐。手を下すのは無知な女たち。
無知な状態に止められる人たちの苦しみを読むと、知ることの大切さがしみじみと思われます。
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『生きながら火に焼かれて』を読んだばっかりだったんで、こういう風習を行っている民族がそんなにいるのかと衝撃を受けた。というか、同じ訳者ですけど、そういう繋がりがなんかあるんですかね?これからも同じような本が同じ訳者で出版されるのかな。性器切断のことを「割礼」っていうらしいんですけれど、それにもいろいろあるらしく、特にファラオニック割礼は・・想像を絶します。無知は罪だと思えます。
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出版社 / 著者からの内容紹介
性器切除――このおぞましい因習をいますぐ止めなければいけない
年間200万人の少女たちが今も犠牲となっている
驚愕の告発、全世界に衝撃! 全女性に勇気を与えるノンフィクション
両肩を押さえつけられ、脚を大きく広げられた。ぎらりと光る恐ろしいカミソリ――
7歳のあの日、私は「切除」された――。
性器切除――アフリカ約30カ国を中心に世界各地で行われ、毎年200万人、毎日6000人近い少女が犠牲となっている。これまでに切除された女性は1億3000万人以上と推定されている。
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女子性器切除の存在を知っているだろうか。
アフリカ・中東・アジアなどの諸地域の慣習として、女性の陰核(クリトリス)を切除することである。単純に性行為時の快感が失われるだけでなく、切除時の大量出血や、排泄、妊娠、出産などにおける身体の影響など、実に深刻な問題をはらんでいる。
恥ずかしながら、私はつい先日まで、そのような慣習をもつ社会があるということを知らなかった。とある勉強会で、初めてその存在を知り、衝撃を受けた。
その衝撃が覚めやらぬうちに、書店で見つけたのがこの本だった。
この本の筆者・キャディは、母国・セネガルにて、7歳で女子性器切除をされた女性だ。
何もわからないままになされる性器切除、そして民族の慣習として決められた、顔も知らない相手との13歳での結婚。こうしたことを通じて彼女が自問し続けてきた過程は、とてもリアルで痛々しい。
なぜこんなことをされるのか、という疑問、恐怖、不安や、苦痛でしかない性生活を拒否する権利もない、結婚生活に対する苦悶などを通じて、彼女はなぜ女性がここまで虐げられなければならないのか、男女不平等の現実に納得がいかず、実際に「自由」を手にするための行動を起こし始める。
こうした、自分のみに起こった苦しい出来事を掘り起こし、文章化する作業は、どれほど苦しかったろうかと思う。
それでもこの書を著したのは、自身の経験を語ることで、いまだに根強く残る悪しき慣習を一刻も早く廃絶したい、との思いによるものに他ならないのだろう。
こうして立ち上がる女性がいるからこそ、私たちも現実世界の暗部を受け止める機会を得られるのである。
世の中には、不条理なことがたくさんある。その不条理をなくすためにできる行動を、私たちは探らなくてはならない。
でも、まずその前に私たちがしなければならないのは、こうしたくらい現実を正確に知り、現実のものとして受け止めることだ。
女子性器切除は、現在もまだ行われている。女性であるというだけで、当たり前のようにその苦痛を受け入れさせられている。
その存在を知らなかった、という人にこそ、読んで、知ってもらいたい。
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あっという間に全てのページをめくり終えてしまった
女性のカラダ
時に物のように交換され、売られ
時に男の嗜好に合わせて切り刻まれ、変えられる
そんなカラダをもった女である自分
そんな自分のカラダは時にすごく脆い
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女子割礼の被害にあった女性の自伝を読むのは初めてだったから、割礼についてセネガル人であるキャディはどう思っているのか、切除されてから体調の変化や心理にどう影響を及ぼしたのか、感情の流れを読み取ることができました。それにより、アフリカ人のすべてが慣習だからと割礼を受け入れているわけではないことを知れてよかったです。
中でもひどいのは夫とフランス移民コミュニティの男たちでした。男は女に勝っているから財産を保有していいとか、根拠のない威厳を振りかざして女性を虐げているという、なんとも理不尽な理由で女性を破滅に陥れています。
セネガルとフランスの法律は全く違います。それなのにスーダンの法律を引き合いに出して女性を従えようとする男性の傲慢な態度を本書では知ることができます。読んでいてかなりイライラしますが、クライマックスはよっしゃ!!と思えるくらい爽快感があります。
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ふと立ち寄った古本屋。なにげなく棚を眺めていると、一冊の本のタイトルが目に留まった。
『切除されて』―。女子割礼、すなわち性器切除された女性の書いた自伝だった。
著者キャディはセネガル出身で、首都ダカールの近くの村で1959年に生まれた。7歳に時に割礼をうけ、13歳で一族の決めた相手と結婚させられた。
現在でも女性に限らず割礼は世界で広く行われていて、古くは古代エジプトまでさかのぼることができるという。
性器を切除される際の描写がリアルで、読んでいて下腹部に鈍痛を覚えてしまうようだった。愛せない夫との生活への不満、家庭内暴力など、陰鬱な時期を乗り越えたからこその彼女に強さをひしひしと感じる。しかし、彼女の不幸は切除が直接的な原因ではなく、すべて夫とのトラブルに拠っていると言っても過言ではない。
彼女は、性器切除は宗教上の理由もなく、感染症を引き起こし女性から性の悦びを奪うだけだ、として、現在その廃止運動を行っている。私も以前国連が主催するフォーラムで、日本人による同様の講演を聴いたことがある。
だが、何千年も前から続く因習となった割礼の目的や理由がわからないのも当然だ。神社に行って私たちは無意識に柏手を打つが、なぜ手をたたくのかよく知らないのと同じである。もともとは目的のための手段であった割礼や柏手をうつという行為自体が、繰り返されることで目的化したのである(手段の目的化)。
そもそも現実に割礼をしている部族の人間でもない私たちが、この問題への賛否を問われることに、私はいささか違和感を感じている。割礼をしていない私たちがもし「自分たちもやっていない行為で、野蛮だからやめろ」と言うならば、それは他国の文化や慣習に対する不当な干渉ではないのか。
くじらを殺し、食べることについて、我々日本人が議論し、「もう時代に合わないからやめようか」となったら納得できる。しかしそれを外国人が「野蛮だ」といってやめさせようとしていることに抵抗を覚える国民は少なくないだろう。同様に、割礼をするかしないかは実際にした人、する人によって議論されるべきだ。
そういう意味で、割礼体験者のキャディがこのような本を記したことはとても意義深いことだとは思う。だが日本語に訳され、日本人へのメッセージも書かれたこの本を読んだいま、日本人である私は一体なにを思えば良いのだろうか。
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こんな残酷な世界がある事を今まで知らずにいた…そして、絶句した。
あまりの残酷さに読むに堪えかねないかもしれない…胸が苦しくなるかもしれない…でも、この真実の物語を少しでも多くの人に知ってほしい。
平和な日本に生まれ育って感謝すると共に、女性を女性として見ていない、こんな人権侵害な慣習は絶対にあってはならない。
痛み程辛いものはない。
自分の意思と無関係に、そこに生まれ育ってしまったが為に、ルールに従うしかなく。幼い頃から、その苦痛が一生続くなんて許せない。
同じ女性、同じ人間として、一刻も早く、この悪しき因習をこの世の中からなくしてほしいと願わずにいられない。
そして、この本を出したキャディの勇気と強さに拍手をおくりたい。
『セネガルに生まれたキャディは、7歳の時に麻酔なしで女子割礼を受け、13歳で見知らぬ男性と強制結婚。15歳の時にフランスへ。
異国で愛のない結婚生活、家庭内性的暴力、出産、切除後による想像を絶する苦痛。
切除は心身共にボロボロにし、キャディの人生を奪った。困難を乗り越えたキャディが赤裸々に語るノンフィクション。
この風習は宗教と関係なく、女性をコントロールする為のもの、お清めや伝統なるもの、土着の慣習として現在も行われている。
この慣習は女性の体に大変な危害を加え、苦痛はいつまでも続き、心まで蝕まれていく。
いまだにアフリカ、中東、アジアの国々で一億人以上の少女達が切除されている。そして、口にしないのが当然とされてきた。
苦痛、疑問、怒り、悲しみ、全てを胸にしまいこむしかないのだ。』
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作者の人生の悪い面全てを女子割礼のせいにする文脈はやや?だけど、
当事者が経験をもって発する言葉は力がある。
セネガルの文化や暮らしを垣間見る意味では
前半部分が興味深かった。
メディアによる画一的アフリカ感を変えていくには
まだまだ自ら求め、動かないと事実は手に入らないなあ。
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私がFGM、女性器切除について知ったのはこの本が出て間もないころだったと思う。
本屋をぶらぶらしていたら棚さしの本の中から「切除されて」というよくわからないタイトルの本を手に取った。
FGMについて全く知らなかったわたしは、パラパラと立ち読みをしながら血の気が引くのを感じたのを覚えている。
なんという暴力、なんという非道なことがあるのだろう。
最初の数ページを読み、あまりの衝撃ときつさに貧血起こしてその場にたおれこみそうになった。
それから、女性器切除なんていう酷すぎる行為があることが頭から離れずにいた。
少しずつネットを見たり、女性や子どもの人権について活動するNGOの資料を読んだりしていた。人権侵害の最も酷い行為の一つだと思う女性器切除のことが、なぜかなぜか人ごとと思えなくて、ずーっとよく知りたいと思っていた。
この本を手に取ってから10年近く経ち、わたしは再びこの本を読んでいる。
そして、やはりあまりにもひどい暴力に貧血を起こし、座って読めなくなり、それでも著者キャディの哀しく力強い人生の続きを読むのを辞めることはできませんでした。
女性器切除された女性がその後どう生きていくのだろう。
たしかに女性器切除という行為自体は子どものころのほんの数週間の出来事かもしれない。
だけどこれは女性差別の象徴。
人権侵害。
暴力。
子どものころにそれをされるということは、そのようなコミュニティの中で生きていくということ。
それがどれだけ辛いことか。
キャディが自立をつかむまでの様子は目が離せないし、力強いけど、それでもこの本を読むのはつらい…
でも、わたしは知りたいと思う。
同じ女性として、同じ人間として、こんな暴力はやめようと訴えることのできる人間でありたい。
女性器切除はなくても「産めないんだろう」と言えてしまう私たちの社会と、大元にあるものは同じなんじゃないだろうか。
きっと、遠い国の話ではないのだと思う。
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あまりにも酷すぎて言葉もない。
宗教上の理由は何もないのに、未だに続いている因習。
麻酔も無く、きちんとした医療処置も無く、カミソリで切断とは…。
キャディは勇気を持った人だ。彼女の運動が実を結び、一日でも早くこの悲劇が終わることを祈る。