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「われわれが大切にしている宗教は、霊的に幼い人類に与えられた歩行器のようなものである」
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの一神教は唯一の神を信ずるゆえに、部外者を認めようとしない。それゆえに、自らの幸せのために部外者に不幸をもたらす。宗教が完全なものを求める故に、心に宗教を植え込まれた人間は、その信仰によって閉じ込められた負の抑圧を部外者に投影してしまう。宗教は不完全な人間が、その内なる葛藤から逃れ、安らぎを得るために作り出した幻想である。宗教が、自分が幸せに穏やかに過ごすために祈られ信ぜられるものである限り。全ての行為は自己中心的なエゴである。
人類が前に進んでるのであれば、宗教という外部に頼らず、個として自立しなければならない。神は自らの中に存ずると悟らなければならない。
なんか、ニーチェの超人思想みたいで苦しい。
無神教になって他者を認めて、エゴを超えて成長しなければならないんだって
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興味深く、強く共感できる本であった。この著者・町田宗鳳の本を読むのは初めてだが、今後その著作のほとんどを読むことになるだろう。タイトルはかなり刺激的だが、その主張は、私自身も自分のサイトで主張してきたことと基本的には変らない。この本で強烈に批判されるのは、自分以外の神や真理を赦さない排他的な宗教としての一神教だ。
「宗教は愛と赦しを説くが、人を幸せにしない。人類社会を平和にもしない。なぜか。宗教とは人間の勝手な思惑で作り上げられたフィクションに過ぎないからである。それが私の長い宗教遍歴の結論である。」(P9)と著者はいう。
世界史を少しでも学べば、宗教の名において人類が犯してきた戦争、残虐の数々に誰もが唖然とする。とすれば、この本のタイトルも、著者の結論もまさに真実をついているだろう。「組織宗教」「教義宗教」は、自己の教えを唯一正しいものとするかぎり、他の信仰を排除し、憎むのである。いくら愛と赦しを説こうとも宗教戦争が繰り返され、無数の人々が死んでいった所以である。
この本の前半では、宗教の名の下に、とくにユダヤ教、キリスト教、イスラム教という一神教の名のもとにどのような愚行が繰りさえてきたかを具体的に書き連ねている。この本の素晴らしいところは、抽象的になり勝ちなテーマを、あくまでも具体的な事例に即して論じているところだ。それによって「宗教は人を幸せにしない」というテーマが、説得力をもって裏づけられる。
たとえば、アマゾンのインディオたちにキリスト教を布教するために、ヘリコプターでインフルエンザのウィルスを沁み込ませた毛布を上空からまく。それを使ったインディオが次々と発熱する。そこへキリスト教の宣教師がやって来て、抗生物質を配る。たちどころに熱が下がり、自分たちの土着の神々よりも、キリストのほうが偉大な神である説き伏せられてしまう。インディオが改宗するとクリスチャンを名乗る権力者たちが土地を収奪していく(P51)。ヘリコプターとあるから、これはコロンブスの頃の話ではない。現代の話だ。このようなことがキリスト教の名の下に実際に行われているのだとしたら、赦しがたいことだ。
一神教的コスモロジーを批判したあと著者は、「多神教的コスモロジーの復活」、さらには「無神教的コスモロジーの時代へ」と論じていく。
いわゆる近代化とは、西欧文明の背景にある一神教コスモロジーを受け入れ、男性原理システムの構築することだともいえる。ところが日本文明は、近代化にいち早く成功しながら、完全には西欧化せず、その社会・文化システムの中に日本独特の古い層を濃厚に残しているかに見える。日本列島で一万年以上も続いた縄文文化は、その後の日本文化の深層としてしっかりと根をおろし、日本人のアニミズム的な宗教感情の基盤となっている。それは、キリスト教的な人間中心主義とは違い、身近な自然や生物との一体感(愛)を基盤としている。日本にキリスト教が広まらなかったのは、日本人のアニミズム的な心情が聖書の人間中心主義と馴染まなかったからではないのか。これは、日本にキリスト教がほとんど受容されなかった理由の考察として興味深い。
著者のいう多神教的コスモロジーの要点とは、「単一原理で世界が支配されるのではなく、世界は不確定な要素で動いていく」「男性原理と女性原理は敵対するのではなく、相互補完的関係にある」「他者を断罪する権威は何人ももたない」等々である。
アニミズム的な多神教的コスモロジーは、一神教よりもはるかに他者や自然との共存が容易なコスモロジーである。「日本は20世紀初頭、アジアの国々に対して、欧米列強の植民地主義を打ち負かすことができることを最初に示した国だが、今度は21世紀初頭において、多神教的コスモロジーを機軸とした新しい文明を作り得るということを、アジア・アフリカの国々に範を示すべきだ。日本国民が自分の国の文化に自信をもつことは、そういう文明史的な意味があるのである」と著者はいう。(P134)
ただし著者は、多神教的コスモロジーに留まることをよしとしているわけではない。人類社会から一神教と多神教の双方が消え去ることが理想だという。「人間の力を超えた偉大なるものに対して、全身が震えるほどの敬虔な気持さえあれば、神仏を語る必要はない、寺や教会に行かなければ、神仏に合えないというのは、酸素ボンベにしか酸素はないと思い込むようなものだ」と著者はいう。そこが、既成宗教が自己否定を経験したのちに復活する真の宗教、つまり「無神教」の地盤である。
この著者の素晴らしいところは、抽象的になりがちなテーマを、つねに具体的な事例を挙げながら進めることだ。またどのページにも必ずといっていいほどに深い洞察力を感じさせる文章が散りばめられている。著者の宗教についての考え方に強い共感をもつから、それだけ多く共感する文章に出会うということなのかも知れないが。とくに最後にふれた「無神教」の考え方は、私自身のサイトでも長年発信してきた考え方と同じである。
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この本の前書きは、
「皆さんは、人類の最大の敵はなんだと考えているでしょうか」といった内容で始まる。
当然「戦争」だとか、「環境破壊」だとか、いやいやその大元の原因を作っている人間の欲望こそが最大の「敵」だとか、いろいろあるでしょうが、著者はそれを「宗教」だとしてこの本を書き始める。
元僧侶なのにキリスト神学を学び、宗教的生活にどっぷりつかりながら、人間にとっての信仰の恩恵をも肯定する著者があえてこのように「宗教は人類最大の敵」とすることに驚きながらも、著者のいわんとすることを追ってゆくとその背景が理解できてくる。
はしょってしまえば、この著者の対宗教観というものは、驚くほど私自身のそれに近く、読んでいて、元僧侶にして神学を大学で勉強し、比較宗教学を講じる大学教授で、これほど自分と同じような考え方を持っている人がいることを知って、ある意味うれしく思ったほどである。
その端的な例が、たとえば、彼自身の子供たちに信仰あるいは宗教の持つ良い面を学んで欲しいと考え、彼らを教会に通わせていたが、ある日、その教会が「キリスト教以外の宗教は邪教だ」との考えを子供たちに教えていることをしり愕然とする。
あるいは、日本の隠れキリシタンを題材に、大学でゼミをしていると、日系の女子学生が泣きながら、彼女の母がいくら話しても仏教を信仰し、毎朝仏壇を拝んでいる、このままでは彼女は地獄に落ちてしまうので、どうしたらよいか、と相談を受ける。
根底には、全ての既存の宗教、特に「一神教」は、その成り立ちからして不可避的に「排他性」をもち、独善にはまることを避け得ない、ということをいろいろな例と資料を駆使して説明した上で、実際の「宗教」のそういった影の部分について、とことん突っ込んだ思索を進める。
一方では、宗教の持つ、あるいは信仰がもたらす恩恵も、自らの体験を元に読者に訴えることも忘れない。
ただ、「現在の」宗教のあり方がそのままであれば、その恩恵をも台無しにして有り余るほどのマイナス要素を持つ、というのが著者の立場であり、それは、私がいつもキリスト教に感じる「排他性」の問題と密接につながり、あえて著者はキリストの愛は常にサタンとか人間の罪と行った影の部分を前提とした二元的な愛である限り、限定的な愛にならざるを得ない、と断ずる。
古くは、ユダヤ、イスラム、キリストの各宗教間の確執や、キリスト内部でのカソリックとプロテスタントの軋轢、またプロテスタンティズムの持つ、どうしようもない独善と排他性、たとえばルターの狂信的とも言えるユダヤ憎悪などを例に挙げながら、そのようなものを必然的に持たざるを得ない宗教がなぜに「愛」の宗教たりうるか、と疑問を呈し、同時に現在の世界の状況を、そういった宗教観あるいは宗教に根をもつイデオロギーの相克と見て分析してみせる。
その分析のひとつひとつはいろいろと違った見方もあるだろうが、これを一つの見方ということで見てみると、そこにはそれなりの納得性も存在する。
対比して、著者は、日本の古事記などに現れる自然崇拝系の考え方や、仏教の中で言われる人間と自然のかかわり方にも言及しながら、特に現在の世界の多数派を締める世界宗教の問題点を指摘しつつ、彼自身の立ち位置を、あるいは考えを書き綴っている。
聞いたこともない著者であり、ふとタイトルに惹かれて読んだ本であったけれど、読んで良かったと思える本であった。
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宗教なんて迷信だ、洗脳だ、と頑なに否定するだけ(=無神論)なら簡単。
でも簡単だからグレーゾーンの人たちを説得する力はない。前文とあとがきをみれば分かるように、著者はそういう無邪気な合理主義者ではなくて、むしろ宗教の内側をあちこちくぐってきた経歴がある。
だから宗教にまつわるネガティブな部分とポジティブな部分をうまく切り離し、後者をくみ取る(=無神教)という難題に挑めたのでしょう。そこには素直に敬意を感じました。
代案を提示する後半部分は「まだまだ作業途中かな」と思ったけど、批判にあたる前半部分には力があって一気に読ませる。
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[ 内容 ]
現在もテロや戦争で多くの人命が奪われている。
子や妻、母といった愛する人を喪う哀しみの涙が、世界の至るところで流されている。
メシアは汝の隣人を愛せよといったのに、なぜ暴力はなくならないのか、この世に神はいないのだろうか…。
エルサレム、アメリカなど世界をめぐり、「宗教」が験される現場から思索し、人類普遍の問いに、比較宗教学の長年の研究成果から挑む。
キリスト教、イスラム教といった一神教はいうまでもなく、アジア的な多神教からさえも袂を分かち、“無神教”という新たな宗教の到来を説く衝撃の書。
[ 目次 ]
第1章 エルサレムは「神の死に場所」か
第2章 世界最強の宗教は「アメリカ教」である
第3章 多神教的コスモロジーの復活
第4章 無神教的コスモロジーの時代へ
第5章 “愛”を妨げているの誰なのか
第6章 ヒロシマはキリストである
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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町田宗鳳「人類は「宗教」に勝てるか~ 一神教文明の終焉」を読む。
これまでいろいろ宗教、とりわけ仏教に関わる本を読んできたが、何かこの本でかなり頭の中が整理されたような感じがある。キリスト教とは何なのか、一神教とは何ものなのか、そして仏教とは、日本古来の神道とは・・・・・。一神教がいかに世界の災いの根源となっているか、また宗教の名の下にいかに人間がエゴと欲望を満たそうとしているか、これまで少し判ってきていたことがパッと開けたような気がする。
この著者はキリスト教でも仏教でもましてやイスラム教でも神道でもない無神教を提唱する。無宗教ということではなく、人間と対峙する神を想定するのではなく、無意識・没個性のもとで自分の心の中にある神でもホトケでもない何か、愛というべきもののようだが、そういう存在を大切にして生きるべきだという。特に取り上げるのが、ジョン・レノンの歌った「イマジン」。あの歌詞の内容こそが無神教のコスモロジーを示すものなのだと。これまで意味を意識して聴いたことがなかったが、実はこんなにも深い想いがあったことに驚かされるようなことだ。
著者は触れてはいなかったが、宮沢賢治の思想がまさにそれにあたるのではなかろうか。また老荘思想にも共通するものがあるようにも思える。
中国新聞の「緑地帯」というコラムに寄稿されていたことから知ったこの人は、比較宗教学を専門にする広島大学の教授。本人の自伝的著作の「文明の衝突を生きる―グローバリズムへの警鐘」を最初に読み、波乱万丈な人生のなかで宗教と向き合ってきた人ならではの、宗教こそが人類最大の敵という考え方がこの本によって更に明確に伝わってくる。大いに啓発される一冊。
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ちょっともう、感動的におもしろいです。
だーーー!と叫びたくなるくらいに。現に今叫びたい。カラオケににでも行って叫びたい。
なんでこれがベストセラーじゃないの?
(※まだ40ページしか読んでません\(^o^)/)
「宗教はダメ」と断言する勇気。
正しいか正しくないかは別として。
でもそれが実生活で推敲を重ねたうえでの町田さんなりの結論なのだろう。
あらゆる宗教を、ばっさりばっさり切りますねぇ。
でもちゃんと客観的な視点でも見てる。
感動。
もうこの清々しさに感動。
私の中での今年のベストセラー。
(※まだ40ページしか読んでませんw)
宗教は本当に面白い。
宗教は人間そのものだ。
脱欲を説いていて、欲と雑念にまみれている。
おもしろい。おもしろい。
それでこそ人間!
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言っていること、言いたいことはわかるのだが、まるで
お題目を唱えているだけのような本で、今ひとつこちらに
響いてくるものがなかった。争いの根としての宗教は実に
やっかいなのは確かなのだが。