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「ことばはどのようにしてなまなましい身体性を獲得するのか」――。とても興味深い議題である。
これはそんな、「短歌における」言葉のなまなましさと実感性について考察した評論集である。
吉川宏志さんは、歌人としてとても手練れで、確かな技術力と表現力を兼ね備えた人だと思っていた。評論を読んでも、その印象は変わらず。手堅く、そしてしっかりと論考を重ね、短歌における「ことばのなまなましさ」について文章を紡いでいく。
しかし、ややお堅い印象を受ける感じが、なきにしもあらず。確かに堅実で誠実な文章なのだが、核心にずばりと切り込む鋭さが足りない気がして、評論としてやや物足りないとも思った。
けれど、著者がずっと「言葉がなぜ豊かな身体性を帯びるのか」というテーマを考えてきたというだけあって、このテーマに深く関わる章ほど、論じられている内容が面白いとも感じた。
私は特に、「見る」ということについて論じられた章をとても興味深く読んだ。同じものを見ても、人によって見え方・感じ方・受け取り方が違う。それを実感に富んだ表現として表すことによって、ことばが生々しさを獲得するのだ、という説は非常に興味深く、また説得力があった。
あと、これはこの本自体の内容とはちょっとズレることなのだが、正岡子規の作品を、私は好きなんだなぁ、としみじみと感じた。
こう言ってはなんだけど、子規はいわゆる「天才」肌の歌人ではないと思う。けれど、なんというか、彼の作品ににじみ出る「思いやり」……を、私はひどく好きなのだなぁ、と最近になって実感してきている。
私は子規について、詳しいことは何も知らないのだけど、それでも彼の作品には、彼の「思いやり」の視線がにじみ出ているなぁ、と思うのだ。
なんと言えばいいのだろう……彼の視線には、「健やかさに対する思いやり」が感じられる気がするのだ。
もちろんこれは、彼自身が重い病の身であったことと関係していて、私がそのことを意識しているからだろう。しかし、どうも、それだけではない気もするのである。
「思いやり」とは時に独りよがりで、自意識過剰なものにもなりうる。実際、子規にはどこか断定的で、独善的なところがあったのではないか、とも思う。
けれど、それでも彼の「思いやり」、それも健やかで健気なものに対する思いやり、が私にはとても、献身的で透明なものに思えるのだ。そして、その思いやりが、私は彼の歌や句に息づいているような気がするのである。