投稿元:
レビューを見る
ネットメディアのコミュニティを様々な角度から検証する。
各論の話題が拡散してしまっていて、通底する統一的な論証が浮かび上がっていない感が否めない。
が、ところどころ、光る指摘がある。99%編者の遠藤薫さんの指摘だが。
・だが、かつて「コミュニティ」はそれほど素晴らしい世界であったのだろうか?厳しい生活環境、身分制度、因習にとらわれた世界は、まさにわれわれがそこから解放されることを望んだ世界だったのではないか?
・確かに、今日の〈コミュニティ〉問題は、われわれが「コミュニティ」という言葉からイメージする「かつてあった社会」の喪失問題ではない。それは〈帰属〉の問題であり、〈アイデンティティ〉の問題である。
・今日、〈コミュニティ〉という言葉が人びとの心を惹きつける、その要因の一つは、ギデンス(1992)も指摘するように、後期近代のただなかで、われわれの〈親密性〉への希求が高まっていることにある。近代の進行の過程で、われわれは、かつて「コミュニティ」を不可欠のものとしてきた機能--生産、教育、安全、相互扶助など--を商品化してきた。最終的に商品化されずに残った(と想定される)ものが、〈親密な関係〉性である。
・コミュニティの本質はコミュニケーションの可能性にあり、したがって多対多のインタラクティブなコミュニケーションを可能にするCMCNは、その特性によってただちに、「コミュニティ」であるといえるかもしれない。
・友枝(1998)は、ポストモダン社会における人びとの世界認識の特徴として、以下3点を挙げている:
1.人類学的〈知〉の展開にともなう進化論およびヨーロッパ中心主義的な見方の後退
2.大社会から小社会へのシフト
3.科学的知識と物語的知識を同等に扱う視点
・日本のコミュニティ概念にアメリカのような自ら選択したコミュニティという「住民の自発性」は想定されていない。
・民主主義とは、何よりも個人のエンパワーメントを支援するシステムであり、それは裏を返せば、個人のエンパワーメントなしに、現代人が政治的無関心や政治的シニシズムから脱却して、公共的意思決定に積極的に参加し、他者視点を自己のうちに取り込みつつ、建設的な論議を行うことはあり得ない、ということでもある。
・現代においては、〈コミュニティ〉とはいわば「どこにもにない場所」の代名詞であり、ときに夢見がちに、あるいは戦略的に、あるいは政治的に用いられているといえよう。