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吉村昭を何冊か読んだところで、50年ともに暮らした津村節子のほうを読んでみたくなって、吉村没後にまとめられた本を借りてみた。福井にうまれ、両親を早くに亡くした津村がいちばん長く共に暮らしたのは夫の吉村昭だった。
▼夫との五十年の歳月を"ふたり旅"と言うならば、思い出はみな遠く去ってしまい、胸にあるのはかれが病いに侵されてからのことのみであった。しかし「ふたり旅」を書きながら、楽しいことも、嬉しいこともあったのだなあという感慨を抱いた。(p.253、あとがき)
タイトルから、吉村昭との「ふたり旅」のことがメインなのかと思ったが、もとは『津村節子自選作品集』(岩波)の巻末に掲載した"私の文学的歩み"の後を書き継いでまとめたものだそうで、津村自身の生い立ちから、吉村昭との出会い、家庭のこと、家族のこと、そして自身の創作のこと、吉村の文学のことなど、いろいろ書かれている。
福井で生まれ育った津村は、9歳で母と死に別れ、その後、一家で東京へ転居し、戦争末期には母の実家の埼玉へ疎開している。1928年うまれの津村が女学校に入学した昭和16年の12月8日が真珠湾攻撃で、戦局が緊迫するにつれ、防空訓練や教練などに一層授業が削られるようになったこと、空襲のさなかの東京で挺身隊員として軍需工場で働いていたこと、そして文部省の科学研究補助技術員に応募して6ヵ月学んだ後、小林理学研究所に勤務した話は、そんな学びのルートもあったのだと知った。津村は、昭和19年に父の急死にあっていた。
▼私は、家の事情を考えて、専門学校や女子大学に進学することはあきらめていた。だが、毎日ただ接続筺のリード線のハンダ付けをしていることに焦りを感じ始めていた。戦争が終ったら、学年の半数は上級学校に進学する。私は正規の勉強をしたのは女学校三年生までで、しかもその間防空訓練、救急看護訓練、農場作業などに授業を割かれることが多くなった。学徒動員も始めの話ではひと月に一日は学校へ戻って勉強出来るということであったが、実際にはすでに廃止されて、しかも女子の残業も行われるようになっていた。
(略)私は迷うことなく[養成所の]写真科を受けることにした。女学校在籍のまま養成所に通い、女学校卒業と同時に養成所も卒業する仕組みである。私が進学組ではなく挺身隊組に決めた時、姉が後悔しないかと何度も念を押したが、わずか六箇月とはいえ専門的な勉強が出来て、科学者の助手として働くチャンスが与えられるのである。ひと月に二十円という補助金も有難かった。(p.44)
この養成所は、「戦力増強のため、科学技術を総結集してこの困難と立ち向わねばならぬ」(p.43)という主旨で、「約1200名の科学戦士を養成する」(p.43)ものだった。授業は一日六時間びっしりで、「物理、写真化学、写真光学、映画学などだったが、理数系が苦手の私だったのにどの授業にも興味が湧き、如何に勉強することに飢えていたかを思った」(p.46)と津村は記している。
戦後、同世代の男たちが戦争で大勢死に、「結婚相手がいなくなったからには、一生出来る仕事をするための技術を身につけねばならない」(p.78)と津村は漠然と考えてい��。ドレスメーカー女学院が新入生を募集していることを知り、「プロになりたいの。技術を身につけて稼ぎたいの」(p.79)と家族に切り出し、ドレメの月謝や教材費は投資と考えてもらいたいと思っていた。父が死んでから一家が全く無収入になってしまったことが津村には不安でならなかったのだ。
姉の賛成を得て、津村はドレメへ通い、本科卒業後は、姉と一緒に洋裁店をひらいた。着物を洋服に仕立て直す注文も多く、店は繁盛した。そんな時に、津村は新聞広告に吸いつけられる。
学習院大学に短大が設立され、その第一回生を募集するという広告だった。借りていた店を返すことになったとき、津村は姉に、学習院の短大を受けたいと言った。戦中に十分勉強のできなかった無念さ、学歴がないことの引け目… そして津村は受験して合格し、若い同級生らと学んだ。津村は短大に新たに文芸部を作り、そのときに大学の文芸部長だった吉村と出会っている。
少女小説を書いて生計をたてていたこともある津村は、「小説を書くために、一生結婚はしないつもり」(p.116)だった。その津村が吉村と結婚した経緯には、吉村の弟の存在が大きい。夫婦そろって小説を書いていく苦労、賞をとれるかどうか、世に出られるかどうかの焦燥、月々の決まった収入がないなかでの生活が長かったことが、本の後半では書かれている。
吉村が自作のことや取材の経緯を書いたものを先に読んでいたが、津村の目に同じことがどのように見えていたのかという意味で、この夫婦の話は興味深いものがあった。吉村が書いたものと津村が書いたものとをあわせて読むと、ぴったりではなくて、当然ちょっとズレがあり、そのせいで過去が立体的に見えてくるような気がした。
津村は、この本に戦中戦後の体験を綴っているが、それらを作品化したものが、『茜色の戦記』、『星祭りの町』、『瑠璃色の石』で、これらは青春三部作だと思っているそうだ。これらとともに、生まれ故郷の福井に題材をとった長編の数々──『炎の舞い』(越前古窯)、『遅咲きの梅』(石田縞の復元)、『白百合の崖』(山川登美子の評伝)、『花がたみ』(越前和紙)、『絹扇』(春江の絹織物)は、いずれ読んでみたいと思った。
他の女流文学者との交流を書いた部分では、ここの箇所がおもしろかった。曽野綾子がピンクのヘルメットというあたりがとくに。
▼芝木[好子]さんが女流文学者の会長になられてから、時々曽野綾子さん、原田康子さん、岩橋邦枝さんらとよく旅をした。私が海外旅行をするのを吉村は好まなかったので、曽野さんは、そんな無理解な夫をピンクヘルメットをかぶって脅しに行きましょう、と言っていた。私たちは"花の五人組"と称していた。吉村は、「花だって?」とおかしがっていた。(p.190)
岩橋邦枝は先日亡くなった。この人の『評伝 野上彌生子─迷路を抜けて森へ』も読んでみたいと思う。
(6/8了)