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東海道あるいは中仙道沿いの品川から板橋辺りが住宅地で、渋谷・新宿などは辺境の地。そんな時代(江戸から戦後復興を向えるまで)の奇譚集。今どきこのような作品に出会えるとは驚いた。
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半分いくまで、よくわからなかったことが
後半全部つながって、どんどん面白くなる。
正直、最初の3編は意味が分からず??な感じでしたが。
染井の桜
黒焼道話
茗荷谷の猫
仲之町の大入道
隠れる
庄助さん
ぽけっとの、深く
てのひら
スペインスタイルの家
特に隠れる〜てのひら の4編が泣ける。
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ダ・ヴィンチ2008年12月号
「今月のプラチナ本」
2008年12月1日(月)読了。
2008−114。
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なんと言ったらよいのか。
読み終わりたくなかった本。
妙な残照が短編それぞれにあり、それがリンクしてゆく。
100年の時間をとおして語られる市井の人の陰影。
著名な作家を思わせる人物も登場し、ただものではない「名も無き人々」が独特の人生を紡ぎだす。
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「ただ僕が思うに、きっとこの人は御主人さんの手柄を残したかったんやな。意味はわからんでも、書いた人がその一心やったのはわかる。文は思いやからな」−『ぽけっとの、深く』
「染井の桜」、読み始めたがなかなか入り込めない気がして一度本を置く。別の本を先に読もうかとも思うが、一晩置いて改めて読み始めた。時代ものは少し苦手だ。しかし、その最後の頁で急に泣けてきた。本当に急に。あれ、なんでこんな感傷的な気持ちになるのだろう、と考えて、それが言葉に託されることの無かった思いに対して沸いてきた感情であることに気がついた。
一篇毎にゆるやかに時代が下ってゆく。少しずつ現実の出来事とリンクしながら。そういう手法には実は身構えてしまうのだが、徐々に気にならなくなっていく。時間という次元だけが変化して、その他の次元がそこに在った物質的な存在以外の一切合切を全て包括して漂ってゆく、というイメージが沸いてくる。思いが、人という媒体を通してではなく、その人の存在した空間に染み込むというイメージを最初に自分に教えたのは保坂和志の「カンバセイション・ピース」だった。久しぶりにその時に体験した感覚、それは鳥瞰図のように地平を眺めるような感覚で四つの次元の外に立ってしまうような感覚を、味わう。
この本の中では時間という次元を越えて受け取る人を待っている(いや恐らく待っているという言い方は余りに希望的すぎる言い方だろう、それはむしろ誰に伝えるでもなく残されたという方が現実的であるだろう)思いが溢れている。人は、符丁のようなものを其処彼処に容易に見つけ出してしまう生き物だ。見出してしまっては自らの思いにそれを重ねてしまう癖がある。だからこそ、この本に溢れている語られることのなかった思いたちが、あたかも時を越えて受け取る人が現れるのを待っているかのように見えてしまうのだろう。そして、そう思うことが希望的に過ぎると解っていながら、思いの空間への定着という考え方に心が動くのだろうと思う。そのオートマトン的脳活動を止めることはできないのだ。
もちろん、思いを言葉にしてみることはできる。しかしその行為に、託す、という要素がある限り、思いというのはいつも言葉に正確に乗っていくということを前提と置くことはできないだろう。それにもまして、思い、とは意味ではないだろうという思いも自分の中には強くある。
今では滅多に耳を傾けることはないけれど、10代の頃に傾倒していたある歌手の詩にこういうフレーズがある。「例えば此処で死ねると叫んだ君の言葉は必ず嘘ではない、けれど必ず本当でもない」。つまり思いというのは、何か一つの確定した意味を持つものではない、ということをこの詩は端的に言い表している。しかし言葉は受け取る者に意味を要請する。内田樹が言うように、一つの意味しか表わさない言葉(「メタ・メッセージ」)と「多義的解釈に開かれている」言葉があるとはいえ、いずれも意味を読み取ることを要請するのだ。その読み取りは大概において、開かれている、と思うのである。そこに思わぬ狭間が生じてしまうことも珍しくない。
まして時が経てば、その意味を成り立たせるための前提(コ��テクスト)も変化してしまうだろう。でも何故か、時折、出会うのである、確かに受け取ったという感覚のする思いに。その言葉に託された思いが、時間も空間も、あるいはもっと根本的に言語すら越えて伝わってきたと、時に、思うのである。
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九つの短編からなる連作短編集。連作といっても、はっきりしたものではなく、一つ一つは密やかに繋がっている。
舞台は幕末から戦後、高度経済成長が始まる頃までの江戸、東京。
どれも淡々と流れ行く物語ばかりだけれど、日々を生きる普通の人々の繊細な心情が浮かんでくるようでした。
「隠れる」の耕吉さんのラストには唸ってしまった。なんてままならない人生。しかも、耕吉さんのその後が「てのひら」で明らかになるけれど、結局逃れられなかったのか・・・。
思うにゆかない人々の心情がそれぞれの形で淡々と紡がれています。
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幻想的連作短編集。その短編内では結末ははっきりせず、他の短編内で種明かしが成されたり、その後がほのめかされたり。Y君のつぼでしょう。内田百?を読まざるを得なくなった。20090112
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なんとも・・・不思議な短編集
少しずつ話がリンクしているのが好みでした
庄助さんの話は切なかったな・・・笑いの大学を思い出しました
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どこまでも淡い印象が確かに残っている。
江戸から高度経済成長あたりまで、東京各所をところどころ覗きながら時代を下っていく。
4次元中の、決して交差する事の無い8つの人生。
各話が微かに繋がっているから連作といえば連作かもしれない。
けれど、その繋がりは微かで、登場人物もまたその繋がりを意識せずに情報の一部として語っている。
それは私達の日常の中にはもちろん、どの物語にも言える事だろう。
「染井吉野」がその例だ。
桜の品種名として頻出しているが、それを作った人の物語は誰も気に留めない。
そう考えれば、今のこの日常生活も過去や未来のまったく知らない他人の連作としてなっているのかもしれない。
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幕末の江戸から昭和の東京にかけて、9人の話が重なりつながる短編。
一人ひとりは関係がなくても、不思議とつながっていく。
幻想的な面もありながら、確実に、此岸の話。雰囲気が好き。
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びっくりするくらいおもしろかった。
作者、男だとばっかり思ってましたけど女なんですね。
登場人物みんなどっかおかしいです。
その按配が絶妙でした。
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時代がちょっとずつずれて、主人公や家が微妙にかぶっている短編なので戻ったり進んだりと忙しくページをめくっておりました。楽しかったですよ。こういう絡み合った短編結構好きです。
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東京で生きる人の生活や思いを綴った9つの短編集。幕末~昭和の時代を追っていて、前の短編の登場人物の行く末を知ることができる。わかりやすくはないさ、ばらつきはあるが、「庄助さん」「てのひら」はよかった。
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少しずつリンクしている短編集。
自由きままなその日暮らしの中年 関わりたくないと思っているのにどんどん行動が裏目に出て隣人が近づいてくる「隠れる」、年老いた母親とその娘の話「てのひら」が印象に残った。
どの話も少し暗い印象がある。「てのひら」はなんか悲しくなった。
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2010.11.08. 書評をどこかで読んで、チェックしていた本。ゆるゆる読んでたんだけど、この本に流れる空気がとても好きな感じです。良いです。少し昔の日本は、少しの不思議をたくさん内包していたんだろうなぁ。