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シムノンの最高傑作ともいわれる、半ば自伝的な作品。
パリの貧しい家庭に育って後に画家となったルイ・キュシャ。
小柄でおだやかで、あるがままに周りを見ている風変わりな男の子でした。
突き飛ばされてもけんかせず、先生にも言いつけなかったために、ちびの聖者というあだ名がつく。
天才の独特な視点の描き方がなんともいえない感動を呼びます。
手押し車で野菜を売っている母親は明るくて美人だが、シーツで区切ったベッドの向こうにたいてい男を引っ張り込んでいる。
シーツの穴からそれをのぞいている兄と姉といった暮らし。
貧しいながらも個性的な登場人物のそれぞれの姿が、光や空気やにおいの向こうにありありと浮かび上がります。
1965年の作品。
メグレ警部シリーズで有名なシムノンは、1903年生まれ〜1989年没。
ベルギーの貧しい家庭に生まれ、15歳で学校をやめ、パンや本屋などで働き、新聞記者となり、18歳で小説デビュー。
ミステリ以外でも評価が高く、300作以上の小説を書いて世界中で5億冊も作品が発行されているそうです。すごいですね〜!
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20世紀初頭のパリ。
4歳半の主人公のルイ・キュシャはそれぞれ父親が違う11歳半になるブラディミール、9歳のアリス、7歳の双生児、6か月のエミリー、そして母親の7人でムスターフ通りに暮らしている。
母親は手押し車に野菜を乗せ、市場で売るのを生業としている。
彼女は夜になると家に男を連れ込む。
男は一晩だけのときもあれば、一か月ほど滞在するのもいる。
タイプも職業もまちまちである。
ルイは年齢の割に小柄であまりしゃべらない無口な子で常にうっすらと微笑んでいる。
なぜなら、彼には嫌いな人がいないから。
家にいるときには、いつも窓辺に座って通りの景色や色彩、人々の印象を眺めているのが好きである。
小学校へ入学したルイはある時、兄から貰ったビー玉を学校の上級生から取り上げられる。
殴られても教師に告げ口せず、とうとうルイは上級生にビー玉を差し出す。
以来、彼は『ちびの聖者』と呼ばれるようになる。
ブラディミールは品物を盗んでは藁蒲団に隠し、双生児は家出を繰り返す。
アリスは父親が誰かわからない子供を身ごもる。
ルイは学校へ行く前に母親と市場へ行き、仕事を手伝うようになる。
その後、ルイは絵を描くことに興味を示し、やがて画家になる。
「おまえは笑わないね。幸せかい、ルイ?」
「とても幸せだよ、ママ」
「他の家に生まれたほうがよかったんじゃないのか? 足りないものは何もないのかい?」
「ぼくにはママがいる」
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パリ下町の貧民街と中央市場を舞台に、無垢で繊細な少年が、無理解と暴力に穏やかに向かい合い、ついには人々の賞賛を集める画家に成長して行く過程を描き、「ニューヨーク・タイムズ」がシムノンの最高傑作と折り紙をつけた作品。
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原題は“Le Petit Saint”。たしかにプチは小さいという意味だから「ちび」でもまちがいはないだろうが、同じような題名でも聖者が王子に代わると『星の王子様』になる。「小さな聖者」あたりが穏当な訳ではないだろうか。もっとも、背丈が足りなかったせいで懲役免除になるくらいだから「ちび」と訳した訳者を責めるつもりはない。
『メグレ警視』シリーズで有名な、シムノンのこれはミステリではない本格小説。貧しい生まれの少年が後に有名な画家になるというストーリーは自伝的な要素を感じさせる。作者偏愛の一篇と言われている。パリの旧市場レ・アルで働く下層階級の暮らしを、吹きだまりのようなムフタール通り界隈を舞台に詩情豊かに描きあげた滋味あふれる佳編である。
主人公はルイ・キュシャ。市場で手押し車に載せた野菜を売る母親の稼ぎで一家が食べねばならない貧しい家に生まれる。父親のちがう兄姉たちと狭い部屋で秣の匂いのする藁布団を並べて寝る生活。間仕切り用のカーテン代わりに掛けられたシーツ一枚で隔てられた向こうのベッドでは母親が男と寝ている。シーツの破れから覗き見た母と男の情交が後に画家となるルイの見た原光景となる。
ルイは無口な子で、人から何を聞かれても「知らない」と答えるので、祖母は知的障害ではないかと疑うほどだったが、学校に通うようになると主席をとる。しかし、学業には関心がなく、朝早くから母の手助けをして市場に通うことを好む。苛められても先生に告げ口をしない性格から「ちびの聖者」というあだ名がつくのはこの頃だ。
やがて第一次世界大戦が勃発し、兄たちは兵役にとられ姉は結婚。ルイ一人が母親との暮らしを続ける。仕事帰りに通る街角のショーウィンドウに飾られた絵の具と運命的な出会いから、ルイは絵を描くようになる。絵の具を売ってくれたシュアール氏は後に画商となり、ルイの絵を売り出すようになる。
一人の少年が有名画家になるまでの歩みを描いたストーリーには特に事件が起きるわけでもなく、画家仲間の逸話に溢れているわけでもない。淡々とした筆致は、ルイという人間の他人とあまり関わりを持とうとしない性格からきている。かといって人嫌いでもない。部屋の窓や出かけた先でルイは人間を含むあらゆるものを飽かず眺める。ルイは「見る人」なのだ。
シーツの破れから母と情人との姿を窃視する冒頭のシーンが象徴するように、主人公は薄皮一枚を隔てて現実と接している。彼が穏やかに見えるのは、他人に直接触れないからだ。薄皮一枚が彼と世界を隔てている。彼は現実を見たままに描くこともできるが、そうはしない。彼が描きたいものは「空間のきらめき」であり、それは彼の中にしかない世界である。
終末にいたり、主人公の長兄は麻薬売買の親玉となって服役中。家出した双子の一人はベドウィンの娘と恋仲になり、アフリカで囚人部隊に入り戦死。もう一人はガラパゴス島に渡り、蝶を追い続ける。物語としては彼らの軌跡を辿る方がよほど面白いはずだが、作家は、兄弟の命を奪った戦争も兵隊の服や旗の色として捉えてしまう画家を主人公に据える。
色や匂いに充たされた外の世界が如何にきら���きに満ちていようと、作家にとってそれは描きたいものの素材でしかないのだろうか。パリの下町に暮らす人々の生活臭漂う描写を堪能し、主人公の家族、特に奔放で自由に生を謳歌する母親の姿に上質の小説ならではの愉楽を覚えながらも、作家自身が投影されているだろう主人公にはどこか内心を覗くことを拒絶されているような気がしてならない。