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20代女性を扱っていた津村さんが、女子高生に!
相変わらずのセンス!
アザミ!俺はニルヴァーナに今はまってる!
年代的に、周りに話せる奴いねーんだ!
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4作目を読了。どの作品もそれぞれ印象がちがう。
今回は音楽好きな高校生、アズミの日常。
矯正器のゴムの色、小学校時代の思い出、文化祭での閉じ込め事件、アニーへの心のこもったメール、東京弁先生の進路指導、トノムラとのつきあい……。そしてなによりも音楽。行動派チユキの存在も頼もしい。
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「ミュージック・ブレス・ユー」の津村記久子は自分の好きな津村記久子である。「カソウスキ」や「婚礼」の津村記久子も嫌いではないのだが、このアザミのような、どこへ行くのかまったく解らないままじりじりとした感じで時の流れに棹さす主人公と思しき登場人物、自分探しのようでいて自分自身のことの解らなさを肯定的とも否定的とも断定しないままであり続ける人物を中心におく津村記久子が好きなのだ。ひりひりとした焦燥感へ落ちていきそうでいて落ちず、中途半端なまま現実に留まり続ける強さのような無頓着さ、ともするとその中立的な立ち位置が作家自身のしたたかさと重なって見えてきて好もしいのである。但しその中立さは常に真ん中を歩き続けることで成立しているのではなく、右と左を同時に歩くことで結果として成立する中立さなのであるけれども。
人生を肯定的にも否定的にも判断しかねるという感覚は、今日の若い世代にとって極めて現実的であるに違いない。三無主義と勝手に名付けられた世代の若者であった自分たちは、今の飽和した欲望の時代に希望を持てないでいる若者世代に、隔世的な親近感を覚えてしまう。自分たちの世代は、高度経済成長を駆け抜けた70年代(そう言えば「70年代われらの世界」というNHKの番組がありました)とバブル景気に湧いた90年代のハザマに人生の行く先を悩んだ世代なので津村記久子が主人公に投影する「未定」の感覚が解るような気がするのだ。そういう十把一絡げ的な単純化はあり得ないとは思いつつも、どうしようもなく津村記久子の小説に惹かれてしまうのである。
ただし、自分たちの世代は90年代を経た世代と違いモノに対する憧れまだがあったように思う。何かを持つこと、それは例えば高価なものでもよく、またありふれたものであってもよかったようにさえ思うのだが、それは詰まるところ知りたいという根源的な欲望が残っていたということなのかも知れない。一方、津村記久子の描く主人公たちはモノに溢れた環境を過ごしている。あるいはモノに張り付いている情報に溺れていると言い換えることもできるようにも思う。モノに飢えていた自分たちは何かを「知っている」ということを単に命名的に捉えがちな詰め込み教育の世代でもあるが、知ることの体力的金銭的対価が下がった世代にとってただ「知っている」ということは何も意味を持たない。「知りたい」の本質的な意味を最初から問われている。その感覚は実は自分が人生の盛りを迎えた頃にようやく気付いた感覚でもあるのだが、そのことを肌感覚として理解している世代が人生の行く先を見極めようとする時代に、では自分たちは本当は何を知らなければならないのだろう、という疑問に容易に辿り着いてしまうことの切なさは理解できるような気がする。津村記久子の小説を好ましく感じるのは、案外そういう理屈で説明できることのようにも思う。
そういう割り切り方で好きな作家のことを考え直してみると、例えば津村記久子と自分の世代のちょうど間の理解し得ない世代に位置する柴崎友香を好もしく思う感覚は彼女の描き出す「新鮮な視線」であるように思う。一方、川上弘美に対して感じるのは、突き詰めて考えると、同世代に対して感じる「共感」だと言える。そのどちらの感覚にも似ているものが津村記久子への思いにはある。そして当然のことながらそのどちらとも似ていない感覚で津村記久子の小説を読んでいるのではあるけれど。その感覚を今はまだ自分の言葉に置き換え得ないもどかしさも、また正直な感覚としてある。
津村記久子の小説の主人公が、溢れる価値観の中から選び取るもの、それは案外と単純な正義感であるようにも思うのだが、そのことがお仕着せの倫理から生まれたものではないことに、自分は希望を感じる。こんなことが案外津村記久子を好もしく思う大きな要素なのかも知れないと思ってみたりもするのである。
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内容(「BOOK」データベースより)
アザミよ、ヘッドホン1個耳に引っ掛けてどこへ行く―。オケタニアザミは「音楽について考えることは、将来について考えることよりずっと大事」な高校3年生。髪は赤く染め、目にはメガネ、歯にはカラフルな矯正器。数学が苦手で追試や補習の連続、進路は何一つ決まらない「ぐだぐだ」の日常を支えるのは、パンクロックだった!超低空飛行でとにかくイケてない、でも振り返ってみればいとおしい日々…。
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◎第30回(2008年)野間文芸新人賞受賞作品。
2009年6月13日(土)読了。
2009−61。
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受験を控えた高校三年生のアザミ。やりたいことは「音楽を聴くこと」。そんな自分に誠実に、でもまわりの人にも心を配りながら過ごす日常生活のスケッチ。受験も就職も終わった私にしてみれば、最後に残るのは自分の中に残る情熱だけ。流されがちな自分に、踏みとどまることの美しさを教えてくれた本。
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芥川賞を受賞した作家。〈内容〉大阪の高校生。音楽を聞くことが生き甲斐。落ち着きが無くて、受験で忙しい周りの友達から浮いている。
会話とかノリとか、高校生の日常を上手くつかんで入るなあと思う。しかも、ただ日常を描いているだけでなくいくつかの事件もあってメリハリがある。卒業にあたって、淡々としているのがよかった。
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松チョイで紹介されていて気になった小説です。
でも思ったより読みごたえはありませんでした…。
表紙のイラストは好きですvv
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津村さん色々かくなぁ。
でも、これはちょっとなかだるみしすぎかな。
名前もよくわかんなくなるし。
ポトスライムくらい短くて、いい気がする。
歯の矯正をだしたのは面白かったけども。
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自分が大阪人なので余計なのかも知れないが、読みやすくて一気に読んだ。
もう高校を卒業してだいぶ経った今でも、なんかあの年代の青臭さを思い出し、夜寝る前に「もう二度とあんな年頃には戻れないんやなー」と切なくなって涙がちょっと出た。
そしてチユキのことをこんな正義感あふれ、ちょっと大人びた友達が欲しかったなとか、自分は高校時代なんて何も考えずに幼かったんだろうと思った。今も変わらんが。
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嫌いじゃないけど、まあ他人の思い出か何か知らないけどあまりおもしろいと思えなかった。普通の高校生の‥とか何とか帯にあったけど、別にそんな共感もしないしだらだらな会話と心が延々、で、ちっともはまれなかった。話の感じと質量が合ってないというか、長いと思う。
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なんであたしはこんなに自分のことがわからんのやろう。――好きな音楽の事だけは熱心に語り、あとは全てうだうだ、ぐだぐだした毎日を送る女子高生、アザミ。アザミの脈絡なく流れ出す思考に唯一ついていける友達のチユキは、アザミには冷静で的確なアドバイスを与えるものの、自分の恋愛がらみになるとキレが悪くなり、自分の感情をもて甘し気味。
そんな二人が交わす会話がなんだか面白い。
特別な理由はない、いや、正確には心の底でなんとなく分かるモヤモヤしたもの、その本能に従って後先考えず行動する。
潔いのは若者の特権だなあ。
何を考えているのだか自分でもさっぱりなアザミの、それでも少しだけ前向きになるラストがよくて、応援したくなった。
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前半部分はこの人の書き方に慣れなくて読むのが大変だった。
中間部分で慣れてきて、それからは、普通に。
掴みが甘いのか、読みたいという気持ちはわかなかった。
それでも、最後の終わり方はまぁまぁ好きだった。
全体的にわかりにくい。表紙負け。
カタカナ語が多くて読みにくい。洋楽の話だから仕方ないんだけど。
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高校生のだべり。
まったく同じじゃなくても、多かれ少なかれ、こんな感じの時代が、誰にでもある。
だらだらとした感じだけど、こんなだったよ、実際。
登場人物の名前が、カタカナでみんな同じような感じなので、
誰が誰だか、最初よくわからなくなる。
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周囲に足並みを合わせず、自分の速度でしか生きることができなかったことへのつけだった。雰囲気に流されることもとても大事なのだ。なんで? などと問うのはいけない。誰にも答えられることではないからだ。かといってこれから、同い年の人間の認識に追いつこうと駆け足になるということも想像できない。
(P.193)