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長い抑圧から経済発展やそれに伴う民族や社会の解放への可能性の時代1881年に父であるヘルマン・カフカはOsekという田舎町からプラハへうつる。そして裕福な出のユーリエと結婚。1883年7月3日カフカは昔ゲットーのあったプラハのユダヤ人街の一角で生まれる。フランツ・カフカはチェコ文化で育った父からドイツ語で育てられドイツ語の教育をうけ官僚をめざし法学部を卒業し法律事務所にも研修したが裁判所で1年働いた。のち民間の生命保険会社に就職したが激務すぎ本当は異国での生活もあこがれていたが、休暇のないのに不満を感じすぐにやめて公務員になる。チェコ・プラハで生涯根無し草として過ごす。父はユダヤ系であったがシナゴークにも通わなかった。1917年オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊まで激動の時代もプラハで過ごす。幼少期はドイツ系が暮らしやすかった町のようだ。だが次第にドイツ系はチェコ人の8%程度であった。偉大な詩人は実は生計の為に弁護士をあきらめ公務員として働いていた。勤務時間が短いからだ。だが、ドイツ語を話す人たちからはユダヤ系ということでドイツ人とみなされなかった。カフカは自身で次第にアイデンティティーをユダヤ人として意識するようになる。世紀末の東欧の歴史は非常に複雑なので激動の時代を生きたカフカの生涯を通して当時のプラハの町に興味のある方にオススメする。
プラハはプシュミスル家の創始者で設立される。その王妃リブシェは息子のネザミスルに自分の曾孫が政治を統治するときにユダヤ民族を助けると国家は繁栄するだろうと告げたそうだ。リブシェが無くなった100年後リトアニアやロシアにいたユダヤ人はヴェンデ人によって追放されて10年間世界をさまよい最終的にチェコにたどりついた。そして9世紀半までその地で暮らしていたらしくチェコにはユダヤ人がかなり前から暮らしていた事がわかる。
1781皇帝ヨーゼフ2世のユダヤ人への緩和作。が、言語はドイツ語と規制。ラビもドイツ語で話す必要があった。
フランツ・ヨーゼフ1世は更に緩和しユダヤ特別税を廃止、1860年から完全な平等市民権を獲得。開放が完了した第2世代がフランツである。
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[2010年おわるまでの500冊よもう!]
はて、いま何冊目だ?
装丁がかっこよく、中身も期待できるかなと思った。
たしかに、一定レベルは超えていると思う。
一定レベルというのは、
文章の質が難解すぎるということなく程よくて、
それなりの資料のもとに書かれている、
いわゆる書物としての基準はクリアしていると思う。
ただ、ところどころ、本当にそうか?と思う部分があり、
カフカはこうだったのではないか、
カフカにはこう生きていたのではないか、という憧れ・理想が反映されて意見が述べられているところがあった(つまり飛躍)。
冒頭で、「無数にあるカフカ研究は、全体を解釈するうえでたしかな基盤にはなりえない」と述べており、そのあとに「本書はこの点を十分に承知している。恣意的な描写を行う意図もない」とつづけている。
しかし、この本も「無数にあるカフカ研究」の一部になってしまった感がある。それか、もう少し掘り下げる必要があると思うので、このページ数(189ページ)では足りないと思う。
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カフカという作家ははっきり言って特異な作家である。ユダヤ人でチェコ語を母語としながら、チェコ語ではなく上流階級の象徴とも呼ぶべきドイツ語を巧みに操り(もちろん、本書ではチェコ語も堪能であったことが言及されているが)、チェコ語系の大学ではなくドイツ語系の大学に通っていた。学校ではドイツの民族主義、チェコの民族主義、社会主義の話題が飛び交い、ユダヤ人であったカフカは疎外感を感じていた――そんなカフカ像が描き出される本書は、プラハの街並みを紹介しながら、カフカの言語体験の特異性に迫ろうとする迫真的な試みがなされており、その成果はカフカという作家に対する認識をより一層深めるものとなるだろう。