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「意識の流れ」という手法を使った作品を読むのは初めてだったが、なかなか好感を持った。他の作品とは違った種類のいわく言い難い感動や恍惚感があったように思う。
《クラリッサは、わたしを連れていって、と衝動的に思った。だが、次の瞬間、全五幕の芝居を見終わったような気分に変わった。とても感動的で興奮する芝居だった。自分もその中で一生を過ごした気分。ピーターと駆け落ちし、一緒に暮らした。でもその芝居も終わった。》P87
こことか凄い感動してしまった。刹那的な想像のほとばしりとその満足感。そしてその満足感が人の生きるエネルギー(行動するエネルギー)を生み出している事実。それをこんなにも鮮烈に捉えるとは。この一文を読むまで、無意識にうごめく日常的な空想が、人の生命活動とこんなにも密接に関わっているだなんて、意識したことがなかった。一挙に認識が降りてきた感じ。凄い衝撃を受けてしまった。「意識の流れ」の手法の面目躍如という気がする。なんというか全体的に、読んでいると時間感覚が外部から体内(意識内?)に戻ってくる感じがして、身を委ねたくなる。
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『ヒロインズ』からの流れでヴァージニア・ウルフ。
女子大の英文科だったのでウルフを専攻している子は多かったのだけど、当時は女子大でフェミニズムというベタさに反発もあったりして(今思えばその反発こそベタである)、これが初ウルフ。
ロンドンのある一日を、ダロウェイ夫人を中心に彼女と関わり合いがある人々の交互に変わる視点から描く。複雑な構成のはずだけど、彼女が道で人とすれ違うと、彼女からその人へと語りが変わるという感じで、道を歩くように、歌うように、人から人へ、現在から過去へ、変わりゆく想いが綴られていく。
『かわいいウルフ』という文学同人誌が出てますが、これはまさにかわいい小品。今まで読んでなかったのがもったいない。
翻訳は『わたしを離さないで』などで知られる土屋政雄。ナラティブが変化していくのに、全編、詩のような美しさ。
恵まれた暮らしをしているようにみえるダロウェイ夫人をはじめ、出てくる人たちがみんな少しづつ不幸で、美しい文章に垣間見える影もまた魅力的でした。
「一度、サーペンタイン池に一シリング投げ入れたのも覚えている。でも、誰だって何かを覚えている。わたしが愛するのは目の前のいま、ここ、これ。では、何が問題なの(とボンド通りに向かいながら自問した)。この身はいずれ跡形なく消え失せ、目の前のこれはわたしなしでつづいていく。それの何が問題なの? 妬ましい? でも、死がこの肉体の絶対的終わりでも、それでも何か残るはずだと信じるなら、これがつづいてくれるのはむしろ心慰むことではないの? ロンドンの通りに、物事の消長の中に、あそこに、ここに、わたしは残る。ピーターの何かも残る。互いに相手の中に残る。わたしは確実に故郷の木々の一部だし、あのつぎはぎだらけの醜い屋敷の一部だ。そして、まだ出会ったことのない人々の一部でもある。近しい知人の間にわたしは霞のように広がり、霞が木の枝に支えられるようにその人々に支えられ、わたしはーーわたしの生はーー限りなく遠くてへ広がっていく……。」
「人生は価値あるものを何一つ(巻き毛も、笑顔も、唇も、頬も、鼻も)ミリーにくれなかった。だから、その魂は人生によって汚されることがない。」
「シャフツベリ通りを行くバスの中で、自分がいたるところにいる感じがすると言った。「ここと、ここと、ここ」ではなく(と座席の背もたれを叩いた)、ありとあらゆるところにいるーーそう言って、シャフツベリ通り全体を手でなでるようにした。このすべてがわたし。だからわたしを(いえ、ほかの誰でも)知るには、わたしの形成に関係した人々を、そして場所を、すべて探し出さなければならない。言葉を交わしたこともない誰か、通りで見かけた女、カウンターの向こういた男、さらには木々や納屋にさえ、わたしは不思議な親近感を持つ……。」
「いまから一日がーー始まると言ってはいけないか。女がプリント地の普段着と白いエプロンを脱ぎ捨て、青いドレスと真珠に着替えるように、一日がいま変化した。安物を脱ぎ、紗に着替え、昼が夕方に変化した。安堵のため息とともにペチコートを床に放る女のように、夕方は埃と熱と色を振り捨てた。」
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ドイツの音楽家マックスリヒターが、ウルフ原作のバレエ音楽の作曲をしていて、この作品を知った。
世界的に有名な女流作家といえば他にブロンテ姉妹やオースティン、パールバックなどがいるけれど、ウルフの作品からは最も純度が高く痛々しいほどの女を感じる。
ブロンテ姉妹やオースティンの作品は、物語として筋が通っていて、長いながらも読者が型を見失わない作りになっている気がした。
ダロウェイ夫人の場合、一つ一つの動作や空気感の描写が優れているがゆえに全体像が見えにくい。
扱っている時間的な流れは小さいのに、絶えず繰り広げられる感情のスペクタクル。
まさに、有機的で予測がつかない女性の繊細な心を表していると思う。
面白い話なんて起承転結の型が分かってればある程度書けそう(それなりの才能があれば)だけど、このようにありのまま心情の波をなぞったような美しい作品は稀有だと思う。
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ダロウェイ夫人のロンドンでの一日のお話。
たまたま切り取ったなんでもないようなある日の出来事の話に過ぎないようでありながら、自在に視点を変えながら、語りが重ねられているうちに人物の造形が立体的になっていく感じが読んでいてとても楽しい。
音とか匂いの小道具で時間と場の共有を暗示しながら、一瞬すれ違ったと思ったら、ばちんと視点が巧みに転換していくのが小気味良くて、なんとなくロバートアルトマンの群像劇を見ているような感覚を思い出しました。
その一方で死の気配が色濃く漂ってもいて、最期に自死を選んでしまったウルフ自身のことが思い浮かべずにはいられなくて、身につまされる思いでありました。
もし、いつの日か、できることなら、ロンドンで同じルートを歩きながら読んでみたい。
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淡くて美しい、まさにロンドンの6月のような文章。ラベンダーやヒヤシンスの香りが漂ってくるよう。
一方、権威への恐怖や自分の狂気への恐怖、同性愛に違い感情等も描かれているのが意外だった。
細部を読む小説だと思う。
ウルフは難しいと言われている通り、最初は、意識の流れや事実を流れるように織り交ぜて描く手法に戸惑った。
でも、普段自分達の意識や考えもそんなものだし、そういう小説として距離を取って読むと途端に細部の美しさが花開いた。
『ダロウェイ夫人』が発表されたのは1925年。大正14年。日本では普通選挙法が施行された年。
私の祖母はすでに生まれている。
その時イギリスでは、第一世界大戦の深い爪痕を、特にミドル〜ロークラスに残しながらも、
(ハイクラスが始めた戦争だろうが、実際に打撃を受けるのは彼らではなく、そして彼らに戦死した者達の死は意味を及ぼさない、なんてこともこの小説の中には示されている)
一方では豪奢で19世紀的なパーティが開かれている。
そのパーティの主であるクラリッサが、パーティの日の1日、ロンドン内を散歩し、起こった出来事と考えを流れるように描いている。
ウルフの「時」の描き方が好き。
「広場の濃い茂みのあちこちには、強烈な光がまだしがみついている。夕方が蒼ざめ、薄れていく。」
「夕方をそこに串刺しにした。引き止められる夕方。」
ビッグベンの刻の音とともに。
時をこんな言葉と共に感じられるなんて、なんて贅沢。
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生きることを歓び、パーティで幸せそうに振る舞うダロウェイ夫人。でもその心の奥には、恐怖や悲しみがあふれている。本心を押し込めて日常の美しさを眺める姿が、上流階級の女性の典型的な生き方のひとつだったんだなあと思う。自分の周囲にもいそうな気がする。
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イギリスの女流作家。初期の“Jacobʼs Room”(1922)あたりから伝統小説のプロットや性格概念に対して実験的再検討を試み、”Mrs. Dalloway”(1925)や”To the Lighthouse”(1927)などで刻々と移り変わる人物の意識の流れを叙述していく方法を確立
ウルフは外側のリアリズム、すなわち人間の外面的なものをいかに現実らしく書くかを重視した19世紀のリアリズムを否定し、独自の新たなリアリズムを作り出そうとした。
いわゆる実験小説と呼ばれる彼女の三つの作品、『ジェイコブの部屋』『灯台へ』『ダロウェイ夫人』を比較してみると、それぞれの作品における客観的時間の長短は極端に異なっている。
『ジェイコブの部屋』→ジェイコブの幼少期から戦争に出て死ぬまでの20年間
『灯台へ』→10年を挟んだ前後それぞれ1日づつ
『ダロウェイ夫人』→朝起きてからパーティーまでの10数時間人物を外側からでなく、内側から描こうとする。
『灯台へ』においてもウルフはこの方法を採用しているが、実験第一作『ジェイコブの部屋』では多数の人物を登場させ、各場面でそれらの人々の目に映るジェイコブを描いたが、それに比べると、彼女の技法の用い方はその時より効果的になっている。
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6月のある朝、ダロウェイ夫人はその夜のパーティのために花を買いに出かける。陽光降り注ぐロンドンの町を歩くとき、そして突然訪ねてきた昔の恋人と話すとき、思いは現在と過去を行き来する。生の喜びとそれを見つめる主人公の意識が瑞々しい言葉となって流れる画期的新訳。
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感想が上手く書けないけれど、ゆっくり反芻してみている。そんな小説。
ロンドンのストリートが交差し、全ては同じ空間ヘ、時間も空間も超えて、交差し、つながっていく。
道行く人も人生を変えた人も、今というこの瞬間につながる感覚をふと覚える。
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イギリス貴族社会・中産階級社会の俗物性を描きつつ、それで世の中が成り立っている側面を認めながらも、それに対する違和感を拭えない人々の独白を重ねていく。「私」とは?人生とは?幸せとは?屋内のパーティーの俗物性と屋外に広がる暗闇の虚無。その境界にある窓際が象徴的。
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印象派やマリー=ローランサンの絵画のような淡い色彩を思わせる作品。全体的に少々退屈で、主人公ダロウェイ夫人がお上品すぎるきらいはある。ただ、第一次大戦に従軍した青年セプティマスのPTSDに苦しむ心理描写や、ダロウェイ夫人の回想の中の女友達とのキスシーンなどは大変素晴らしい。
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登場人物の環世界(主体にとって知覚できる空間・時間)が織りなすシャボン玉の中で、バスケやサッカーでボールをパスしあうように、次々と主観がシャボン玉からシャボン玉へ渡り歩いていく、と私はとらえています。
1つの主観が、別のシャボン玉の客観になっていくところが面白いです。また、それぞれのシャボン玉がよくできているのが、バージニアウルフの読み応えだと感じました(この本しか読んでないけど)
アガサクリスティの「春にして君を離れ」も、主観からはじまりそれを俯瞰していきながら人間模様が暴かれていく(環世界の狭さ愚かさを赤裸々にしていく)話で、なんか似ている気がします。イギリスの女性作家の特徴なのかも??