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西田幾多郎の友人でありライバルであるらしい田辺元の本を読んでみたいなと思っていたら、岩波文庫で次々に出版された。絶妙なタイミング。
さて、ほとんど予備知識もなく読み始めてみる。全体に西田幾多郎の哲学よりも読みやすく、わかりやすいが、ところどころで納得がいかない。とりわけ最初、「媒介(絶対媒介)」という概念が把握しきれず困惑したが、どうやら彼はヘーゲル的弁証法に則って、止揚(アウフヘーベン)をひたすら目指しているようなのだ。その止揚の過程において「否定即肯定」されていく、前段階の要素を「媒介」と称しているらしい。
なぜそんなに止揚したがるのかと思ったが、どうやら個・種・類という各段階をつないでゆくのが、この「止揚」の機能だからなのだった。
「個人」のうちにとどまろうとしない田辺哲学は、西田哲学ともハイデッガー哲学ともちがって、人間社会とか国家を射程におさめる点で新しい。
けれども、この哲学が侵略戦争をひきおこす全体主義的国家観にまきこまれる危険性を否定できないと観じた。
編者藤田正勝氏の解説を読むと、田辺は全体主義国家は戦前から否定していたようではあるが、自分の哲学がそういう時代の思潮に対立しえないことを戦時中に悔やんでいたらしい。
そこで次の『懺悔道としての哲学』に到達する。
では、次の巻を読み始めよう。