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いつも立ち寄る本屋さんで発見。帯には『異なる言語の話し手は世界の見え方が違う?!-最先端の審理実験に基づく、科学からの回答』とある。
私がこの本を読んで考えていたのは、聴者にとっての「手話言語の空間・動き・時間・認識」の困難さのことだ。
いつも手話の読み取り学習をやると感じるのだけれど、手話を読もうとしたら口型からの情報を「認識」しつつも、眉毛の上下、うなづきだ、上体の前後だ、などと空間認識にすぐれた能力が求められる。しかしそもそもそうした「三次元の言語を説明」しようという「言葉」がないのだから困難を極める。
まして「空間には基準となるスケール」がない。つまり「身体の斜め前」といっても具体的には①「手首」を、②身体の右45度に、③胸の高さで、④右胸から30センチ話した位置で・・など空間に固定された手話の動きひとつ表すのもたいへんだ。
さらに⑤手の形も様々だし、これに⑥動き(移動)が加わったらホントお手上げだ。
「モノとモノの間の関係については、どこにも明確な境界線がない。私たちが存在する三次元の空間上に、空間関係をカテゴリー化するための線など引かれていないのだから。」(121ページ)
books190
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慶応技術大学環境情報学教授、今井むつみによる書。
ことばと思考の関係について、さまざまな言語の話者の認識の在り方を紹介しながら解説している。
「色」や「方向(前後左右)」「数」などの解説から、話者が世界をどのように切り分けているか、その多様性に驚かされる。
また、言語は世界を分割し、言語のカテゴリーが思考のカテゴリーと一致するといい、アメリカ先住民のホピ族の言葉と標準西洋言語との間には翻訳不可能なほど隔たりがあるとするウォーフ仮説について、大枠について賛成しつつも、それだけでは解釈できない事柄について実験の紹介を交え丁寧に解説されている。
ことばと認知において、動物の実験と人間の子どもと成人におけるさまざまな認知的な実験が紹介されているが、そのどれもが興味深いものだった。
ことばが、潜在的に思考を変容させるのは理解できるが、どのように思考を変容させるかについては、この本で挙げられたさまざまな実験例が示唆してくれる。多言語の比較における認識の違いが特に面白かった。
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【内容紹介(amazonより)】
私たちは、ことばを通して世界を見たり、ものごとを考えたりする。では、異なる言語を話す日本人と外国人では、認識や思考のあり方は異なるのだろうか。「前・後・左・右」のない言語の位置表現、ことばの獲得が子どもの思考に与える影響など、興味深い調査・実験の成果をふんだんに紹介しながら、認知心理学の立場から語る。(カラー口絵2頁)
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【目次 】
序 章:ことばから見る世界―言語と思考
第一章:言語は世界を切り分ける―その多様性
第二章:言語が異なれば、認識も異なるか
第三章:言語の普遍性を探る
第四章:子どもの思考はどう発達するか―ことばを学ぶなかで
第五章:ことばは認識にどう影響するか
終 章:言語と思考―その関わり方の解明へ
あとがき
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「異なる言語の話者は、世界を異なる仕方で見ているのかどうか」
心理学の実験データに基づき、解説されている。
言語によって物事の切り取り方(数の概念、動詞や名詞がどの程度詳しく別れているか)が異なるので、言語が異なると世界の見方が異なるともいえる。
しかし、言語が異なっても、共通認識として考えられる部分も多い。実際、乳児は母語を身につけるまでは、さまざまな切り取り方をできることがわかっている。
確かに異なる部分もあるけど、それでお互いに理解できないほどではないし、むしろ異なる側面を理解することで相互理解が進む。
発達心理学、認知心理学、脳科学(fMRIとか)の知見がわかりやすく織り交ぜられていて、広く読みやすい本だと思う。
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とても興味深い本でした。
日本に生まれて、日本語の観点で自然にものを見ている事を改めて知ることが出来た。
色を「明るい・暗い」の2語しかない言語や「1と2しかない」言語
世界中の様々な言語についても取り上げている。
その言葉を使いこなす民族の思考をいろんな実験から解く。
生き物としての人とねずみやチンパンジー・オラウータンなどとの比較もおもしろい。
まだ言葉を習得していない赤ちゃんたちの反応も面白く、子供の発達に興味がある方はぜひ読んでほしい。
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あたりまえのように、モノを考えるときは言葉で、日本語で考えています。その仕組みを解き明かす本です。
各言語によって、動詞の表現の仕方にも違いがある、と言うのはとても納得しました。だから私は英語の、ちらっと見る、じっと見る、その他いろいろな見るが、覚えられないのです。
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慶応大学の今井むつみ先生の著作。「言語がどのように我々の思考に関係しているのか?」 というラディカルな問いに挑む。
アメリカの言語学者、ベンジャミン・リー・ウォーフは、アメリカ先住民のホピ族の言語の分析をもとに、人の思考は言語と切り離すことが出来ないものであり、母語における言語のカテゴリーが思考のカテゴリーと一致すると主張した。今井先生は、これをウォーフ仮説、もしくはサピア=ウォーフ仮説と呼んでいる。
以下は、ウォーフの主張の大切な部分だと思うので、引用しておく。
”われわれは、生まれつき身につけた言語の規定する線に沿って自然を分割する。われわれが現象世界から分離してくる範疇とか型が見つかるのは、それらが、観察者にすぐ面して存在しているからというのではない。そうではなくて、この世界というものは、さまざまな印象の変転きわまりない流れとして提示されており、それをわれわれの心-つまり、われわれの心の中にある言語体系というのとだいたい同じもの-が体系付けなくてはならないということなのである。われわれは自然を分割し、概念の形にまとめ上げ、現に見られるような意味を与えていく。そういうことができるのは、それをかくかくの仕方で体系化しようという合意にわれわれも関与しているからというのが主な理由であり、その合意はわれわれの言語社会全体で行われ、われわれの言語パターンとしてコード化されているのである。”
今井先生は、このウォーフ仮説を手すりとして、
「人の思考に共通の基盤があるのであれば、言語自体にも規則性、共通性は潜んでいるのか?」
「言語を習得していく過程での子供の思考はどのようなものか?」
「異なる言語を話すものたちは、どこまで深く、相互にりかいしあえているのだろうか?」
「そもそも、本当の相互理解は可能なのだろうか?」
という、コミュニケーションの根源的疑問に迫っていく。編集工学の基本部分にも大いに関係する著作。
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「異なる言語の話者は世界の認識の仕方も本当に異なるのか」という古典的な問いに、様々な実験データで答えるもの。異なる言語の話者だけでなく、言語を持たない人間の赤ちゃんがどう世界を認識するのか、という実験も紹介されている。
「サピア=ウォーフの仮説」や、その仮説は言い過ぎではないかという批判なんかは言語学を勉強すれば出てくるが、様々な理論的な話は置いておいて、実験してみるとどうなるのか、という話が書かれている。言語心理学(心理言語学?)というのをちゃんと勉強したことないので、こういう様々な実験結果から言語の多様性と普遍性という大きな2つの特徴に迫っていくプロセスがとても面白いと思った。
1章の「言語の多様性」については、本書でも書かれているが、他の本で多数紹介されているところであるが、何度読んでも面白いと思う。「パプアニューギニアのファス族の言語」では体の部位が数を表すのに使われ、例えば38は「二度目の小指まで行って再び最初の小指」と表す(pp.57-8)というのは、面白い。『もし「右」や「左」がなかったら』という本にも書かれていたと思うが、東西南北のような絶対的な基準によって物の位置関係を表す言語というのがほんと不思議だ。人はもともとこのような感覚を持っている、ということを初めてこの本で知ったが、そんな能力を、わざわざ右や左という言葉によって失うのももったいない気がする。この第1章の多様性も面白いが、それよりも、例えば「歩く」から「走る」に切り替わるタイミングはどの言語の話者でも同じ、という「世界の切り分け方」に普遍性が認められるというのがとても興味深い。言語は「多様性」と「普遍性」の両方で語られるべき、というのがよく分かる1冊だった。
関係ないが、p.217を読んで、英語の「歩く」の語彙を意識的に増やさないといけないと思った。(13/06/30)
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言語によって世界が切り分けられ、認識に影響を及ぼしているということ。一貫していってることは一緒やったけど、四章とかは発達の観点からみていて興味深かった。
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赤ん坊が3以下の数を認識しており、4以上は大まかな量としてしか扱ってないという研究結果が個人的に興味深かった。その実験の映像が思い浮かび、ほのぼのとしてしまった。
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第1章では、世界の言語はいろいろって話。数の数え方とか色とか。アマゾンの奥地で暮らすピラハ族は、1が、下がるピッチで「ホイ」、2が、上がるピッチで「ホイ」で、それより大きい数は「多い」みたいな言葉しかなくて、2つの「ホイ」も「1と2」じゃなくて「2と3」とかにもなったりするらしい。体の部位の名前を数の名前としている語もあって、左の小指からスタートして薬指、中指、・・・手、腕、肩、首といって小鼻までいくとこれが18、鼻先が19でその後は右側にいって右の小指が37にあたる。
位置関係についても前後左右を表す語がまったくない言語も多くあるらしい。
へーってかんじ。
第2章ではいわゆるウォーフ仮説を紹介し、検証する。前後左右を表す語がない言語の民族は東西南北の方向感覚に優れていて、家から100キロ離れた場所や、窓のない部屋の中で「家の方向」を正確に言い当てることができる一方、左右の概念は気にしないらしい。180度回転して「同じ順番」といわれ並べる順番も、日本語をはじめとした前後左右で位置関係を考える語族と絶対座標を使う語族では並べ方が逆になる、というように言語により認識が違うことを紹介する。
第3章では、そうはいっても言語間に言語を超えた普遍性がないかという検証。「歩く」と「走る」という日本語の基本動詞のほか、運動の様子を表す複数の動詞をもつ他の言語でも「走る」「歩く」の境は変わらなかったこと、「イヌ」のような(例示が難しいとは思うけど)どの言語にもある「基礎レベルのカテゴリー」の言葉はあること、名詞の分類方法は限られていることなど(一本」「枚」「匹」「頭」とか雑多な助数詞で分ける日本語タイプ、性によって名詞を必ず二分する言語タイプなど大きく3分される)。
第4章は、子どもの思考が言語とのかかわりでどう発達するか。生まれたばかりの頃は日本語話者の子どもでもrとlが聞き分けられるなどオープンだけれど、だんだん一つの言語により世界をカテゴリー化/ラベルづけするようになっていって「何と何が同じで何と何が違うか」という判断には言葉はとても重要だということ。そのほか赤ちゃんがどんな概念カテゴリーに親和的で直観的な理解が可能かなど。
第5章ではさらに、同一の「言語」の中でも「言葉」が「認識」にどう影響しているか、と別の角度から考える。同じ認識をした人どうしでも与えられた言葉が異なると認識が異なってくる。また、目からの認識で言語を使う必要のない場面でも無意識に言語を処理する脳の部分を使用しているという話など。終章ではまとめとともにバイリンガルについてなどを考える。
それぞれの話が面白くてこんな紹介のしかたになってしまった。実験結果で根拠も示されているから説得力があって安心して読める。一章ごとのテーマ設定も分かりやすくて最後まで面白く読めた。
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ことばを持たないと、実在するモノの実態を知覚できなくなるのではなく、ことばがあると、モノの認識をことばのカテゴリーのほうに引っ張る、あるいは歪ませてしまう(p66)
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ことばと思考、認識をめぐる論考。
言語の違いによる思考の違いだけでなく、子どもがことばを獲得していくことで、認識がどう形成されるのかを、さまざまな実験をもとに検討している。子どもがちょうど、言葉をどんどん覚える時期なので、娘も今、世界をカテゴライズして認識していっているのか、と興味深かった。
文章も読みやすく、秀逸。
(2015.3)
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「思考はことばで行うものであり、ことばのあり方が思考のあり方を決定している」と、つい言い切ってしまいがちだが、話はそれほど単純でないということを、異言語や動物や子供などに対する様々な実験の結果を紹介しつつ明らかにしている。ことばなしでもある程度世界の切り分けが行われており、それをより精密に切り分ける過程で言語の影響がみられるらしい。この本を読んで、ことばと思考の関係についてバランスのとれた見方ができるようになったように思う。また、様々な実験の内容が実におもしろい。
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ロバート・シルヴァーバーグの『禁じられた惑星』は「わたし」ということばが禁じられた惑星の物語。扉の紹介文を読んだとき、「わたし」の概念がない人々の話とはすごいと思ったものだが、それは早合点だった。「わたし」という言葉はあるのだが、その惑星の社会では使ってはいけないだけだった。では、「わたし」という言葉がなかったら「わたし」という概念は生じないのだろうか。
言語学の有名なテーゼにサピア−ウォーフの仮説がある。人間の認識は言語によって規定されてしまい、異なった言語を持つ人は異なった世界を見ているということである。これに従うならば、「わたし」という言葉がなければ「わたし」という概念は生じないのかもしれない。
認知言語学の入門書(『言語学の教室』)を読んだので、今度は認知心理学からみた言語。まずはサピア−ウォーフの仮説を提示し、心理学実験で実際どうなのかを解説していく。虹の色が何色かというのは言語学で有名な問題だが、色を表す基本語(「黄緑」のように複合的に作ったのではない言葉)の数は言語によってかなり違い、英語や日本語は多い方だという。極端には「明るい色」と「暗い色」と二つしかない言語もある。
フランス語やドイツ語のように名詞にそれぞれ性のある言語。ドイツ語は男性・女性・中性と3つの文法的性があるが、4つ以上の文法的性のある言語も存在する。
このように言語が世界を切り分けるさまが示された上で、言語が異なれば認識も異なるかが問われる。確かに文法的に女性の動物を示してオスかメスか問うと、その言語の話者は女性名詞の動物をメスととらえる率が高いといった実験がある。他方、「明るい色」と「暗い色」と二つしかない言語の話者も、英語の基本語の色、つまり赤や青は記憶しやすいが、複合語で示されるような中間色は記憶しにくいというように、言語を越えて、あるいは言語の背後で人間の基本的な認知能力に規定されている部分がある。すなわち、言語は認知を歪ませることがある。
そこで話は発達の問題となる。赤ちゃんの認知を調べると、かなりプレーンにいろいろなことに関心が向く。ところが特定の言語環境に置かれ続けることで、その認知はその言語の特性にそって歪んでいく。
いや、歪んだほうがいいのだ。ひとつはその母語にとって重要な認知に振り向けるという意味がある。そして知覚を超えて推論したりする能力を言語は与えてくれるので、それは生存に役に立つ。さらに、言語は認知に飛躍的な発達を可能にする。
これは本書には書かれていないが、プレーンに広がる赤ちゃんの認知は自閉症の認知に近い。自閉症の人は感覚の洪水に溺れてしまうので、様々な方法で感覚を遮断しようとするが、われわれは言語によって認知を歪ませることで、感覚を遮断しているのである。
そして大人においても、認知が言語によって歪む。例えば、図形を見せて記憶させる課題で、傍らに言葉を記しておくことで、その言葉に引きずられて記憶が歪むのだ。
結局、われわれの思考は言語というウイルスに感染した脳によって行われているというイメージなのではないかと評者は思う。「わたし」という単語のない言語の話者は、しかし、その言葉がなくとも「わたし」に類した概念を持ち、日本語の「わたし」を理解することができるだろう。しかしその「わたし」は日本語話者である「わたし」の「わたし」とは幾分違ったものにならざるを得ないだろう。
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難しかったけど、面白かった!
他の言語を知る意義に納得がいった。
こういう事を学校で教えてくれたらいいのに。