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最高に面白かった。
自分的にアニメと映画の根本的な違いや、21世紀的な映画、の話等々など。
特には、以前から黒沢さんの言説に現れていた「世界」についての説明が興味深い、と言うか、よくよく納得を。
結局いまのアニメ業界で「聖地巡礼」が流行っているのは、「アニメの裏側の世界」である「この世界」への紐付けをすることで、その作品のリアリティや強度を増したい、というのが有るからだろうなーと。
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大島渚講座を読みたさに購入。一見、バルトの「写真」論を映像に置換えたような凡庸な映画論だが、具体的な作品を論じているところはやはりさすがというか映画監督の「視点」というものを垣間見た。カントを引き合いに出すまでもなく、彼の視点もone of themなのだが、黒沢清的なものが覇権を握っている現状を鑑みると無視することはできない。
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黒沢清の喋り方は、元来じつに紳士的で、私は彼が壇上で喋る姿をティーンエイジャーの頃から眺めてきたが、その性質は、今も昔も変わっていない。映画監督という人種は、竹を割ったような断言やら恫喝的な物言いやらに自己陶酔を見出しているらしいタイプや、反対におそろしく口が重く、コワモテ顔で相手を煙に巻いてしまうタイプが、どうも少なくない。しかし黒沢清という作り手の場合、いくぶんか自己韜晦の気はあるとはいえ、誠実かつ繊細なその話しぶりが、彼の作品にいつも無視しがたく宿るあの感覚的な才気を、静かに証拠立てているように思える。
今回出版された『黒沢清、21世紀の映画を語る』(boid刊)は、日本国内、海外のさまざまな聴衆に向けて話された、自己の映画観の披瀝の記録である。したがって、「呼ばれたから、しかたなく喋らされている」といった自己弁護の様相が強まってはいる一方、その内容も必然的に、これまで以上に誠実かつ繊細なものとなる。東京という都市で映画を撮ること、フレーム外と意識の外に世界が広がっていること、人間を描くとはどういうことなのかということなどについての彼の率直な言葉は、読者に大きな果実をもたらすと思う。
私は以前、ある雑誌に黒沢清映画への疑念を表明した文章を書いたことがあり、そしてその疑念は依然として、キレイさっぱりと晴れたわけではない。また、本書にしても、私の疑念を晴らすには至らなかったことも、正直に告白しなければならない。それでも常に変わらず彼の活動は、私の半生にとって最大の関心事のひとつであり続けてきたのである。
とりわけそんな中、本書において大島渚に讃辞を傾けた章は、読み手としての私に意外の感を抱かせた。「黒沢清は、大島渚にそれほど関心がないだろう」と私は勝手に決めつけていた。ところが、そこで読む大島論は、凡百の研究者のそれよりもずっと刺激的で美しいものだった。
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映画監督・黒沢清の映画講演(講義)集。
連続講義「21世紀の映画を語る」「大島渚講義」以外は
“映画監督の語る映画小話”といった趣である。
「映画監督って偉そうに見えるけど、私なんかとてもとても、
いつも資金繰りで困ってるし、ロケにも困るし、失敗ばかりするし~」といった調子で、
聞き手を退屈させないような話が展開。
着地点がなんなんだかなー的なものもある。
ニューヨークのサマーキャンプで映画のお勉強にきた
慶応幼稚舎の生徒に話してる講演とかもあるので
同じネタも何回もでてくるし、まあ映画漫談ですかね。
ただ4回講義の「21世紀の映画を語る」は、読みどころはあった。
とはいっても、あいまいな内容の映画ばかり撮っている映像作家だけあり、
話はあくまでも断定は避け、
読んでいるこちらは真綿で首を絞められるような印象だ。
なので、私の力不足もあり、彼がここで語っている映画観を端的に短く書くことはできない。
ただ、語っていることして
「映画は基本的に世界を描くための技術」であり
その際に
基本的には
リアル=カメラの撮った映像、ドラマ=脚本(プロット・物語)、
と2つのものがあり、そのせめぎあいが“映画”である。
そして黒沢清という人は、撮影前に世界を限定してしまう
脚本というものの問題性を常に意識している。
ということが語っていることの根底にあるとは言えると思える。
そして結論としては
21世紀の注目すべき映像作家は
“河”的な場所でほのかに見え隠れ、
時にはずばりと目の前に露呈したりする、
外とそこに満ちている暴力に思いをはせている。
と述べている。
これだけだとさっぱり意味がわからないが、
それをじわじわと語るのがこの講義の論法なのだ。
あえて21世紀とすべき事柄なのか、
この提起にも、疑問を抱いたが、
明快に書かれていないので、
なんとも書きようがない。
真綿で首を絞めるような論法の結論に
ふさわしい内容といえるのかもしれない。
でも、面白い点は多々あった。
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映画には詳しくないけど、映画のインチキ臭さは伝わるし、迫真の演技も伝わる。でも、それは俳優だけの力ではなく、やはり監督があってのことなんだなぁ。当たり前か…
脚本の重要性と映像と音の重要性。
何事もそうだけど、作り手にならないと本当のところは見えないし、楽しめないんだなぁ。
僕はあまりにも外側過ぎる。
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"映画監督の黒沢清が語った映画とは何か?プロが考え続けていることの一端をかいま見ることができる。
映画とは、「画面の外側、画面から見えなくなったものについて思いをはせるもの」だということを『工場の出口』という映画黎明期の作品から説明している。この作品を見たくなる。映像を見ながら映画について語った講義を収録したのが本書。そんな機会があったら、是非参加したい。プロは映画を深く深く見つめ、歴史からもどん欲に学んでいる一端を見ることができる。そんな言葉に刺激を受け、もっともっと多くの映画を観たくなる。"
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黒沢清監督が映画について語る…というタイトル通りの本。とはいえ、俺が物申す!という上から目線な言い方ではなく、トークショーに呼ばれたり、講義の場において「映画」というものについて、「ぼくはこう思うんだけども…」とやわらかく語っていく。タイトルの21世紀の映画を語る。というのはそのタイトルで行った講義名。(しかも場所は映画館でどうやら4日連続で行ったらしい)21世紀の映画を切る!ということではなく、自分自身も映画監督という立場であるからこそ「映画監督」という仕事の実情について、世間が持っているある種の像を否定しつつ、ただそれでも生まれゆく映画について、もっといえば何が映画を「映画」にしているかを話していく。よく感想や批評で「映画とは!作家性とは!」と断定していくが、そうではないんだと、ある種の世間の映画や映画監督幻想を否定していきながら、それでも、というかだからこその映画の面白さを教えてくれるような本だった。黒沢清監督は口調こそ柔らかいし、とても読み心地(もしくは聴き心地)がいいけども、気がついたらちょっと思っていた以上の場所に連れていかれるような一冊でした。いくつか気になった映画が出てきたので、本の中で黒沢清監督が「ここをよく見ていてください」という言葉にのっとって、見ていきたいなと思いました。
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映画監督、黒沢清の講演を纏めた一冊。
映画とはフレームの外側の存在を信じられる映像である。映画館で映画を見ることは世界における自分の位置付けを感じられる。映画監督の共通する仕事はスタートとカットのコールで、どこからどこまで撮るかは監督のセンス。などなど面白い発見が多かった。