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北方謙三「史記 武帝紀」(全7巻)を読んでいる間、そこに登場する人物を原作で読んでゆくということを自分に課している。
そして今回の人物はコレ。
「公孫弘(平津候)列伝(第五十二)」
武帝が30代の頃の「政治家」の列伝である。低い身分の出ではあったが、最後は丞相としてトップに登り、丞相のまま死亡している。
この同時代の政治家を観る司馬遷の眼は厳しい。
「史記」にはいつも最後に司馬遷の全体評が載る。「公孫弘は行いが修まって義理(すじみち)の通った人であったが、やはり時流に乗った人でもあった。」と、曖昧な評価になっている。しかし、列伝本文の中では、「弘の性格は、疑いぶかくて人を忌み、外面は寛大そうにしていたが、内心は刻薄であった。かつて弘と対立して仲たがいした人たちには、表面的には親密を装っていたが、陰では彼らから受けた禍害に報復した。主父えんを殺し、菫仲舒を膠西(山東省)に移したのも、みな弘の力である。」とバッサリ書いている。故人とはいえ、同時代の自分よりは身分の高い人間への明らかな批判である。しかも、それは武帝批判にも繋がる。
一方では非常に質素で、「食事には肉の料理は一種に限り、玄米の飯をたべたが、旧知の人や親しい賓客が衣食の資を求めてくると、俸禄を投げ出して給与し、家には余財がなかった。」と公孫弘を褒めている。もちろん事実だっただろう。こうやって1人の人間の複雑な人間性が浮かび上がる。
人の良さと政治家の資質は違うのだ、とでも言いたげである。「刻薄」という言葉が強烈である。
北方謙三「史記」ではどう描かれているか。
公孫弘は、まだ喋り続けている。そばにいる張湯は、無表情だった。
言葉だけが踊っている。時にのびやかに、時に急迫しながら、言葉が踊り、劉徹の意思を確かめようとする。
やがて、公孫弘は、結論らしきものを出す。そこに、学識から出てきたものは、実際はなにもない。そこが、菫仲舒とは違うところだ。それでも、劉徹の心の底は、充分に読み切っている。
公孫弘が出した結論を、法家の張湯が冷徹な言葉に置き換えてゆく。
この二人は、まさに足りないものをお互いに補完しながら、ただ劉徹の意思の実現だけを考えている。
「もういい。わかった」
劉徹はそういい、公孫弘がなにを言っているか、ほとんど聞いていなかったことに気づいた。
「史記2」(201p)
北方謙三版でも、公孫弘は権謀術数を使う(野心家ではない)政治家として描かれていた。司馬遷の見方に似ているが、公孫弘を「刻薄」とは描かれていない。むしろ、優秀ではあるが、志のないテクノクラートとして登場していた。操っていたのは、むしろ劉徹(武帝)なのである。北方謙三版では、30代までの武帝は、政治家を意のままに操り、対外戦争も連戦連勝、きちんと描いてはいないが、非常に優秀な帝だった。
北方謙三版では、公孫弘は死ぬ場面さえ与えられてはいなかった。何時の間にか死んでいたのである。
2013年10月5日読了