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紙の本
著者は二村ヒトシ、AV監督だというが、この本の内容に照らして不思議でもあり、面白くもあり、という感じ
2011/12/10 10:26
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る
内容を知らずに購入したのだが(山本直樹との共著だと勘違い)、読み終わって、思わぬ拾い物という感じがした。
「恋」と「愛」の違いについて語られる。《「恋する」とは「相手を求め、自分のものにしたがる」こと》、《恋とは、「欲望」》だと言い、それに対し《「愛する」ということは「相手を認める」こと》だと、はっきり区別する。こうした二分法が単純すぎると思いながら読み進めると、自分に対する思いも「ナルシシズム」と「自己肯定」に区別し、《ナルシシズムが「自分への恋」だとすれば、自己肯定は「自分への愛」だと考えると、わかりやすいでしょう》と説明する。
これだけでもう、「恋」と「ナルシシズム」がやや否定的に考えられていると見当がつくが、著者は当然なことに《恋と愛の、両方の感情があるから「恋愛」》だと言い、ナルシシズムについても《完全にゼロの人は「生きがい」がなくなってしまい、きっと生きていくことができません》と書く、というか語る(本書全体がすべて喋り言葉で書かれているため中味に溶け込みやすい)。
この本が読者として、異性との関係に悩む、特に若い女性をターゲットにしているのは、そのタイトルや表紙、また帯の言葉(大きく「なぜか恋愛がうまくいかない女性へ」、小さく「自分を愛せるようになる7つの方法」とある)からも分かるが、「恋愛論」として男でも、また(その内容のレベルのせいで)若くなくても読むことができる。異性にかぎらず、人を人と関係づけさせる欠如の意識を著者は「心の穴」という言葉でカバーするが、その《心の穴のかたちは一人一人、ちがいます》と言うことを忘れない。《あなたが「自己肯定できるようになるために、するべきこと」は恋人の存在を使って心の穴をふさごうとすることではなくて、まず「自分の心の穴のかたちを、ちゃんと知ること」です》というあたりが恋愛論としての本書の眼目だろうか。
心の穴は、悪い親であろうと、良い親であろうと、普通の親であろうと、すべて親によってあけられたとあるが(親が最初からいないことは、それ自体が心の穴になるのだろう)、この著者の定式は何かを無視しているような気がする。だがこの本が読ませるのは、恋と愛の二分法にせよ、ナルシシズムと自己肯定の対立のさせ方にせよ、その混淆を意識的に捨象したと感じさせるからである。親から子供へと継がれるという「心の穴」の場合も、読者が想像力をもって埋め合わせることが可能なように語られていると思うのだが、どうだろうか。
ここでこの恋愛論を検証するために二つの「恋」をまな板にのせたい。一つは小谷野敦の小説「悲望」(二つの作品をおさめた『悲望』収録)であり、もう一つは増村保造の映画『妻は告白する』である。前者の主人公が男で、後者が女、また前者は作者がかつて現実に体験したことに近く、後者がそうではないことなどの相違は、この際、問題としない。
さて「悲望」において恋をする大学院生の「私」は、相手の大学院生を留学先にまで追いかける。その行為はほとんど一方的で、ストーカー的ともいえるほどだ。以前この小説を読んで感心したのは、作者が自身を戯画的に貶めるかたちではなく、けれど客観的にいえば相当に貧しく悲惨な一方通行的な恋を描ききっていたことだった。ふつうの恋愛小説にはない面白さがあるのは、そのためである。
前述したように本書には《恋人の存在を使って心の穴をふさごうとすること》への戒めが説かれている。「悲望」には、似たような反省が現在の作者によって記されているが(ただし相手は「恋人」ではない)、これは片思いの恋をしていた当時の作者に「自己肯定」というものが欠けていたのだろうか。
だが思うに、「悲望」の主人公にはちゃっかりとした「自己肯定」があり、それが彼をして恋する相手を追いかけがてらに留学させたりする。現在の作者に繋がる主人公が決定的なかたちで崩壊しないのは、相手が恐れをいだくような「自己肯定」の図々しさによってである(主人公には自身を自分にも人にもよく見せたい「ナルシシズム」は、むしろ少ない)。確かに通常の「自己肯定」意識があれば、早い段階で相手をあきらめ、ひっそりと一人で生きるのが普通であるので、小谷野的「自己肯定」と言うべきだろうか。《男は「インチキな自己肯定」が、できる》とも著者、二村は語るが。
一方、『妻は告白する』において恋をするのは、これまで恋らしい恋をしたことがなかった人妻である。彼女は薬学の助教授であるひとまわり年上の夫と、医局に出入りする医薬品メーカーの若い男と三人で登山に行った際、夫の命綱を切ってしまうが、そうしなければ残りの二人も死ぬしかない状況だったからだ。裁判がおこなわれ、夫を殺した女という世間的な指弾にあいながら、女は以前から好きだと思っていた男が自分をかばう姿勢に愛する気持ちを高めていき、婚約者のいる男もそれに応えていく。「悲望」の二人と異なり、『妻は告白する』の二人はやがて「恋人たち」となり、裁判で女は無罪となる。
だが男はあるとき女が夫を二人のために殺したのだと思い、急激に彼女への熱がさめる。女が男の会社に訪れ、男が冷たく拒み、洗面所で女が毒をあおいで死ぬことで、愛の物語は終わりをつげる。
さてこの最後のシーンで若尾文子扮する女はその絶望と憔悴の表情までもが美しい顔を洗面所の鏡のなかに見つめる。そこに一瞬、強烈な「ナルシシズム」のかけらを感じとるのは自然だろう。だが彼女は「ナルシシズム」や「自己肯定」からはるか遠い世界に向かう。
本書は少しでも恋愛に苦しむことから解放されたいために、また恋愛において幸せになりたいために、若い読者に読まれていることだろう。その点については良き簡略化がほどこされ有益であると思う。小説や映画のなかの恋や愛を読み、そして観るのは、そうしたことと目的や意識が異なるのかもしれない。