紙の本
「正解」はない。人気の書評家が考える「面白い書評」「ダメな書評」を知りたい方にはオススメ。
2011/06/29 16:52
4人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:YO-SHI - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者はプロの書評家(プロフィールには「ライター、ブックレビュアー」とある)で、「GINZA」「本の雑誌」「TV Bros」といった雑誌などで、書評を多数連載している。本書は、現在は休刊になっている光文社のPR誌「本が好き!」の、2008年~2009年の連載記事に加筆修正したもの。
「面白い書評はあっても、正しい書評なんてない」というのが、著者の基本スタンス。本書では、「粗筋紹介」「援用」「ネタばらし」の是非、「日本と海外」「プロの書評と感想文(ブログ書評)」という比較、といった様々な観点を設けて、具体的な「書評」を一つ一つ俎上に挙げて評していく。そうすることで「面白い書評」の姿を浮かび上がらせようというわけだ。
だから「面白い書評とは○○○である」式の「正解」を期待すると裏切られる。本書の内容を突き詰めると「私(著者)が面白いと感じる書評が「面白い書評」」ということだからだ。「粗筋と引用だけでも、立派な書評として成立する」と書いた直後に「逆もまた真」とあるし、「援用」は「両刃の剣」で、「援用の傑作」もあれば「牽強付会な援用」もある。つまり、大事なのはその「ちょうど良い加減」なのだ。
「ちょうど良い加減」を言葉で他人に示すのは難しい。だからこそ、著者は具体的な「書評」を例として出して、「これは良い」「これは悪い」と評するという手法を取ったのだろう。「粗筋は全体の何%まで」なんて書けば、それらしいものになるけれど、それではウソになる。著者はそんなウソはつけなさそうだ。主張が行ったり来たりして定まらないのも、著者の正直さを表しているのだろう。
その正直さは「あとがき」のこんな言葉にも表れている。「(前略)それはあくまでもトヨザキ個人の評価です。「絶対」ではありません。(中略)この本で展開している書評観や書評論自体、後年、わたしは自分自身で更新するかもしれません。」 著者が絶賛する書評を、私が少しも良く思わないとしても、それはそれでいいのだ。
特に、ある日の新聞各紙の書評を特A~Dで評価するという荒業が痛快。(5月22日の朝日新聞に、本書「ニッポンの書評」の書評が載っていたが、あれを著者が評価するとどうなるのだろう?)「正解」ではなく、人気の書評家が考える「面白い書評」「ダメな書評」を知りたい方にはオススメ。
紙の本
ブログ書評には厳しいが大いに楽しめるトヨザキ社長の書評論。
2011/12/12 15:59
3人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オクー - この投稿者のレビュー一覧を見る
僕、トヨザキ社長は大好きです。ハッキリ物を言う人はとにかく好き。
でも、豊崎さん、ブログ書評に否定的なんです。「ブログで書評を書い
ている皆さん、あなたがたは守られてるんです。安全地帯にいるんです
よ」と言われればまさにその通り、ブログをやってる私は返す言葉もな
い。「なぜ他人様が一生懸命書いた作品をけなす必要があるのでしょう
か。卑怯ですよ」「匿名の書評ブログを開設している方は、今後は愛情
をもって紹介できる本のことだけをお書きになってはいかがでしょうか」
と言われれば、ただただうなずくしかない。
光文社のPR誌に連載されたものをまとめたこの新書、前半は、粗筋
紹介というのも立派な書評だとか、ネタばらしはどこまで許されるのか
とか、興味津々の内容でとてもおもしろい。おもしろいのだけど、ここ
で否定された人。例えば、粗筋を一から十まで紹介しちゃう文芸評論家
とか、物語の肝を平気でばらしちゃう人に豊崎さんが言ってることが通
じるのだろうか?そーゆーわからん人はいくら言っても絶対にわからん。
このデリケートな問題を著者は例を交えながら丁寧に紹介してるのだけ
ど、プロでもアマでも通じない人には通じない(と思う)。それが、ち
ょっと悲しい。その後には、新聞各紙の書評五段階評価、「1Q84」
書評の読み比べなどもあり、本好きなら大いに楽しめる内容だ。最後の
「トヨザキ流書評の書き方」と大澤聡さんとの対談も貴重。惜しむらく
は、全体を通してツイッターで作家の渡辺某をメッタ切りにしてるよう
な迫力がないこと。もっとけちょんけちょんに言っちゃえばいいのに、
トヨザキ社長!
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書評の書きづらい本というものに、出くわすことがある。その多くは、本の内容と自分との間に補助線を引けなかったということが原因だ。しかし、本書は濃厚な補助線を引けるにも関わらず、実に書評が書きづらい。その善し悪しが、明解に訴求されており、何を書いても待ち伏せされている気分になるのだ。こうして、書き出しに慎重なケアを施している時点で、手の平の上の孫悟空だ。本書は、そんな書評のあるべき姿について語った一冊。鋭い切れ味でおなじみの書評家、豊﨑由美氏がメッタ斬りにしている。
◆本書の目次
第1講 大八車を押すことが書評家の役目
第2講 粗筋紹介も立派な書評
第3講 書評の「読み物」としての面白さ
第4講 書評の文字数
第5講 日本と海外、書評の違い
第6講 「ネタばらし」はどこまで許されるのか
第7講 「ネタばらし」問題 日本篇
第8講 書評の読み比べ - その人にしか書けない書評とは
第9講 「援用」は両刃の剣 - 『聖家族』評読み比べ
第10講 プロの書評と感想文の違い
第11講 Amazonのカスタマーレビュー
第12講 新聞書評を採点してみる
第13講 『1Q84』一・二巻の書評読み比べ
第14講 引き続き、『1Q84』の書評をめぐって
第15講 トヨザキ流書評の書き方
対談 ガラパゴス的ニッポンの書評 ー その来歴と行方 豊﨑由美×大澤聡
前半の争点の一つとして、ネタばらしの是非ということがあげられている。著者はネタばらしについて、断固反対の立場。<物語の勘所に触れなければ批評的な書評は書けないという意見に対しては「それはヘタだから」とお答えしておきます。>とまで言い切っている。しかし、これはフィクションに限定されることではないかと思う。ノンフィクションについての勘所は、読み手によって驚くほどさまざまであるケースが多いからだ
そんなわけで、自分が本書の勘所と思うところを思い切って挙げてみると、それはプロの書評について記してある下記の一文ではないかと思う。
プロの書評には背景があるということです。本を読むたびに蓄積してきた知識や語彙や物語のパターン認識、個々の本が持っているさまざまな要素を他の本がもっているさまざまな要素と関連づけ、いわば本の星座をのようなものを作り上げる力。それがあるかないかが、書評と感想文の差を決定づける。
つまり良い書評とは、本の外部要素を使って、いかにその本について語るかということが肝なのである。
しかし、それ以上にプロの凄味を感じるのは、「批判は返り血を浴びる覚悟があって初めて成立するんです。」という一節。匿名のブログやAmazonのレビュー欄での批判をしている人達に、ツルハシの一撃を加えている。こんな覚悟、到底持てやしない。これぞプロフェッショナル。
この一点を持って、本書は<その人にしか書けない一冊>なのである。辛辣な口調とはうらはらに、本書から滲み出る、強い愛情と覚悟。書評を書く全ての人におススメの一冊。走れ、書店に!
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独自の進化を遂げてきたガラパゴス的ニッポンの書評。文字数が少なく(約800~1600字程度が主流)、ネタばらしに厳しいのがニッポンの書評なのだとか。ネタばらしに関して著者は、絲山秋子(著)『ばかもの』のある書評を例に、書評におけるネタばらしの罪過について言及する。書評はこれからその本を読もうかどうか考えている人のためのもの(批評とは違う)なので、物語の根幹ともなるシーンのネタばらしは、初めてその本を読む読者の歓びを奪う行為になるのです。私も以前はエンタメ作品以外はネタばらししてもいいんじゃないかなと考えていていましたが、素人とはいえ不特定多数の目にふれる媒体に書いている以上、ネタばらしについてはもっと慎重であらなければと感じた次第。
著者の批評はAmazonのカスタマーレビューやブログで書評を書いている人たちにもおよび、ちょっと引用すると、
「ネットで書評をやる人たちに言いたい。あなたたちは適当に気楽に粗筋を書いているんでしょうけど、それを読んで買うか買わないかを決める人だって多少はいるんですよ。粗筋がちがうとか、登場人物の名前や役割が違うとか、別の話になっちゃってるとか、そんなずさんな書評がどれだけ作家の邪魔になっているか」
なんて話も出てくる。ああ、耳がちぎれるくらいに痛い。感想を書きとめておきたくてはじめた記録。こんな大げさなことなのであれば、もうブクログやブログに感想書くなんてやめようかなと思いましたが、ネット上に拡散した今までの感想文をすべて消すことは不可能、かくなる上は、今後はちゃんと読んでちゃんと書くという信念で感想を書きとめていきたいと決意をあらたにしたのであります。
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ブログで書評をしたり、Amazonのカスタマーレビューに投稿したりしている人には必読の一冊。
自分としては、粗筋紹介の大切さが力説されているところが一番はまった。人に本を薦めたいときに粗筋がうまくいえないのが悩みなので。
ちゃんと粗筋が言えないのは内容を理解していないから。自分の読み方についても考えさせられました。
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書評と批評の違いに対して、「読む前に求められるのが書評、読んだ後に求められるのが批評」という定義はお見事。著者は「批評〉書評」と見られがちな日本の傾向を指摘して、多数の書評で知られる自身が批評を書くことへの嫌悪を明らかにするが、著者の批評を一ファンとして読みたいと思うのは僕だけではないと思う。
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数々の書評を読み込まれ、それに対して批評をしながら、「書評」とは何かについて述べている(と思われる)本書。
多くの本と書評を読み込まれている。それはとても労力を要することだし、豊﨑氏の貴重な財産となっていることだろう。
それを元に書かれた本書は、一介の本読みの一人であるワタクシにとって、輝く宝物が詰まっているのかもしれない。けれど、残念ながらワタクシには豊﨑氏の文体が合わなかったのだ。とても有用なことが書かれているのだろうと思いつつも反感ばかりが先に立ってしまい、申し訳ないけれど途中から流すように読んでしまった。
この状況でいつもの「感想文」を書くのもいかがなものかと思いはしたが、備忘録としての感想文を綴っているワタクシであるからして、これは記録しておくべきと考えて、こうして書いているワケだ。
一冊の本に対する「書評」をいくつか並べて、批評するという試みは非常に興味深い。本に関するブログが氾濫する現在、検索さえすればいろんな方の感想を読むことはできるが、いかんせん手間がかかる。そして、その多くがいわゆる「シロウトさん」の書かれたものだ。原稿料を受け取って書かれる「クロウト」の方の書評を並べ読みできる媒体が欲しい。
豊﨑氏の批評の大部分には共感する。読者の楽しむ権利を奪う書評はいただけない。しかし、どこからを「ネタばれ」といい、どこまでなら許されるのか、それは個々人によって異なってくるので、判断は難しいところだろう。私なら、ミステリに分類される本は読む前に一切の「書評・感想」を読まないように気を配っている。簡単なあらすじは目にすることはあっても。
では、ミステリ以外の分野の本はどうなのだろうか。これも読者が自ら読みながら得るであろうと予測できる感動や驚きを削ぐ書評は、やはりNGだと考える。しかし、前述の通り人それぞれであるから、どの書評を良しとし、どの書評を悪しとするかの絶対的な基準はない。
しかしまぁ、アマゾンのレビューなり、「シロウトさん」のブログの書評なりを基準にして買う本を決める人など、そんなにいらっしゃるのだろうか・・・。私には理解できないのだけれど。
「シロウトさん」の書いた文章が本の売れ行きを左右するほどの力を持っているのかしら?と素直に疑問に思う。豊﨑氏はそのことを取り上げて、「シロウトさん」は自分の好きな本の感想のみをネット上で公開すべきと述べている。嫌いな本の感想までネット上にアップして、営業妨害する必要性はないだろうということだ。しかし、アマゾンのレビューも読んでみれば、それが信用に足るものか否かは判断できるし、それを読んで読む気がなくなる本であれば、それだけの本だったというだけのこと。それを上回るだけの惹き付ける力をその本自体が持っていなかったというだけのことではないだろうか。
タイトル買いの多い私は、読んだ結果、期待はずれとなることも無くはない。では、その本に関する感想はブログにアップするなということか。いやいや・・・、それはおかしい。タイトルで釣っておいて、内容が伴っていない本は少なくない。購入する前にどんな本だろうかといろんな情報を得る��格は誰にでもある。その情報の中には対象となる本を薦めるものもあり、買ってまで読む本ではないというものもあっていい。誰も彼もが褒めるだけの書評(「感想」含む)を書いていたら、それこそ参考にならないと私は判断して、本を購入する前に書評等を読むのをやめるだろう。
ま、豊﨑氏はブログ上に書かれたものも「精読と正しい理解と面白い誤読の上で書かれたまっとうな批評なら作者や読者にも届きましょう」と一応述べておられるので、ブログ上の全ての書評なり感想なりを認めていないと言うわけでもなさそうだ。
しかし、ね。匿名で書いている人間が他人の批判をするなんて卑怯だと言い切るのはいささか行き過ぎ。「あなたたちは守られているのよ、何かあればブログを放り投げて逃げてしまえるじゃない」というのだが、自分が積み上げてきたものを放り投げざるを得ない状況に置かれたことのある私にとっては、この一文は納得いかない。それがどれだけ辛いものか、豊﨑氏には理解できないようだ。自分自身の歴史の一部を葬り去るような痛みを伴うのだということをひと言述べておく。
ブログ上でハンドルネームを使っていろんな批評をしている人間の中にも、それなりの覚悟を持って書いている(全てがそうだとは言わないが)。「シロウト」は「シロウト」なりに、自分自身のネット上での名前を背負って書いている。豊﨑氏が「シロウト」のブロガーにどのような恨みを持っているのかは知らないが、「あなたたちは卑怯よ」と言われるのはいい気持ちはしない。
なら、ペンネームを持って書かれている「プロ」のみなさんも卑怯者なのだろうか・・・。その名前で信用を得て、仕事を貰えているのだから「シロウト」とは違うと反論されるのであれば、それは筋違いというものである。「シロウト」だって、自分のハンドルネームでいろんなネットワークを作ってそれ相応の信用を得てきているのだから。違いは、それでお金を稼いでいるかどうかの違いだけ。名前を捨てて逃げることで負うものはそれほど違わない。
とまあ、長々と書いてきたけれど、もう一度じっくりと本書を読むつもりではいる。もう少し気持ちに余裕のあるときに。それだけの内容のある本であるとは思うからだ。
今は「備忘録的な読書感想文」を綴っているだけの私ではあるが、いつかは「書評」というものを書けるようになりたいという目標がある。そのためのヒントをいくつか得ることができた。もう一度、精読してみたなら、更に何かを得られるかもしれないという期待がある。いくらかガマンを強いられる本だけれど・・・。
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書評ブログを取り上げた第10講、Amazonカスタマーレビューがテーマの第11講、具体的に新聞書評を採点した第12講、巻末の対談だけでも、オススメ。
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こうやって、何かしら読んだ本について記しているので、参考になるかもと思い、新聞の書評欄でみて読んでみる。プロの書評を書く人は確かにつらいと思う。ネタばらしをせず、読む気にさせなければならない。自分の意思でなく本を読んで書かなければならないし、文字数の制限もある。このブクログやアマゾンにレビューを書く人には参考になると思う。
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第1講(講義という体裁なので)のタイトルが「大八車(小説)を推すことが書評家の役目」となっていて、その説明が
「わたしはよく小説を大八車にたとえます。小説を乗せた大八車の両輪を担うのが作家と批評家で、前で車を引っ張るのが編集者(出版社)。そして、書評家はそれを後ろから押す役目を担っていると思っているのです。」P.12
のように書かれています。ここの部分を読んだ時、じゃ読者どこ? と思ったのでした。これについては後のほうで書評家と一緒に車を押すような記述がありました。
大八車、こういうものを知っている人がどのくらいいるのか、と思うのと同時に世代的に近いらしいことを知って安心しました。
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軽い感じで、けっこうキツイ事を主張されてます。私は、雑誌や新聞の書評をかなり参考にするタイプで、ネタばれしてても気になりません。むしろその方がありがたいです。
「○○を縦糸に□□を横糸に…」という表現を、使い古された比喩、と言っていたのが面白かったです。書評のあるあるネタです。
書評と批評は違うようです。よく昔の作家が、批評家とケンカしてるのを見ると、私は「だったら自分で書いてみい」と作家に肩入れして見てました。そうではなく、批評家をそれまでに読んだ作品と対比さ、独自のロジックを展開していくのが仕事らしいです。
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著者は様々な雑誌でライターとして活動後、現在も雑誌で書評を中心に活動しているいわゆる叩き上げ系のライターである。基本的には新聞や雑誌などのマスメディアにのせるための書評を念頭に議論しているが、アマゾンのブックレビューなどのネット上の書評に関しても言及している。巻末ではメディア史研究者の大澤聡と対談している。
① 書評と批評
書評の主な機能は紹介という特性の強いインフォメーション機能とクリティシズム機能の二つである。日本において書評は前者の機能の方が強く批評と明確にスタンスを異にする。一方でイギリスやアメリカなどの書評と批評は連続的である。これは日本の新聞・雑誌での字数が少ないという絶対的な制限に由来している。多くの日本の新聞の書評は300~1200文字であるのに対しイギリスの書評は(日本語翻訳で)2000~4000文字である。またこれは小説に関してしか適応できない点であると思うのだが、筆者は「ネタバレ」の程度が吟味されなくてはならないという点も書評に特有であるとして挙げている。
② ウェブと書評
筆者はプロのブックレビュアーとしての矜持からネット上のレビューがいかに無理解で短絡的なままに酷評したものが多いかという点について力説している。確かにアマゾンのベストレビュアーは「参考になった」の絶対数で決まるので質が低くともレビューの数が多ければベストレビュアーになれるという点は改善すべきである。つまり「参考にならなかった」という票も計算にいれてベストレビュアーの認定を行うべきだということだ。ある程度のリテラシーがあればウェブ上にどんな無理解な酷評があっても問題ないという意見には、それは買って読んで自分の見解を確定させたうえでのみ通じる論であり未読の人たちに紹介するという場においては不適切であると反論している。個人的には読んだあとにアマゾンのレビューを見て「へえ、そういう見方をする人もいるのか」程度で本を選ぶのにはあまり用いていないので、必ずしも筆者の反論があてはまらない使い方もある気もしますが。
③ 新聞の書評の未来
筆者は新聞上のレビューが「肯定的なものばかりで参考にならない」ということが生じやすい弱点も認め、同時に海外の新聞が日本のものに比べ批判的なレビューにも寛容である点を指摘している。よって新聞上のレビューに批評性を持たせるためには新聞社と出版の親和性を解消すべきだと主張している。そのうえで批判的なレビューに本の筆者自身が反論する機会が紙面に存在するのが理想であるとしている。
しかしこの親和性の解消はさすがにビジネスモデル的に新聞の枠内で修正できる範疇には無いのではないかと思う。それよりはむしろネット上でモデルを構築する方が効率的ではないだろうか。
本著を読むに際し食いでのある書評論というよりは薄味のあっさりしたレビュアーの雑感であろうくらいに期待していたのだが、思ったよりも多くの論点を潜在的に内包していたように感じる。筆者の書評を書くうえでの心構えは必ずしも全て自分がこれからブログ内で書く上で参考になるとは思わないが、過去二本のレビューを振り返ってみただけでも改善点の多さに赤面した。特に①スノビズム的な文章に陥らない②しかし自分のもてる見識はなるべく活かす③簡潔かつ興味を引くようにという点は自戒としたい。
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「第3講 書評の「読み物」としての面白さ」で紹介されている書評が、どれも
素晴らしかった。粗筋紹介、文字数、読者への読欲喚起など様々な制約が
あるからこその、書評の面白さだと思った。巻末の対談内容も興味深い話でたくさん。
MVP:なし
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僕は今まで色々な小説や芸術作品を観ても、「一流とそうでないものの違い」がよく分かりませんでした。
しかし、この本を読むと「一流とはどういうものか」非常によくわかります。
たとえば、この本の筆者である豊崎さんはいつも指定枚数の倍以上の分量を書くそうです。
そこから自分にまつわる部分を削り、知識のひけらかしに近い文を削り、
それでも削り足りない場合はどの引用を活かし、どの引用を捨てるのかという選択になります。
大抵のブログ書評家はここまでやれていないでしょう。
逆にここまでやらなければ、「感想」から「書評」「批評」に昇華できないのであります。
「自分にまつわる箇所を削ったら書き手の味がなくなると反論があるかもしれませんが、
そんな『雑味』が消えて面白くなくなったり個性がなくなる原稿は、
はなから文章の芸など存在していなかったのではないか自身の力量を疑った方がいい」
書評とは「本の星座のようなものを作ること」と豊崎さんは語ります。
様々な本を読んで蓄積してきた語彙や知識としての「背景」を、読んだ本の要素と結びつける作業。
それがあるかないかが感想文と書評との差であるそうな。
そもそもの読書量が少ない僕ではどう考えても感想文しかならないわけです。
amazonのレビューやブログ書評に関しても
・浅い読みしかできず、粗筋紹介も文章も幼稚でネタばらしまで行う悪意の産物
・自分の価値観にあわないものを上から目線で駄作と断じる浅はかさ
と痛烈。
レビューに限らず、2chを含めたネット全体に向けたメッセージと感じました。
本の最終章では豊崎流書評の書き方が紹介されています。
基本的なこととしては「一文たりとも読み飛ばさないこと」
「ダラダラ書くより400~800字と目標を定めるといい。字数の意識が一番足りない。」
おっしゃるとおりです笑 今後意識したいと思います。
今回は削る作業や文字数を意識して書いてみました。いかがですか?
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長くなってしまったのでブログに書きました。
[書評] 豊﨑 由美 / 『ニッポンの書評』: bookmarks=本の栞
http://bookmark.tea-nifty.com/books/2011/05/bookreview.html