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高橋順一 「吉本隆明と 親鸞」
吉本隆明 「最後の親鸞 」が 何を言いたいのか わからなくて、ギブアップ寸前に 偶然 見かけて読んだ本。
「最後の親鸞」の目線や難解用語をわかりやすく説明してくれている。この本のおかげで読めそう。
「最後の親鸞」の独特の目線
*「最後の親鸞」は 吉本隆明の最後の思想的テーマ(事後性、自立性)を扱った本でもある
*親鸞の思想的転機として、非僧非俗の立場(還相)を目付けし、宗教が最終的に解体されるプロセスを示している
「最後の親鸞」理解のポイント
*吉本隆明の親鸞像〜信仰を イメージから言語化へ展開させ、信仰の内面化、自立化を図った
*親鸞は 絶対他力説により、自力によって成仏するための修行、宗派の存在を否定し、煩悩や悪をまるごと肯定する形で還相の眼により救いあげる思想的結論に至った
「教行信証」を 親鸞の注釈付きの浄土門の教理の抜粋版と位置づけ、信の本質から 宗教の解体まで つなげる論調
事後性
*起源はつねに後になって明らかにされる=意味は記号表象によって生産される
*思想は 自らの起源を派生的、事後的なものと捉える
*思想は自らの経験から出発しながらも、起源と根拠は その経験内部でなく、経験の外部からやってくるものに、自ら否定することを通して、自らの起源、根拠を見出すことができる
*先にあるものは 実は後に来るものであり、後に来るものこそ先に来るもの〜最終的に後先の因果関係が解体されなければならない
親鸞は法然がとどまった浄土信仰の地点を踏み越えた
*因果論の否定〜念仏を唱えることが善と考えてはならない、善を積むから成仏できるなどとも考えはならない
*現世肯定〜悪に満ちた この世そのものが救いにつながらなければならない〜悪に満ちたこの世を あるがまま肯定することの中にしか、救いはない
*浄土へ往くことが救い(現世離脱の契機)を否定
*法然の専修念仏における他力を、親鸞は絶対他力へ、さらに絶対他力の方法すら解体する位相へ向かった
*18願すら解体し、全ての救いの根拠は解体された
理によって信を支えることはできない(理によって支えられてた信という構造が解体)
*理=専修念仏による他力説
*信=専修念仏の信
という構造が解体していく
親鸞の非僧非俗(僧にあらず、俗人にあらず)という立場
*僧として俗を易行道によって救いあげるのは 自己矛盾(理をバックに俗を教化することは誤り)
*僧であることを否定し、俗(民衆)そのものであることも否定
親鸞は、信を現世肯定の立場から裏付けた〜それが 非僧非俗や還相の立場
*煩悩や悪をまるごと救いとり、浄土への契機として読み替える
*還相とは、悪に満ちたこの世の内部に浄土という救いに向かうための思想的虚構
*念仏が救いにつながるかはわからない〜しかし、そこにしか救いは存在しないし、それだけが救いの条件
悪人=自力に頼ることのできない人間
面々の御計
*親鸞の信は保証されているわけではな��〜自分はこう信じているというだけ
*念仏を信じ申すのも、棄てるのも皆さまの心にまかせるしかない
*信を軸に形成される宗派が否定され〜一人が為という境地
信の本質
*外部にある陀仏を拝むことでなく、あるがままの自然過程の内の存在者として 念仏を唱えるということ
*自然過程内部なおける宗教性の契機が信の本質
*宗教性の契機は、自らを無化、解体へ追い込んでいく中にしか見出すことができない
自然過程の中の中に信という隙間(宗教性の契機)を生み出すのは 還相
*信は存在の自然過程の凹面のうちに宿る思想
*浄土の側から現世を見る眼差しを持つ私を生み出す
*還相=生の中に死の視点を先取り〜人間は生きながら常に 死からの眺望を生に繰り入れなければならない〜生き続けながら死からの眺望を獲得すること
*往相=生から死の方に生き続けること
*往相に対する還相の持つ意味は、事後性の問題〜言葉が予め意味を表現するのではなく、言葉が事後的に意味を作る