紙の本
歴史教科書ほど論争にならない盲点
2016/07/23 16:52
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投稿者:平良 進 - この投稿者のレビュー一覧を見る
いい宗教教科書を作るに際して、慢性的に不況な出版業界の問題が教科書出版社にも否定できないとの指摘は重要だ。政治家がおのが偏見をむき出しにして言いたいだけのことは言うが、実際に奔走する編集者や学者たちの苦労がどのくらい理解されているであろうか。
また、宗教がどういうわけか紛争や殺人などに結びついてしまう実情について、それを扱う地理科などと宗教科などとの連携がきちんとできていないなどの貴重な指摘もある。宗教学が専攻の著者ならではの視点であろう。
著者は最後に、価値中立ではなくて価値自由という認識が広く共有されてしかるべきではないかと述べている。必要とされている洞察ではないだろうか。宗教や哲学あるいは倫理は歴史教科書論争ほどは議論されているとはいいがたい。貴重な提言と受け止めた。
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倫理教科書解体新書・・・という感じ。
そういえば「勝利主義史観」ですよね。ユダヤ教ではだめだからキリスト教になったのだ・・・というようなステレオタイプな未熟な解説が高校生の教科書にも多いですね。
さらに、世界三大宗教ありきで、「アガペー」があり、「慈悲」があり、えぇっとぉ、もうひとつそんなんがないかなぁ・・・。
そうやそうや「喜舎(もてなし)」。
これをイスラムにしよう・・・・なんて。安直にセンター試験も作成してますよね。こんな教科書で大学入試まで学ぶから、掛け声ばかりで国際人が育たないんですよね。
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高校倫理の教科書で、宗教はどのように扱われているのか、扱い方にどのような問題点があり、どのような改善をすべきなのか、ということについて、他国の、宗教が扱われている教科書と比較しながら述べたもの。
「価値中立的」であるはずの教科書なのに、実は、様々な偏見や序列化を生み出し、さらにはある特定の価値を押しつけようとする構図になっているという点を解説している部分が、目からうろこで、印象的だった。例えば、ユダヤ教→キリスト教、小乗仏教→大乗仏教、浄土宗→浄土真宗、など、自然と後者が前者に勝るという図式が作られている点など、言われてみないと気付きにくい。教科書を安心して読み込まずに、たとえ教科書であっても批判的に分析する視点を持つことの大切さが分かった。
「なぜ異文化理解として宗教を知ることが必要なのか」という点の考察(pp.194-8)の部分が興味深い。「他者を知り、受け入れ、尊重する」、「差異を認める」ということは、単純に良いこととされているが、それらは具体的にどういうことなのか、ということを考えさせられた。「異文化理解」、「異文化教育」の意味について改めて考える必要がある。
最後に、「教科書の宗教記述の中途半端さは、このような意識―価値中立ではなく価値自由と呼ばれてきたもの―の欠如による」(p.222)とあるが、教育自体が何らかの価値(この場合は価値中立である(=公教育の世俗性)という価値、とか「教育活動全体を通して『生きる力』を育む」という学習指導要領に示された価値、など)をもって行われるものだから、価値自由、ということは純粋な学問的な見地でしかありえないものだとも思った。学問的な「正しさ」と教育上の「正しさ」は異なるのだということを、特に宗教や歴史など社会一般の事柄を扱う教科では、少なくとも教える側は、注意しなければならないことだと思う。(11/07/14)
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日本における宗教の扱い方について、教科書という重大な(ほとんどの人が一度は目にし、多くの場合は知識のベースとなる、という意味で)素材を通してその問題に迫る良書。
多くの日本人が世界の情勢に疎い理由のひとつに、宗教に関する感覚の薄さを指摘する意見があるけど、それって単に宗教的なものに関心が薄いということではなくて、きちんと教えられてないという面は確かにあって、これじゃ一面的なイメージしか持てない(場合によってはそれさえ持てない)よねえ、と思う。
本書では、アジア・ヨーロッパ諸国の教育において、宗教に関してどういった扱い方がなされているのかを紹介しながら、受験向け知識偏重に傾きがちな日本の教科書の問題を論じている。
「世界三大宗教」といいながらイスラム教についての記述があんまりだったり、あえて神道に踏み込んでいる教科書が存在しなかったり、あらためて知ると驚くことがたくさん。
著者が教科書制作に携わった際に、宗教に関して概観的に書いたコラムがことごとくボツになったこととか(理由は「煩雑である」とか「受験に関係ない」みたいなこと)、思わず頭を抱えてしまった。
著者は宗教学者とのこと。いずれかの立場に偏ることなく、冷静に教科書の問題を論じる姿勢に共感するとともに、納得できることが多かった。良質な新書で、読んで損なしと思う。
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公平な筈の倫理の教科書やらなにやらで、何気に、無批判に宗教教育が行われている日本の現実。しかもその内容が極めて一面的であると。
良書だ。
ただ、どうでも良いので途中で止めた。
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倫理の教科書の中身がアレだということがよくわかった。
宗教教育というのはとても難しく、その基盤となっている教科書の内容に偏向があったり間違っていたりするというのは寒気を禁じえない。どうりでヘンテコな理屈を唱える人たちが多いんだなと。
自学自習の重要さを痛感。
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読了:2011/11/20
「あまりにも無意識に」特定の宗教への偏り、押し付け、見下しなどが挿入された日本の教科書について物申す本。
現代社会とか、倫理とか、「誰かの考え」でしかないものを「~である」と言い切っているのが性に合わなかったな。日本史の方が(ほぼ)史実しか書いてないから、そこに自分の考えを入れる余地はたくさんあった。
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倫理を学んでいる時にそこはかとなく感じていた違和感の正体がわかったような気がする。キリスト教や大乗仏教への奇妙な親密感(「学ぶべきところは多い」とか教科書で言われても)、ユダヤ教やヒンズー教のおとしめ方(唯物史観を引きずってないかね?)、イスラム教へのよそよそしさetc。中高時代は「そういうもんだ」と言われるからそう覚えたけれど。
それだけではなく、例えば本書に依れば「民族宗教と世界宗教という呪縛」に私もかかっていたわけだし、アニミズムというのが差別語であることが書いてある下りは結構ショックだった。平気で覚えてたよ…。そんなふうに、知らず知らずに色々な偏見が刷り込まれてしまっているんだろう。怖い。
大学生になって海外の文献を読んだり、宗教施設を訪れたりする機会に恵まれるようになってから、知らずに身につけてしまっていた”偏見“に気付く機会も増えた。色眼鏡って怖いよ。そういったことを思うと、『国際的人間』を育てようという試みの、いかに偏っていることか。英語教育より先にすべきことがあるだろう。ぷんすか。
情操的宗教教育というもののあり方について少し思うところがあったので読んでみた本。日本は「正しいこと」を教える教育であるという指摘も(よく言われることであるが)その通りである。まったく、非常に参考になった。
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メタ的に物事が見れないとき、人はそれをただ一つの真実としてしか受け取れない。教科書の記述者の思想が対象化されていないという問題。
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非常に読み甲斐のある一冊です。
日本の教科書における宗教のとりあげられ方を、おもに倫理のテキストを中心に解説しています。
また、世界史などでは、宗教が民族の対立要素になるといいながら、倫理では宗教は「愛」の教えである、というある種の矛盾を「つなぐ」存在が公教育に存在していないことの問題点を指摘しています。
後半では、世界各国での宗教の教科書をとりあげ、宗教に対する一方的な見方をもたせないための工夫、苦心についてもとりあげ、日本との違いを鮮明にしています。
実際に倫理の教科書作りに携わったこともある著者の苦悩、思いも深く伝わってきます。
もう一度、改めて読み直してみたいですね。
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良著。
ただ、著者、慎重過ぎ。もっと大胆に持論を展開してほしいなあと思っていたら、
文科省の補助金研究だったと判明。
やっぱりね。
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誰かに特定の宗教を強要しよう、という志向は持っていませんが、政教分離とか、教科書で宗教を扱わない、なんてことは出来るわけないし、それが中途半端だから、日本はこんな軸のない国になってしまったのだとよく思います。
教科書が宗教差別を内包するということ。そして、中立など虚構で、意識して説明しなければならないということ。でも「学問」レベルではなく、家庭や地域などの問題かな、なんて気もします。旗幟鮮明にするほうが、ほんとはいいのだろう。子どもにこういうことが説明できるようになりたい。少しきっかけになると思う。
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「教科書が、意図的ではなく結果的に、特定の宗教的信仰を受け入れさせようとしてしまっている」、「教科書がある宗教を他の宗教より優れているとしたり、逆に宗教にある宗教に対して差別的な偏見を示している」問題について
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宗教について中立的に語ることはできるか。
ここまで本書を読んでくださった読者は、筆者が「宗教について中立的に語ること」を求めていると思っているかもしれない。たしかに、諸宗教について、一方的な優劣の判断をせず、多角的な見方を教えることの必要性を説いてきた。しかし、そのような教育は「中立的」といえるだろうか。
問題は、「正しい宗教は一つだけだ」と自分の宗教を絶対的と信じている人たちにとっては、それは少しも中立的ではないことである。諸宗教を平等に扱うというのは、それ自体が一つの価値である。それを共有しない人にとっては、知識のレベルであろうと、さまざまな宗教に触れさせられるのは苦痛になる可能性がある。自分たちの信念に反して、別の価値を強制されると受け取られるということである。言い換えれば、「諸宗教に関する客観的な知識教育」は、現在の日本のような、世俗的社会の民主主義原理の中でのみ「中立的」なのである(付け加えれば、宗教は人間にとって害になるだけだというラディカルな無神論者たちにも、互いの宗教をリスペクトし学びあう公教育は中立的ではないと映るだろう)。
もちろん、「あなたも私も今住んでいるのは、神権国家ではなく、世俗的な民主主義社会なのだから、従いなさい。嫌なら自分の信仰に一致する宗教系私立校か、ホームスクールを選びなさい」(ホームスクールとは子どもを学校にやらずに、家庭で親の責任で教育すること。日本では「不登校」による場合が多いが、アメリカ等では公立校の方針が家族の宗教に合わないから、というケースが増えている)というように、政教分離制なのだから当然だと理屈を言うことはできる。だが、異なる考えをもつ他者とどのように共生するかが、これからの日本・国際社会の課題であるならば、そのような態度は逆に壁を厚くするだけだろう。
少なくとも必要なのは、公教育に関して中立であるべきだというとき、それはさまざまな立場の“真ん中の地点”という意味での「中立」ではないと認識することであろう。「正しい宗教を一つだけ学びたい」という人たちと、諸宗教を「教養として」学ぼうという人たちの中間点はどのような教育になるのか。あるいは、本当にあらゆる宗教を平等に扱おうとしたら、教科書はどうなるのか。何ページあっても足りないということになってしまうだろう。
なにか特定の教科書や教育実践に対して、「それは中立的ではない」「偏っている」と批判することはできるし、それは必要なことでもある。しかし、中間点自体は一つの虚構である。同様に、タイと日本の公教育では仏教観が異なり、一方をもつ生徒に、悪意はなくても他方を自明のものとして教えると、それが押しつけになることは反省すべきである。だが、それは万国共通の仏教の教科書を開発すべきだということではない。重要なのは、教科書の一つ一つの記述が、どのような価値���に基づいているのかを意識することである。意識すればそこから距離をとり、自由になることも可能になる。現在の教科書の宗教記述の中途半端さは、このような意識--価値中立ではなく価値自由と呼ばれてきたもの--の欠如によるのである。
--藤原聖子『教科書の中の宗教 --この奇妙な実態』岩波新書、2011年、220-222頁。
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「中正・客観」的であると称する「教科書」で「宗教」はどのように取り扱われているのか--。本書は、主として高等学校の「倫理」の教科書を素材として、その内実を素描する。
結論を先に言えば「教科書が、意図的ではなく結果的に、特定の宗教的信仰を受け入れさせようとしてしまっている」問題、「教科書がある宗教を他の宗教より優れているとしたり、逆に宗教にある宗教に対して差別的な偏見を示している」問題が本書で明らかにされる。
たとえば、世界の「三大宗教」と呼ばれる仏教、キリスト教、イスラーム(教科書では「イスラム教」の表記がほとんど)はどのように紹介されているのだろうか。ある教科書はブッダの思想を次のように紹介している。
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解脱と慈悲、そのまさにブッダの教えの両輪をなす二つの理想は私たちが自己を見つめ世界を見つめ、自分の生き方を構築していくに当たって極めて大切な指針となるだろう。また、いっさいの存在に価値を認め一匹の生き物、一木一草にまで及ぶべきものとする慈悲の思想は環境破壊を克服し、自然と共生していく道を求められている今日の私たちにとってさまざまな貴重な示唆を与えてくれるであろう(『倫理--現在を未来につなげる』。)
--藤原、前掲書、4-5頁。
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この「記述」は、明らかに、単に知識を伝達しているのではなく、「ブッダの教えはあなたにとって大切な指針になる」と価値判断を下し、読者である生徒にそれを受け入れるように促している。筆者は「宗教知識教育でないどころか、宗教的情操教育をも飛び越えて、仏教の宗派教育に踏み込んではないだろうか」と指摘する。
では、キリスト教やイスラームの場合は、どうか。キリスト教にもイスラームにもここまでの価値判断を下し、生徒にそれを受け入れるように促す記述はほとんど存在しない。上に引用したのは一冊の教科書だが、本書の比較検討を読むと、こうした傾向はすべての日本の教科書に見られる。
キリスト教と仏教を対比する教科書の記述はさらに踏み込んでいる。筆者の解説部分を紹介しよう。
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キリスト教では、理屈を超えたことを信じること、祈ることが中心になるのに対し、仏教では知が中心だと対比している。この教科書では、このコラムに先立ち、仏教の節の導入部分でも、仏教は唯一神教に比べ、「瞑想によって悟りを得ることを重視する、その意味で哲学的性格の強い宗教である」と述べている。仏教=合理的、キリスト教=非合理的というのは、西洋=合理的、東洋=非合理的というオリエンタリズムをひっくり返した逆オリエンタリズムである。明治以降、日本の仏教系知識人が、東洋=非合理(非理性的・神秘的)と決めつける西洋人のまなざしに反発することにより作り上げていった図式だが、ステレオタイプの裏返しはステレオタイプの域を超えることはない。
--藤原、61頁。
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日本の教科書は、ユダヤ教やヒンズー教などを民族宗教と位置づけ、キリスト教、仏教、イスラームを世界宗教と定義する。筆者はこれも間違いだと指摘する。宗教学のイロハを学べば「当たり前」だと思われる事柄だが、中立・客観をうたう教科書が宗教を序列化してしまうことには驚きを禁じ得ない。
例えば、民族宗教・世界宗教という「カテゴリー」そのものが、19世紀ヨーロッパのキリスト教中心主義が強かった時代の学問で広まったものであり、現在の宗教学ではその恣意性・独善性に由来する反省からほとんど使われることがない概念である。ユダヤ教とキリスト教の対比でも、ユダヤ教を乗り越えた「キリスト教」と百年前の記述が21世紀の教科書で臆面もなく使用されているのである。
この乗り越えた「意識」が全編を覆うから、前の間違いを修正した進んだ宗教が優れた宗教と「序列化」されていく。筆者はこれを「勝利主義史観」と表現する。勝利主義史観は、仏教の内部にも潜在するから、当然、小乗仏教「より」大乗仏教が「すぐれたもの」となる。これも現在の仏教学の業績を確認すれば「戯れ言」に過ぎない点が明らかなことはいうまでもない。
さてイスラームはどのように紹介されるのだろうか。
筆者の小見出しは「『他者』ですらないイスラム」、これが全てを物語っている。
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イスラムについては、…倫理教科書ではそもそもキリスト教・仏教に比べて記述分量が圧倒的に少ない。これについては、教科書の総ページ数は限られているのだから、日本にかかわりの少ない宗教ほどページ数が減るのはやむをえないという意見もあるだろう。だが、扱いの違いは分量だけではない。キリスト教と仏教を対決させたがる教科書が多いと述べたが、イスラムはその土俵にすらのせてもらえないのである。
--藤原、前掲書、92頁。
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ほとんどの教材は、イスラームを礼拝や巡礼といった一般信者の宗教的行為の側面から紹介している(逆にいえば、キリスト教・仏教の説明では、宗教生活への言及が殆ど無い)。もちろん、これはイスラームという宗教の特性にもよるが、一見すると「イスラムだけ哲学的な要素がなく、体を動かしているだけのようにみえてしまう」のだ。
※ジハードという多義的な言葉はいまだに「聖戦」と訳されるままだ。
神道に関しては、日本の日常的な行事や習慣については教えられているのに、その背景となる神道の考え方には触れられていない。これは神道が宗教ではなく、日本の古来からの考え方である、という認識に由来するのであろう。
かいつまんで、宗教の叙述における先入見、宗教差別や偏見を促すような記述を確認したが、なぜこういった問題が今まで放置されてきたままなのであろうか。
いくつか原因が想定されるが、まず大きな原因として考えられるのは「教科書執筆者の参考にしてきた資料が、ひと昔前の護教的な神学書なのではないか」。
宗教研究には、信仰の立場から研究する場合と、信仰とは切り離して研究する立場がある。もちろん、完全な客観性など存在しないことははなから承知だとしても、公立校で用いる教科書は、後者の研究を参考にすべきだろう。しかし後者は細分化された研究が多く、イエスやブッダの概論的専門家でない場合が多い。その関係から「諸宗教の基礎的部分の研究は、信仰の立場からのものが多い」から、「キリスト教でいうなら、聖書はどういう書であるか、イエスは何者であったからを研究する人は、自身がキリスト教を信仰している人であることが多い」から、それを参考にすることになってしまう。
しかしそれはそれとしても(教科書執筆者自身がその専門家ではないから)、「今日の神学の内部で、キリスト教のユダヤ教に対する勝利主義史観に反省が起こっており、そのことは外国では公教育にもとうに反映されている」ことだ。先に言及したとおり仏教に関しても同じである。
だから海外の教科書と比べた場合でも、もっとも脱宗教的でリベラルな英国の教科書はいうにおよばず、もっとも保守的と言われるドイツの教科書におけるキリスト教の記述よりも、日本の教科書は「保守的」な記述となっているし、現行の日本史教科書のほとんどが「厩戸王(聖徳太子)」の表記だが、倫理教科書は依然として「聖徳太子」のままである。
そして、筆者は端的に指摘する。
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教科書の偏見が見逃されてきた原因をより広くとらえれば、「関心のなさ」という問題があるかもしれない。
--藤原、前掲書、134頁。
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この「関心のなさ」は4つある。1つは「教える教員の関心があまり高くない」こと、1つは「アカデミズムの中にいる宗教学者の問題」(専門の細分化度が高く、総体としてどう語るかに取り組んでこなかったこと)、1つは、「専門家の間には、教科書は『中学生・高校生相手だから』という油断」、そして「宗教界の無関心」である。
ここまで教科書の記述に従って見てきたが、本書は、イギリスやドイツといった欧米だけでなく、トルコやインドネシア、タイといった海外の教科書と教育実践についても紹介している。
イギリスではキリスト教が国教と定めるにもかかわらず、脱宗教教育化しているのに対し、ドイツでは公立校で宗教が必修教科であり、宗派ごと(プロテスタント、カトリック、イスラームなど)に分かれて行われている。トルコやタイではいずれも国教制度はないが宗教教育的宗教科の授業が必修となっている。しかし、非仏教徒、非イスラーム教徒には受講義務はない……等々興味は尽きない。
さて、最後に筆者は宗教を学ぶ目的を示している。
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それでは、学校で宗教を教えるという選択をする場合は、今後どのように取り組んでいくとよいだろうか。ちょうど哲学・倫理学の学者たちも、高校の倫理の授業や教科書を変えようという運動を起こしている。倫理教科書における哲学教育は、哲学者の思想を知識として学ぶことが中心だが、これを自らも考える形に転換していこうというのである。哲学���的知識ももちろん必要だが、論理的に考える、あるいは「そういいきれるだろうか」と批判的に考える力が国際的にも重視されている現状を受けてのことである。
そのことも踏まえて、議論を広げるために、従来の宗派教育、宗教的情操教育、宗教知識教育の呼称をいったん外し、それぞれの教育の「目的」に注目した表現に置き換えてみたい。宗派教育は、特定の宗教の信仰を育む教育でもあるので、宗教系私立校用として脇に置く。宗教的情操教育と宗教知識教育の目的を、新しい哲学教育と共有できる表現に置きなおせば教育、論理的、批判的思考力や対話能力といったコンピテンシーを身につけるための教育である。
--藤原、前掲書、187-188頁。
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哲学教育の見直しを視野に入れながら、筆者は宗教を学ぶ目的を具体的に3つ示している。すなわち、
1 人格形成のため
2 異文化理解
3 倫理的、批判的思考力や対話能力というコンピテンシーを身につける
……である。
一人の人間としての道徳的価値観を身につけると同時に、異なる人々や宗教観を理解し、そういう異なる他者とコミュニケーションを図る力である。これは現代社会では最も必要とされる事柄であろう。だとすれば、高校教育で道徳、倫理、宗教の教育が軽視されてきた事実と実状を深く反省しつつ、新しい形を提示していくほかあるまい。
刺激に満ちた報告であり、かつ非常に考えさせられる報告である。
(蛇足)
評者は高等学校では「倫理」を履修していない。大学で宗教を研究するようになってから、この国の一般における「宗教」に対する無理解・偏見・関心のなさに戸惑うことが日常茶飯事である。しかしこれを加速させたのは、学校教科書であったことには驚く。
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我々社会科教員は宗教を教える際、言葉を選びながら生徒たちに伝えなければいけないことは当然ですが、我々が知識のよりどころとする教科書自体に問題があるとするのが本書です。本書では高校の教科の中で最も宗教を扱う「倫理」の教科書をもとに問題を提起しています。本書ではまず問題点を2つ「教科書が、意図的ではなく結果的に、特定の宗教的信仰を受け入れさせようとしてしまっている」問題と「教科書がある宗教を他の宗教より優れているとしたり、逆にある宗教に対し差別的な偏見を示している」問題(「はじめに」より)と提起しています。そして本書の目的を「道徳教育の是非や宗教的情操教育の是非を論じるのではなく、そういった論争の前提の部分に、知られざるゆがみがあることを示す」とされています。
まず第一の問題点について、著者はある教科書で仏教については「ブッダの教えはあなたにとって大切な指針になる」という価値判断を下して生徒にそれを受け入れさせようとしているのに対し、キリスト教については「キリスト教はこう考える。キリスト教はこうである」とは書いているが「イエスの教えにあなたも学ぼう」というスタイルにはなっていないとのことです。さらにイスラームの記述は距離感のある、淡泊な扱いであるとされています。以上はとある教科書の例ですが、他の教科書でも特定の宗教の教えを人類普遍の教えのように書かれている個所があり、本来中立であるべき教科書として問題ではないかと述べています。そしてこの原因として「つまるところ、倫理の科目は、宗教そのものを理解する場ではなく、道徳教育のために宗教を題材として利用する場になっている。(44頁)」としています。また後者の問題点についても、「イエスやブッダを偉大な先哲として描こうとすればするほど、相対的にユダヤ教徒ヒンドゥー教は貶められるというしくみ(66頁)」と指摘しています。
こうした日本の教科書の問題点は、上記の「倫理という教科の特性」だけでなく、日本人である生徒は「特定の宗教の信者ではない」というのが前提となっているのではないでしょうか。また「生きる力」が学校教育の主題となって久しい今日、倫理という教科が持つ意義は大きいものです。「教科書を教える」のではなく「教科書で教える」というのが当然視されている現在、先哲の考えから生きる指針を伝えるのは有意義なことです。例えば仏教の持つ無常観、キリスト教の持つ隣人愛、イスラームの持つ弱者への救済などから学ぶことは大きいでしょう。学校教育で倫理を教える以上、「宗教」を扱えばそこに「中立性」が問題となるのは避けて通れないというより、100%客観的に教えることは無理なのではないでしょうか。また、現在倫理を教えるのが倫理を専門とする公民科の先生より、地理や日本史、世界史を専門とする地歴科の教員が多いというのも問題を深めています。教科の特性上どうしても宗教紛争や歴史における宗教対立、特定の宗教が起こした悲劇を教えなければいけません。それが(宗教に慣れ親しんでいない)生徒たちに宗教に対する偏見を助長してしまうことは目に見えています。少しでも偏見を持たないよう、前述のように言葉を選んで教えてはいますが、100��言葉も宗教に起因する事件の映像一つで吹き飛んでしまいます。
私は日本人は決して宗教に無関心であるとは思っていません。ただ、宗教への関わり方がキリスト教やイスラームとは違うから、それらを「宗教的態度の典型」と考えている人にとっては無関心に映っているに過ぎないのではないでしょうか。だからこそ「宗教」を教える方法・態度を我々教員は真剣に考えなければ行けません。
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くわしくはこちらhttp://blog.livedoor.jp/gull_antibiotic/archives/10205920.html