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ジョルジュ・ミノワ『ガリレオ』白水社文庫クセジュ、2011年:ガリレオ(1564-1642)の一生を家庭人・学者・被告としてまとめた本であり、原著は2000年。おそらく最新の評伝の一つであろう。ガリレオは長男で父は小貴族、母はあまり愛情をもたなかったらしい。幼い頃、音楽や機械に興味をもったが、父ヴィンチェンチオは医者にすることにし、好きでもない医学をピサでやらされた。しかし、やっぱり物理や数学がすきで転向した。ガリレオは事実婚で、子供をもうけたが、妻とはすぐにわかれた。当時はこういう夫婦はよくいたらしい。二人の娘は修道院におくってしまい、一人は修道院の過酷な生活で早死にしてしまう。息子は結婚して独立、父の仕事を手伝った。死ぬ間際、78歳で30代の女性と交流をもったが、生涯の大部分、愛情とは無縁の人だった。学者としては、ガリレオは科学者というよりも哲学者である。有名なピサの斜塔の「落体の実見」も現在では「思考実験」であったことが定説になっている。このころ、ガリレオはピサ大学の「数学」という最下等の学科の最も若いの教師であり、そんな人が公開実験をしても、高位の哲学教授が面白くもない実験をみるわけもなかった。イエズス会士がやった再現実験のように重いものが先に落ちることもあった。ガリレオは「実験しなくてもわかる」と『天文対話』で書いているし、書き残されているものでも、再現しようとすると無理な実験もある。彼が主張した光の実験では、壁からの反射光だけをとりださねばならないものがあり、そんなことは不可能だった。彼は科学者というより、文筆に達者な科学啓蒙家と解するべきで、「人文主義者」である。それにも関わらず、彼の業績に意味があるのは、神が作った世界は「数学の言葉で書かれている」と、世界の数学的構造を示唆したことである。被告としては、自信満々の空気が読めない男で、ローマ教皇や神学者たちについて、ずっと話せば分かると思っていた。ガリレオは宗教には興味がなく、当時の教会が置かれていた状況、プロテスタントによる危機を理解しなかった。また、「聖書は信仰を堅固にするために当時の比喩で語っており、科学的な真理を語っているのではない」と聖書解釈にも口をはさみ、1000年の神学者の伝統に土足で踏み込んだ。1616年、イエズス会のベラルミーノ枢機卿によって、コペルニクス説を放棄するようにいわれ、誓約書を書かされたのに(第一次ガリレオ裁判)、1633年に『天文対話』を書いてしまう。この著作は不運な巡りあわせのもとに印刷された。この少し前に教皇ウルバヌス8世がスペインの枢機卿ボルハから、プロテスタントとの戦いで教皇がスペインを援助しなかったと非難され、これに怒った教皇はローマからスペイン勢力を排除しようとした。ガリレオが『天文対話』の出版を依頼したリッカルディはスペイン人だった。しかも、ローマで検閲しながら、フィレンツェで印刷したという点も陰謀を疑われた。「望遠鏡」の命名者でガリレオの庇護者であったチェージ公もなくなっており、タイミングが悪かった。検邪聖省から呼び出され、異端審問である。まわりは焚刑になるから、言い訳するなと忠告したのに、「じゃあ、付け足しを書きます」という旨の無神経なことを���い、怒りを買った。ガリレオは結局屈服し、10人の判事の前でひざまずいてコペルニクス説の放棄を誓わされたのである。こんな状況で「それでも地球は回る」などとつぶやくことなどあり得ない。異端審問官は拷問したら死んでしまうと考え、教会の手を血で汚すのは避けたかったので(焚刑は世俗君主の仕事である)、蟄居を命じた。自宅での蟄居は地元の神父が親切にしすぎるので、別荘にうつされることになり、面会謝絶でスパイが貼り付くという生活のなかで没した。「落体の実験」や「それでも地球は回る」という伝説は、ガリレオの弟子の「聖人伝」(ガリレオの伝記)に由来するものである。ガリレオの生涯得意の時は1611年の望遠鏡のデモンストレーションである。このときはイエズス会のクラヴィウス(グレゴリオ暦の策定者の一人)もガリレオの理論をきいた。これで名士となり、アカデミア・リンチェイにも入会し、「哲学者」の称号も得た。教会の立場からいえば、ガリレオは信仰の問題を理解しない「騒がせ屋」であり、カソリックが枚岩にならねばならぬときに個人として思想の自由を表明した。要するに手に負えない男であった。ガリレオの著作を禁書にし、コペルニクス説の廃棄を誓わせた教会は、以後、科学と信仰の問題に汚点を残し、プロテスタントからこの点をつかれることになった。禁書目録からガリレオの著作がこっそり削られたのは1822年で、批判は20世紀までつづいた。ガリレオの名誉回復は1992年である。科学の真理、思想の自由を宣言した人であったが、科学者としてケプラーの方が惑星の楕円軌道を指摘し上であった。「ケプラーの法則は」現代でもあるが「ガリレオの法則」はない。望遠鏡もけっこう手に入りやすかったもので、オランダのものを改良し天にむけたにづぎない。ガリレオの偉大な点はデカルトのように考えを秘してしまうのではなく、文才があって自分の考えを共有しようとしたことにある。