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最後の数十ページの才気ほとばしる言葉の密度に、息をするのも忘れて読みました。入り組んだ心の隙間を、右に左にぶつかりながら、肉をえぐって暴走する列車が通り過ぎて行ったかのよう。このシリーズは表紙がとても美しいので、手にするうれしさもあります。
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苦しさに向き合うのは 女性ならでは なのか
夫、義兄に比べて
姉の編は苦しくも女性の強さを感じる終わりでした。
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村上春樹の『ノルウェイの森』のテーマとも通底するような人間の危ういバランスと実存を,韓国という国の文化的コンテクストの上に見事に構築した小説で,グッと惹きつけられて読まされた.
翻訳とは思えないすばらしい翻訳で,このような韓国語の翻訳者がいらっしゃるというも嬉しい発見.
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ヨンヘがなぜ突然菜食主義者になってしまったのか、理由は最後まで判らない。読者の想像に任され、答えは読者の数だけあるということなのだろうか。私にはヨンヘの抑圧された人生のせいに思われた。夫からヨンヘは決して目立つ美人ではなく『女として平均よりちょっと下』ぐらいに見られ、それが夫がヨンヘと暮らしていて『緊張せずにすむ』理由なのが、もう痛々しい。それは常にヨンヘを自分よりも下の存在として見てたという事じゃないか。夫当人に悪気なく無意識だとしても、きっとヨンヘは日常的に言葉の端々に侮蔑を感じさせられたことだろう。夫以前にも支配欲の強い実父は肉を口にしないヨンへに対し業を煮やし、力ずくで口に押し込んだりする。いくら心配だからといって、これが愛情から来る行動なのか。従わないヨンヘが気に食わないだけなのではないか。この場面だけで幼少時のヨンヘも、父を止められなかった実姉のインへも、実家での姿が容易に想像出来る。ヨンヘが壊れてしまったのは大きな理由なのではなく、積み重なりなのだろうと思う。物語の主人公を義兄に移しても、この義兄もやはりヨンヘを一人の人間としては見ない。性か芸術の対象。更に実姉インへが主人公となった3章では物語は沼の様だ。「生きてはいなかった。ただ耐えていただけだった。」が全てを表していたのかも知れない。とにかく全く光が見えない物語で、私の心にも沼が広がった。
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様々な切り口けら読むことができる作品だと思う。
菜食の肯定、否定の面から人類としての生き死にについつ深く考えてみたり、農耕民族と狩猟民族の歴史に思いを馳せてみたり。
自分ね場合は、一個の人間というものは実に絶妙で、不安定なバランスの上に成りだっているものなのだ。という感想を強く持った。
何かのキッカケで、自分が彼女のようになってしまうのかもしれないと思って読むならば本作はホラーである。
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ある日突然ベジタリアンになっちゃった女性ヨンヘと、それを受け止めきれない旦那や父母、兄弟たちの話。別に最近話題のヴィーガンとかベジタリアンにハマって周りが困ってるとかそういう話ではなく、彼女自身が植物になってゆくのだ。見た目は心の病気にかかってしまった人とそれと上手く向き合えない家族の話、という感じだろうか。
ヨンヘが菜食主義者になった理由ははっきりと語られないが、幼少から現代に至るまで抱えてきた家族の問題が爆発したように見える。
彼女の家は最近の日本の小説ではまず見られないような家父長的家庭。親父は平気で暴力振るう。日本の昭和を描いた映画でどこぞの親父が「戦争にも行ったことないくせに!」と叫んでいたが、今の韓国は徴兵制度ある。日本にかつてあった価値観が、国家の暴力装置(社会学的な意味で)になることが当たり前であることによって、何らかの理由で存続しているのかな?なんて思った。それとも、儒教的には暴力もオッケーなんだろうか。
また、ヨンヘが肉を食べるのを拒んだ際に家族みんなで彼女に無理矢理肉を食わせようとするが、そのやり方も超アグレッシブで、なんと「酢豚を顔に押し付ける」のだ。その光景を見たヨンヘの旦那は「胸に染みる父親の愛情に、思わず目頭が熱くなった。多分、その場にいた皆がそう感じていただろう。」(p.62)と反応。ギャグかな?とは思ったけど、こればかりは他所の国のことだし何とも言えない。キチガイ一家のコメディなのかもしれないし、韓国ではたまに見られる光景なのかもしれない(馬鹿にするわけではなく)。
とにかく、ヨンヘを取り巻く人間はこんな感じで、旦那が彼女と結婚したのも、魅力のない女と結婚すれば自分が矮小な人間であることを意識しなくて済むからというもの。それは人間やめたくもなるだろうと思う。
じゃあクソな旦那と離婚して別の人と結婚するなり結婚とは別の幸せを得ればいいじゃん!と思えれば良いのだろうが、彼女の場合は家族も上述のとおりであり、何というか逃げ場がない。幼少期から自分という一個人の芽を摘まれ続けてきたとするならば、その傷を癒すことなどできるのだろうか?しかもそうした暴力が「親の愛情」という言葉に守られていたら、もうどうしようもないではないか。
……と、個人への暴力を軸に想いを馳せていたけれど、そうして菜食主義者になったヨンヘに対し周囲の面々が様々な反応を見せていくのがまた面白い。翻弄され破壊されてゆく周囲を他所に、物理的にはボロボロになりながらも静かに植物へと変わってゆくヨンヘが、皮肉にも力強く映った。
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とある夢から菜食主義者となった女性の変化が家族にも波紋を広げていく。
まるで真っ白なシーツに鮮血が飛び散るような。
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韓国文学を始めて読んだ。今回の本は静観に淡々と生きていた4人の男女が、次女が突然菜食主義になるという行為をきっかけにそれぞれ持つ内なる欲望や違和感、狂気が描かれてる。少しファンタジーぽく村上春樹に近いのかなとも思う。身体や欲望に対して線密に書かれている為、生々しい世界観が文章全体を包む。一般的には常識を離れたような感覚でも、本来の自らの求める姿に気づくこと、そして進むことができる喜びを感じることで、生きるということが始めて実感できるのかもしれない。
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菜食主義者、蒙古斑、木の花火。連作である。男の妻は特に変わったところも無く、普通に地味な女性だった。男はそれだからこそ彼女と結婚したようなものだった。その妻がある時から肉を食べなくなった。単にベジタリアンになったというだけでなく、食事を段々ととらなくなって痩せてきた。心配した夫や姉達の心配にもかかわらず、その程度がひどくなっていく。夜中も寝ずに過ごしている。妻のヨヘンは夢を見たという。男の視点、ヨヘンの視点、ヨヘンの姉の視点、姉の夫の視点。それぞれの視点で語られていくヨヘン。ヨヘンはどうなっていくのか。
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日本と比べてもほとんど違和感がない。章が3つぐらいに分かれているが、一つの小説である。
夢から菜食主義になり拒食症へ、そして家族は、親せきは、という話である。
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ハン・ガン、3冊目。
『すべての、白いものたちの』、『そっと 静かに』はエッセイ集なので、彼女の小説はこれが初めて。
彼女が心温まる物語を書くだろうなどとはもちろん思っていなかったんですが、予想以上に壮絶で、中編三作のそれほど長くない小説のわりには読むのに時間がかかりました。
『菜食主義者(ベジタリアン)』という言葉のやわらかさとは裏腹に、主人公ヨンへは肉を食べることを拒絶し、植物になりたいと願い、やがては食べることも放棄する。
訳者あとがきでは「私たちの中でうごめいている動物性と静かに揺れる植物性との葛藤」と説明されているのだが、そんなことを言われてもよくわからない。
三作の中ではヨンへの姉の視点から語られる『木の花火』が比較的共感しやすいのですが、ハン・ガンの描く「なにかを失った人の孤独」というものに私は強く引かれるようです。
ここ近年、注目されている韓国文学ですが、「新しい韓国の文学」シリーズ第一作としてこの作品を日本で出版しているクオンの活動はすばらしいですね。
以下、引用。
バスはスピードを上げて雨の中を走る。彼女は何とかバランスをとりながら奥のほうに進む。二つ並んだ席の空いているところを探して窓側に座る。かばんの中からティッシュを取り出して、曇った車窓を拭く。長い間孤独だった人間だけが持つことのできる堅固な視線で、車窓を叩く激しい雨脚を眺める。
さほど時間が経たないうちにふと気づいたのは、彼女が切に休ませたかったのは、彼ではなく彼女自身だったかもしれないということだった。十八歳で家を出てから、誰の力も借りずにたったひとりでソウルでの生活を切り開いた自分の後ろ姿を、疲れた彼の姿に照らし合わせていただけではなかっただろうか。
生きるということは不思議なことだと、その笑いの末に彼女は考える。何かが過ぎ去った後も、あのおぞましいことを経験した後も、人間は飲んで食べて、用を足して、体を洗って、生きていく。
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「菜食主義者」「蒙古斑」「木の花火」の連作中篇集。
表題作の中篇を読んだとき、あまりにもきれいに終わっていたので「あ、これ中篇集だったんだ」と勘違いしてしまった。
各話ごとに主人公が入れ替わっていくリレー方式であるが、切れ味の鋭い第1話、エロティックでショッキングな第2話、陰鬱な静謐にみちた第3話と、大きく毛色が異なるのもおもしろい。
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「目の前でベジタリアンなんてされちゃうとたまんないよね」と友人が話していたことを思い出した。
ベジタリアンの存在を自分への批難や自分にとって「暴力的な存在」として捉える見方がある。
私はこの本はいろんな受け入れ難いモノの話だという風に感じた。
作中に登場する菜食主義も「意思のない」人とのセックスも精神病も介護も「普通」の人の生活のイメージからはかけ離れたものである。
場合によっては、そこに先進的な「アート」や血の繋がった「親族」なんかも入れても良いのかもしれない。
ハン・ガンは「ある日夢を見て肉が食べれなり、やがて木になりたいという願望を持った女性」の周囲を描く。
この話を読んで暴力を想起したという人や菜食主義と『木になる』という話はつながってないという話を聞いた。
その通りだと思う。
私はなんとなく「ベジタリアン」と「無害になること」と「木になる」ことを頭のなかで結びつけて考えていた。
肉食を禁じることや「木」として生きることは暴力から離れることなのかもしれないが、人間が「木」として振る舞うことが周囲の人間にかける負担は存在することの根源的な暴力について考えさせられる。
もう一つ考えたいのは夫の話だ。
夫は「菜食主義」になった妻を風変わりに感じていても最初は受け入れていたのだ。
彼にとって妻を「受け入れ難く」なったのは何時だろうか?
妻と夫の間の「閉じた」関係の中では、それは問題にならなかったような気がする。
(これは2部のセックスもそうだ)
受け入れ難さというものは相手からではなく、私の側から生じるものなのだと改めて感じた次第である。
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この小説は頭に映像が流れるような鮮明な描写と繊細な文章で、読後も強烈な印象が残った。
主人公の女性をその夫、義兄、姉からの視点で描いている。動物的なものを拒絶し、次第に水と光を求めて植物的なものになることを望む主人公の女性。その背景に主人公が父親の支配的な態度、暴力を受けて育った家庭環境や夫との関係から生じた抑圧のようなものを感じた。主人公の姉がひたすら従順な態度を貫いていたことも同様の抑圧や支配に対して適応するための生存戦略であると見受けられた。そのせいか、夫が主人公女性を「平凡」と描写していたことに私は特に違和感を感じてしまった。
普段は小説の感想を言語化するのはあまり得意ではないが、この小説はとても印象に残った作品の1つであるため感想を述べた。筆者の文章はとても綺麗で繊細で、それを読んでいるだけでも心が満たされた。美しいもの、鮮明なものを求める人にはお薦めの1冊。
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もしヨンヘに人間関係が全くなかったら、
社会と全く接点を持たずに生活していたら、
違う結末があったのだろうか。
例え肉体は同じ変化を辿っても、強烈な思想と共に幸福に時を過ごしていけたのだろうか。
ヨンヘの内面は周囲の受け止めた言葉のみで表現され、最後まで窺い知ることができない。
この著者の本を読んだのは初めて。作品に流れる空気と日常と地続きになった異世界を覗く感覚を、私はとても好ましく読んだ。