紙の本
「解説」という渾身の芸(文学)
2012/03/23 18:55
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:そら - この投稿者のレビュー一覧を見る
書評というのは、費やす手間と労力を考えれば到底、割に合わない仕事だ
と、井上ひさしが書いていたのを思い出す。
テレビ書評というのが新鮮で、NHKの週刊ブックレビューを観ていたことがあった。
関川夏央はその頃よく出演していて、同席していた羽仁進が感に堪えたように、本そのものより説明のうまさに舌を巻いたと語っていたのが印象に残っている。
「解説」もまた文学である。
小林秀雄の批評が文学的創造と同義であったように。
本書は、関川夏央による少なからぬ文庫解説の中から取捨選択し、その精華を単行本化したものである。
山田太一のエッセイ集「逃げていく街」の解説の中で、関川夏央自身は次のように書いている。
文学とは小説だけでなく、テレビドラマも脚本も戯曲も含まれる、とした上で
「その背後に批評する精神と歴史意識をともなう日本語表現が文学である。ジャンルを選ばず、表現を立体的に行ない得ることそのものが現代文学のにない手たる条件である」
と。
「解説」の本道とは
感性だけでなく歴史的教養を背景に、当該文学の現れた世相も視野に入れて、文庫版によってはじめて作者の名を知った読者にもよく分かるように、作品の立ち位置を示し、簡にして要を得た説明をすることなのだ。
ところが何でも文庫化されるようになった70年代半ばころから解説の劣化がはじまったという。
雑文の類でお茶を濁す解説が多く見受けられるようになった。
本書の2/5を占める、文春文庫全10冊に及ぶ「司馬遼太郎対話選集」の解説は、「解説」というスタイルを借りながら、同時代の文学者・知識人群像までも描き出そうとした意欲作である。
司馬遼太郎は対話を好み、学生時代からいつも座談の中心にいる人だった。
一方、先生と坊主を嫌うなど、人の好悪がはっきりしていた。
対談によって、該博な知識と柔軟な思考は、専門家や異なる資質からの刺激を受けて、より豊穣になった。
新聞記者としての経験からもそのことをよく知っていたと思う。
司馬遼太郎にとって「他人の創見についての受信感度のよさ」が、人間評価の基準だったという。
作家が厳しく斥けた自己愛と我執こそ、それを妨げるものだった。
関川夏央の解説は当然のことながら、司馬遼太郎だけでなく、対話者の著作への興味をかきたてる。
本書は、「解説」という渾身の「芸」に感心させられつつ、さらに面白い読書へと誘うガイドブックでもあるのだ。
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関川夏央さんが
「解説」を書いてきた
文庫は
あらためて
信頼できるんだ
と
強く思う
この本に紹介されている
未読の「文庫」ならず
既読の「文庫」も
今一度
紐解こう!
と 強く思った
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本を一冊読み終えたときのたのしみが、最後の「解説」や「あとがき」であるので、しかもそれが関川氏のものであるならば、と読み始めた。
が、…やはり、巻末のそれを読む愉しさは読み終えたときの高揚感があり、この気持ちを誰かと分かち合いたいと願っているからこそなのだった。
ここに「解説」された本は私はどれも読んだことがなく、それゆえ読み進めるのはなかなかに時間を要した…が、放り出すこともなかった。なぜなら、読んだことのない本なのに、それぞれの「解説」がやっぱり面白かったからである。これは本家を読まねばなるまい。
司馬遼太郎の一章はひとつの論文となっている。すごかった。
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私は本を読むとき、後ろの方、つまり解説やあとがきから読むことが多いです。
最近単行本を本屋で見ていると(もちろん後ろの方から捲る→冒頭の文をみる)著者のあとがきがない本が多くて、寂しいな。最後のページを捲ったら奥付、なんて・・
関川さんの解説は、本体よりも文学らしい、と言われているくらい切り口の鋭いもの揃い。
司馬遼太郎の章は、圧巻。
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本来作品の位置づけを為すべきはずの解説が駄文化・感想文化することを憂い、本道を目指して書いてきたという解説の数々。
これは解説の域を超えるのではと思うのは間違いで、昨今の礼賛だけのような解説が誤っているのだろう。
元になる作品を読んでいないものがあり、この解説から作品に誘われたくなる。まさに著者、編者の思う壺か。だが、それがいい。
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関川夏央は嫌いじゃない。文庫の解説を集めたこの本を手に取った理由もそこにある。パラパラとページを見て驚いた。読んだことのある文章が、結構たくさん並んでいる。
ふつう、解説は最後に読む。
「ふーん、なるほどね。」
自分はもう読み終わっているわけだから、いろいろ書かれていても、よほどの場合以外そういう調子で読み終える。メインは今読み終えた作品の方なのだから。だからかなりの文章以外は記憶に残らない。関川の文章は何故記憶に残っているのか。
第一章は時代の中の文学とでもいう描き方で座談会や平野謙の藤村論に対する解説だが、たとえば「島崎藤村」の解説では平野謙の周辺の本多秋五や花田清輝、藤枝静男たちの、発言や振る舞いを一筆書き的に引用する手管こそが面白いわけで、文庫として読み終えた作品とは別の興味を惹かれてしまうことになる。それがいいのか悪いのかは一概に言えないが、関川のスタイルがそうなのだから仕方がない。
本書のメインは180ページにわたる司馬遼太郎に対する解説。圧巻は、おそらく編集にもかかわったと思われる「対談選全十巻」に及ぶ連続解説。数えてはいないが司馬が対談した相手は、この選集だけで50人を超えるだろう。関川は、その50人を超える対談相手の、いわばポルトレを丹念に描き続ける。これが抜群に面白い。司馬自身に対する言及は、むしろオーソドックスなのだが、相手を描くことで、際立ってくるものがある。それが関川流。
もっとも、読み終えてみると、山田風太郎と竹中労を解説した二作が一番気に入っったわけで、理由は簡単で、ここにはかなり正直な関川夏央本来の好みが露出していると感じたからだ。
あんまり芸にはしるとくどいと感じることもあるのだ。
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著者の書く文章からは確かな温もりを感じる。俗に言う「美文」「名文」ではないかもしれないが、ヒューマンタッチであり他人を単なるデータや素材として捉えていない誠実さを感じるのだ。私自身がこれまで読めていなかった作家ばかりを「解説」した本書はしたがって堪能できたとは言いづらいが、しかし著者のハードボイルドな職人魂・職人気質は好ましく感じられる。個人的な好悪を判断の材料に入れていないところも素晴らしいと思う。が、悪く言えば男臭いというかオヤジ臭い本でもある(重箱の隅をつつくような感想で恐縮です)。渋い仕事を読んだ
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関川夏央は、100冊以上の文庫本の「解説」を書いている。本書は、その「解説」の中から24篇を選んで、1冊の本にしたものだ。本書には、続編である「解説する文学Ⅱ」もある。
本書のハイライトは、司馬遼太郎に関しての部分であろう。
まず、「司馬遼太郎全講演[1]1964-1974」という本に対しての解説がある。次に、「司馬遼太郎対話選集」、「翔ぶが如く(十)」の解説があり、最後は、司馬遼太郎の奥様が、司馬遼太郎が亡くなった後に書かれた作品、「司馬さんは夢の中2」に対しての解説がある。
圧倒されるのは、「司馬遼太郎対話選集」である。
「司馬遼太郎対話選集」は実は10巻構成になっている。対談の量もすごいが、対談の相手も、当時の日本を代表する知識人たちだ。司馬遼太郎は、これらの人たちと堂々と対談を行う。そして、対談の背景や内容等について、関川夏央が「解説」を加える。司馬遼太郎の知的レベルの高さ、博覧強記ぶりには驚かされるが、それを解説する関川夏央も相当なものである。
本書の表紙の裏に、本書の紹介が以下のようになされている。
【引用】
作家の実人生とその時代精神とが交錯、反響し、ひとつになる場所で文学は生まれる-そのようなものとして読み解くとき、作家も作品もこれまでとは違った相貌を現わしはじめ、その読み解き自身もまた、歴史と現在とを切り結ぶひとつの文学となる。
【引用終わり】
上記を前提とすれば、「解説」は従って、「作家の実人生」や作家が生きた「時代精神」などについて触れる必要がある。それが、作品を理解・鑑賞する助けとなるのだ。関川夏央が本書に書いている「解説」は実際にそのようなものであった。