投稿元:
レビューを見る
カンボジアにあったゴミ山で暮らす人々を撮った写真集。
場所はフィリピンのスモーキーマウンテンと同じ感じ。
筑豊の子も思い出した。
一応報道写真のくくりに入れておくけど旅のアルバムと言った方が近い。
気色悪いもんを読んでしまった。
まず文章がひどい。
写真が本分であったとしても、伝えるつもりなら文章は大事だ。
だけどこの本の拙さは文章力だけによるものじゃない。中身が幼稚だ。
これはジャーナリズムごっこ。
ベトナム戦争の報道写真に憧れて、ぼくもああいうのやりたい!って昔の夢を再燃させているだけ。
だから形だけを真似ても薄っぺらい。
写真がモノクロなのも、理由や信念があるわけではなくベトナム報道をそのまま真似ただけに思える。
子どもを撮ってはいるけれど、ただ写しているだけ。
何を知ろうとして何を伝えようとしているのかビジョンがない。少なくとも見えない。
文章からわかるのは「ぼくがなにをかんがえたか」のみ。
その人たちがどんな人でどんな状況の中でどんな思いを持ちどんな暮らしをしているのかはさっぱりわからない。
全部自分の頭の中だけで完結している。
被写体は特定の子が多いそうだ。
ゴミ山にはスター的な子もいて、写真家たちの被写体になっていたらしい。
撮りやすい子、見栄えのする子、案内人が見せてくれる子。
そんなのはサルやイルカをパチパチ撮ってる観光客となんらかわらない。
ちょっとがんばった気になれば手に届く範囲にある見たいものを見ているだけだ。
そこにいてそこで働いて、ここの水を飲んでここの物を食って生きるしかない人を見て「たくましい」とかいう感想しか出てこないのにもぞっとする。
地雷原で働くベトナム人やイラク人を見て「あいつらはベトコン(アルカイダ)だから地雷が埋まってる場所を知っているんだ、じゃなきゃあんな場所で働けるはずがない」とのたまう米兵のような思考停止だ。
こういう視野の狭さはよくあることだから、それだけなら単に小さい人だと思うだけだけど、少女への目線が下衆で完全に嫌になった。
女子と目が合っただけで勘違いする中学生のようだ。
思春期妄想くらいなら可愛いもんだけど、先進国の中年男が貧しい少女に向ける目にはおぞけが走る。
あげくのシメが「こういう場所に何度もいくのはぼくの体によくないかもしれないけどぼくはがんばってとるよ」最悪。
ダニー・ラフェリエールが、「よくブードゥーの秘祭を見たとかっていう外国人がいるけど、あれ観光者向けのパフォーマンスか、せいぜい好意でデモンストレーションしてくれただけだからね。そう指摘するとたいてい、いや自分は現地の人と仲良くなって参加させてもらったんだって反論されるけど、お前がいる時点で秘祭じゃないって気づけよ」みたいなことを書いてたのを思い出した。
「調査されるという迷惑」http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4944173547を贈って差し上げたい。
この本の中に、立松和平が「良いマレビト」を自称しているという話があった。
される��は迷惑してるのに、する側は自分が良い存在だと思ってる。
なんかそういう感じ。