投稿元:
レビューを見る
大塚氏が宮台氏に的確に切り込んでくださっており、いつもは推し量りながら距離をとっているような感のある、氏のその意図や真意を随分はっきりと聞き出して頂いている最新の対談に加え、過去の対談も見逃していたものが多く、酷く示唆に富む一冊となりました。
大塚氏は、個人的に、そして実に勝手ながら卑近過ぎるきらいがあってやや避けていたのですが、今回見事に、やはり一番近しかったのだということを明らかにされてしまった感です。また、もちろん天地の違いがあるわけで、”母”や“母系”の愚、弱点についても、母のファシズムについても、見ないようにしていた点を見事に描き出してもらいました。今年一番の猛省点、来年に向けての宿題が明確になった思いです。
投稿元:
レビューを見る
<愚民社会>
この本について多くを語ると、ただでさえ色々なことを想像させるタイトルなのに余計に読者の方に予断を与えてしまうかもしれないという気がしているので、この本の読み方のヒント、というか、頭を冷やしつつ真摯に読む助けになりそうだと思う部分を、新たに収録された大塚英志さんの言葉から引用させていただきます。
――「沖縄ノート」をめぐる裁判が象徴するように大江的な「戦後民主主義的言説」を「叩く」ことのほうがこの何年も世の中の「空気」だったのに、「反原発」になった瞬間、用いられるロジックは大江そのものである、という「気持ち悪さ」を、しかし感じないところが「気持ち悪い」。
【そもそも自身の「鏡像」に向かった「気持ち悪さ」を指摘することが「批評」】
なんだけれど、それが成立しない。つまり「土人」化と無自覚な「大江」化は同じ現象です。(第1章「全ての動員に抗して」より。【 】カッコは編集部による)
批評とは自身の鏡像に向かった気持ち悪さを指摘すること。
そこから私は、
◆『愚民社会』に書かれていることを自分に言われていることとして受け止めなくてはいけないということ(「バカどもの生態をあざ笑ってやる」という気持ちではなく!)
◆大塚さんと宮台さんご自身も、この社会に自身の鏡像を見るような思いをされているのではないか
ということを思いました。
誰よりも実践的である大塚さんと宮台さんですので、ただ上から「もう日本は終わっている」と言っているわけでは全くない、ということは、強く言えると思います。
投稿元:
レビューを見る
「オレ達以外バカばっか」といよいよ公言することで、著者の活動を自己肯定しているだけの企画
http://www.amazon.co.jp/review/R1NY4XLKZ75RLH/ref=cm_cr_rdp_perm
投稿元:
レビューを見る
書名が「愚民社会」と挑発的ですが、内容は「土人社会」ともっと挑発しています。BREXITやトランプなどのポピュリズムが吹き荒れる世界の流れに刺激を受けて、二人の論者と書名に惹かれて開いた本ですが、3・11きっかけでまとめられた日本論でした。西郷隆盛や福沢諭吉まで遡り、日本の近代化が可能なのかどうか、という、かなり日本ローカルの特殊な事情を語り合っています。なのですが、経済と国土だけじゃないもの、とか論理だけでは溢れ落ちちゃうもの、としての文化への向き合い、という意味では普遍性も感じました。タイミング的には最終章の憲法改正を巡る議論が大迫力。土人憲法の行方は、どうなるのでしょう。脚注満載なので、それだけでも知らなかったことが知れます。でも、正直、ちゃんと理解出来てないと思う土人でありました…大塚英志のあとがきの「教育」に未来を託すスタンスに、宮台真司のトリッキーなロジックよりも共感を覚えたことも、備忘しておきます。
投稿元:
レビューを見る
読み進めるごとに、宮台・大塚両氏の諦念というか覚悟というか、とても納得できます。
この国は、この国の人たちは、変わることなく流されるように生きていくんだな…
どうしてそうなんだろう?と考えるけど、風土とか歴史とか地理的条件とか日本語とか…色々複雑にありそうだな…一言では言えない。
投稿元:
レビューを見る
踏絵のごとき書。キミは愚民・土人じゃないよね?と。先の復興担当大臣・松本龍の「知恵出したトコは助けるけど、知恵出さないヤツは助けない」発言を、「実に正しい」と同意する二人による挑発的な刺激に満ちた対談。近年、宮台真司には「愛のむきだし」や「サウダーヂ」での怪演っぷりでしか触れてなかったし、大塚さんに至ってはとんとお見受けしていなかったのだが、本書によって70年代以降生まれの評論家たちとの格の違いを見せつけられた。キチンとフォローし実践します。
投稿元:
レビューを見る
エリートマッチョな宮台節と、偏屈童貞中年的な大塚が、大いに語る!
今んとこ、アクが強すぎて、途中て挫折(2012/2/29)。
投稿元:
レビューを見る
「土人」としての日本人。田吾作。
国益。
民度。
日米関係。
巨大システムとその非常時における不能性。
気づいたのは、この手の対談ものは原則一気に読むべきだということ。途中で他の本を読んだりもしていたが、それが理解を大きく妨げていたようだ。
あとがきの最後の一文を引用しておく。
“そうしていつかどこかでその群れが誰かを殺すことに比喩として、あるいは比喩としてでなく、あなたは加担することになるのである。”
投稿元:
レビューを見る
震災後の日本に渦巻く『空気』
常に日本に漂う『空気』
そしてその『空気』に流され続ける日本人。
自分で責任を取ることのできない国民が『空気』に流されるのだ。
『震災後』『脱原発』『非日常』どれも皆『空気』なのだ。
投稿元:
レビューを見る
震災後の極端な二項対立での反原発、がれき広域処理反対を冷ややかに見ていたけれど、それではいけないと感じた。自分も土人であると意識し、自力で思考する、どうすべきか考えるきっかけになると思う。
著者の両氏とも立場の変遷を素直に話し、誤ったと認めているので、地に足のついた内容になっていると感じた。自論を守るためにまた論を展開されると、ますますついていけなくなるので、、、。
また、それぞれの主張について、背景や詳細な説明、備考が豊富であるのがよい。難しいと感じた話でもなんとか読むことができた。
大塚氏が「人は教育によっていかようにも変わることができる」といっている。子供には「空気に従うのではなく自分で考える」習慣を身につけるよう促す。できれば周りにも広げていきたい。その点で私自身は弱いところがあるので、自分も意識していく。
投稿元:
レビューを見る
『トゥルーマンショー』や『マトリックス』ではないが、「外側」に気付くことなく「マターリ」生きるのは、それはそれで幸せなのかもしれない。でも、私は、たとえすべてを知覚するのは不可能だとしても、置かれた状況について「自分の頭で考える」ことを徹底的に実践し続けていきたい。また、そういう個人を応援していきたい。そのような意味において、宮台氏の「共同体自治」や大塚氏の「カリキュラム」への取り組みには今後も期待したい。
投稿元:
レビューを見る
──ぼくが震災後この国の言説に乗れないのはそこでつくり出されるものが相も変わらず「魚の群れ」たちによる「空気」であり、その「空気」を「愛国」と呼ぼうが「反原発」と呼ぼうが同じである──
──そして今や、大衆を動員するのではなく、「大衆」にメディアも知識人も「動員」されている。首相も東と西知事も、そしてある意味で「天皇」さえ「大衆」に動員されている。──
大塚英志氏のあとがき部分からの引用だが、その通りだと思う。今の日本人に絶望している大塚氏の「土人」と切って捨てる言説は耳に痛い。
よくある「日本人ダメ論」なので読んでて気持ちのいいものではないし、いちいち「○○によれば」「○○にもあるように」「○○的にいえば」などといった他人の言説をもってくるので、知っていればいいが知らないとさっぱりつたわらず、ややすると自分達だけがわかっているといったオナニープレイのような文章なので本としてはおススメとしにくい。
対談集なのでこのへんはしかたないのかもしれない。
投稿元:
レビューを見る
東日本大震災と福島原発事故をきっかけとしてこの国は変わる、いや変わらなければならない、とあのとき思った。そして東浩紀の「一般意志2.0」を読み、未来に対して希望を持った。しかし2年が経ち、日本の恥部の一部が露呈しただけで一向に変わる気配がない。どうもおかしい。
本書によると「たかだが地震ごとき、たかだが原発事故ごときで変わるはずがない」、それほどまでに深刻な状況に陥っているという。近代化への努力を怠った愚民、田吾作、土人が今更何を言うか!という痛烈な批判。
暗くなる未来予測だが、「今いる『土人』たちはどうしようもないが、次の世代までそのことにつきあわせる必要はない」という大塚氏のあとがきに、ほんの少しの救いを見、重い肩の荷を感じた。
投稿元:
レビューを見る
読み手にもある程度の知識が必要。自分はまったく足りてないので、ところどころ分からない部分が多かった。
投稿元:
レビューを見る
子どもたちに憲法前文を書かせるなど、「近代」を根づかせるための実践をおこなっている大塚英志と、あえて「天皇」について語り「亜細亜主義」を標榜する宮台真司が、共通の問題意識をもちながら、東日本大震災以降におたがいの立場を入れ替えるようになったことをめぐって対話をおこなっています。
おおむね大塚が宮台にインタヴューをおこなうというかたちで議論が進められています。表面的には両者の立場は対極的にも見えますが、本人たちも認めているように、じつは極めて近い問題関心にもとづいてそれぞれの立場を選択したということがうかがわれます。
ただ、東浩紀シンパのわたくしとしては、両者のある意味で「啓蒙的」なスタンスにはついていけないと感じてしまいます。本書のなかで大塚はくり返し「なぜ天皇なのか、ほかのものでもいいのではないか」と宮台に問いかけ、宮台は「おなじ機能を果たせばなんでもいいけど、なんでもいいといってしまえば機能を果たさなくなる」とこたえています。さらに宮台はみずからの立場を「三枚腰」だとも述べていますが、こうした彼の主張は「メタ」が「ベタ」に取り違えられてしまう状況を踏まえたうえでの戦略的な振る舞いを意味していると理解できます。しかし、そうした取り違えが生じることには理由が存在しており、宮台のように「メタ」と「ベタ」の水位差をコントロールしうる立場はもはや維持しがたいように思われます。