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登山は登るだけでなく、下山もある。下るときにこそ、広く大きな景観が見える。これからの未曾有の時代にどう生きるか、著者の奥深い考え方にとても共感出来る。
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私自身、成長の呪縛から解き放たれていませんが、著者の言う下山の思想は新たな指針を我々に提示してくれます。のびやかに明るく下山できればと思いますが、私の経験からすると登山においては下りる時の方が結構精神的にきついんだけどな~
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この本は、完全に名前負けしている。
「下山の思想」というので、そのプロセス等を様々な視点から書かれているかと思ったのだが、その記述は、ほんの一部だけ。
立ち読みで十分読める、10分もあれば読める量でしかない。
後は、雑話ばかり。
昔買った靴が、履けるようになったとか、つまらない雑話ばかりである。
「下山の思想」と、全く関係のない話が、9割以上を占める。
最後の方は、読む気もしなかった。 (まあ、一応は読んだが)
買ってまで読む価値のある本ではない。
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下山というのは、文字通り登山の下り道のことです。当たり前です
が登山は登り続けるだけではありません。努力して登って山頂を極
めたら、無事に下りてこなければならない。その下山の過程では、
登りの努力と頑張りを反芻しつつ、風景を眺め、自分の来し方行く
末に想いを馳せる余裕が生まれます。
そう考えると、実は下山こそが登山のクライマックスかもしれない。
なのに、どうしても軽視されてしまう。確かに登ることは大事だけ
れど、ずっと登ることだけを考えてきた戦後の日本は、今、どうな
っているのか。そして、第二の敗戦とも言える今回の震災の復興に
おいても、またぞろ世界の経済大国という名の山頂を目指すのか。
そう五木氏は問いかけます。
その背後には、世間の支配的な価値観に盲従することへの強い抵抗
感があります。それは昭和一桁世代としての氏の戦争体験を通じて
培われたものです。事実を事実として直視しなかったこと。おかし
いと肌で感じていながら、知らないふり、感じていないふりをして
暮していたこと。その戦時中の自分のあり方は「耐えがたい心の痛
み」として今だに氏の中に深く突き刺さっていると言います。
だからこそもう知らぬふりはしたくない。いま自分たちは下山の途
中にあるという「どうしようもない実感」を直視して、この時代を
どう生きるかをきちんと考えてみたい。そういう思いから書かれた
文章が本書には集められています。
具体的な処方箋はありません。いかに生きるか、は一人一人が考え
るべきものだからでしょう。ただ、いくつかのヒントが示されます。
一つは、軽視されているもの、怪しいものの中にこそ真実があるの
ではないかという逆説的なものの見方を大事にすることです(「真
実は必ず一種の怪しさを漂わせて世にあらわれる」)。
例えば、平安時代末期に仏教界に革命をもたらした法然。比叡山き
っての大秀才と言われた法然が、お経も布施も必要なく、ただ南無
阿弥陀仏と唱えるだけで、罪深い者も必ず救われる、と説き始めた
のですから、既得権益を欲しいままにしていた仏教界は驚天動地の
思いをしたことでしょう。法然の主著『選択本願念仏集』は、今で
言えば「トンデモ本」として、仏教界の激怒を買いますが、その教
えは広く人々の間に浸透し、大きく仏教界を変えていったのです。
下山の時代を生きるもう一つのヒントは、社会は一夜では変わらな
いという認識を持つことです(「ローマは一日にしては滅びず」)。
半世紀かけて登った道は、下りるのにもやはり半世紀かかるかもし
れません。社会というものは、新しいものと旧いものが混在しなが
ら、少しずつ形を変えていくのです。その中で、諦めることなく、
惑わされることなく、自分の実感に従って、しかも反対勢力をも許
し仲間に引き入れながら、時代の新しい流れをつくっていく。そう
いうことがこれからの私達に求められるのかもしれません。
無事に下山すれ��また登ることができます。山頂にこだわって遭難
してしまっては元も子もありません。下山は、次の山に思いを馳せ
つつ次代にたすきを託す、とても味わい深いプロセスなのです。
すらすらと読めながら示唆に富む一冊です。是非読んでみて下さい。
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▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
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その時代を生きた一人として、私には耐えがたい心の痛みがある。
あの戦争のさなかで、私たちは事実を事実として直視することなく、
知らぬふりをして過ごしてきたという深い反省である。
(「民」という字は)〈目を針で刺すさまを描いたもので、目を針
で突いて見えなくした奴隷をあらわす。(中略)物のわからない多
くの人々と、支配下におかれる人々の意となる〉(…)
国は、民の目に針をさす存在である。「知らしむべからず」という
のは、古代から国家統治の原点だったといっていい。
登山のときと、下山では、姿勢がちがう。気持ちがちがう。めざす
のは山頂ではなくて、スタート地点である。
安全に、そして優雅に、出発点にもどり、いつかふたたび次の山頂
をめざす。
ちゃんと下山する覚悟のなかから、新しい展望が開けるのではない
か。下山にため息をつくことはないのだ。
私たちは歴史について、ある偏った先入観を抱いている。
それは時代の変化が、一朝にしておこるように思っている点である。
「ローマは一日にして成らず」
という。
だとすれば、同時に、
「ローマは一日にしては滅びず」
ともいえる。
下山の時代がはじまった、といったところで、世の中がいっせいに
下降しはじめるわけではない。長い時間をかけての下山が進行して
いくのだ。
戦後半世紀以上の登山の時代を考えると、下山も同じ時間がかかる
だろう。
あらゆる意見は仮説である。情報には必ずバイアスがかかっている。
はっきりした真実は、明日のことはわからない、この一点だけだ。
敗戦の直前まで私たち日本国民は、戦争に負けるなどとほとんど考
えてはいなかった。いつか神風が吹くと漠然と信じていたのだから
バカみたいなものだ。
絶望とか、希望とか、そういう境いを超えて、真実を真実として認
識することはできないものだろうか。
私が少年のころ、北朝鮮で迎えたときのラジオのニュースを思い出
す。
「治安は確保されます」
と、ラジオはくり返し放送していた。
「市民は動揺せずに現地にとどまれ」というメッセージである。
私たちはその放送を信じて、おとなしく平壌市内にとどまっていた。
だが、すでに敗戦の前から、関係者やその家族たちは、続々と駅か
ら列車で南下し脱出しつつあったのだ。
それを知らなかったというのは、愚かだったとしか言いようがない。
公というものは、そういうものである。民の立場で考えて対処する
ものではない。
かつて昭和のはじめ、『日米もし戦わば��といった内容の本がしき
りに世にでたことがあった。父親の本棚にも、よくそういう本が見
られた。当時の「トンデモ本」のたぐいだったのではあるまいか。
だが、実際に日米は戦争をした。そのことは間違いない。
真実は必ず一種の怪しさを漂わせて世にあらわれる。堂々たる真実
などはない。
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●[2]編集後記
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年末年始は家族の時間。普段べったりといれない分、この休みは極
力子どもと過ごすようにしていました。家族が四人になって初めて
の正月ですが、四人になるとさすがに賑やかで、体力的にも精神的
にも、親になるというのは大変なことなのだなあと改めて痛感させ
られた日々でもありました。
息子が生まれて二ヶ月半。かいがいしく面倒を見ていてくれていた
五歳の娘にも相当ストレスが溜まっていたようで、二人きりでいる
時に、いろいろと不平を聞かされました。これまで独り占めできて
いた親の愛情を、弟に分け与えないといけないということは、頭で
はわかっているようですが、やはり本当に納得できるまではもう少
し時間がかかるようです。
こちらの気をひきたい娘は、色々とちょっかいを出してきたり、い
たずらをしたり、駄々をこねたり。その背後にある気持ちがわかる
から鷹揚に接しているつもりですが、それでも、息子が泣き続けて
いる時にやられるとこちらも腹が立って、思わずきつく当たってし
まいます。それが彼女を傷つけてしまう。
一度いたずらが過ぎるので怒った時には、「どうせ許してくれない
んでしょ」と後からぽそっと言われ、はっとさせられました。「許
す」なんて言葉を娘が知っていたことも驚きでしたが、「許してく
れない」と思わせてきた部分があったんだなと深く反省しました。
許すこと…。長年の自分の懸案事項でしたが、新年早々それを娘に
突きつけられ、今年の課題がまた一つ増えたところです。
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今まで、頂点を目指すことに重きを置いてきた私たちだが、
もうすでに、登山で言うところの下山をしているのではないか。というもの。
下山というと後ろ向きな気持ちがするかも知れないが、
決してそうではなくて、むしろすがすがしく、
実り多い下山というものを思い描くべきではないか。というもの。
敗戦の時を生き抜いてきた人ならではの視線も感じる。
最近、そういった話を聞いていなかったな、と思った。
心晴れやかに下山を成し遂げる気持ちとは、どんなだろう。
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「太陽も朝日として昇り、夕日として西のかたに沈んでいく。
・・・
私たちは、山頂をきわめた。そして、次なる下山の過程にさしかかった。そして、突然、激しい大雪崩に襲われた。下山の過程ではしばしばおこりうることだ。その中から起ちあがらなければならない。そして、歩み続けなければならない。しかし、目標はふたたび山頂を目指すことではないのではないか。
・・・
見事に下山する。安全に、そして優雅に。
その目指す方向には、これまでと違う新しい希望がある。」
日本はこの先、どこを目指すのか、それは、いままでの山をもう一度登ろうとするのではない、と強く感じた。自殺者が12年間連続、3万人を超える・・・という事実。この事実を、どう捉えるのか。自らが人生を全うするときに、幸せだったと感じることをできるのであろうか・・・考えさせられる内容でありました。お薦めです。
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「五木寛之」と「下山の思想」と「ベストセラー」という3つのキーワードから購入した。
内容は、思っていたものと違っていて、少々がっかりした。著者も終わりに記しているが、ある意味、雑文の一冊であり、40代の私にとっては理解に苦しむ構成の一冊であった。
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著者が伝えたいことは?
私たち、我が国、世界は、下山の途中にある。
その時代をどう生きるか?
下るということに、軽視の感覚があるが、登山という行為は、頂上を極めただけで完結するわけではない。
下山こそが、本当は、登山の最も大事な局面である。
私たちは、冷静に現実を直視し、自分がどこにいるのか、行き先はどこなのかをつかまないといけない。
私たちは、実り多い豊かな下山を続ける必要がある。
私たちは、新しい物差しを持ってたちあがなければいけない。
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法然や親鸞が登場するのはやはりこのような末法のような世の中だからなのでしょう。
そんな世の中の焦燥、諦めのような感覚のなか「下山」という視点をかえて、そして物事への発想を変えさせるあたり、さすがだと思います。
それでいて内容的にはほんとうに日常のなにげないことも触れていて、私のような凡人でも親近感をもつことができます。
すこし「下山」の話がくどく感じてしまいましたが、そういう感覚をもってもう少し気を楽にすごしていくべきなのかもな、なんて考えさせられるとともに、でもまぁがんばろうか、という気をもたせてくれるそんな書です。
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明治以降、そして、戦後の近代化・成長を「登山」。
世界第二位の経済国「頂上」を極めた。
そして、今これからは「下山」の時代。
五木さん自身も、下山の時代の希望をはっきりと見出してはいないけれど、下山を覚悟することで、その先に新しい展望があるのではないかと強く感じているようだ。
それを、法然を考えることや、死と病を考えることからつかみとろうとしている。
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前半はすごく面白い。
確かに登山は意識するが、下山は意識してこなかった。
今までなかった価値観に触れられた一冊。
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マイナスのオーラが漂う一冊。マイナスな事を聞いて「自分はそれほど悪くない」とポジティブに考えられる人向け。
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日本は下山に入っている。
ゆっくり、静かに。そして、確実に。
今の政治家は、高度経済成長とバブルの幻想に生きているように思う。
どちらも経験しながら、下山という結論を出した筆者を尊敬する。
思春期にバブル崩壊を経験した世代は、共感できる。
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「下山」は高い山を一度制覇したものが使う言葉であって、
登ったという実感がないものにとってはいささか理解がし辛い。
戦中戦後を越えてきたという筆者はまだまだ上から目線だ。
いま「下山」という言葉を使わなくても、
バブルが終わった瞬間に大抵の人間は危機感を感じただろう。
「遅いよ、五木先生」…読みながらそう呟いてた。
思想本というより散文集として読めばそれなりに面白い。
ひとつ反論させていただければ、
日本には「スパシーボ」という言葉はないが
「いただきます」と「ごちそうさま」という言葉がある。
それは素晴らしい文化なのではないだろうか。
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タイトルからして日本はこれから下山の思想を持つべきだ、なぜなら…という論旨が全ページに渡って繰り広げられるのかと思ったらさにあらず。どちらかというと著者の最近の出来事に関してのエッセイ集に近い。タイトルに惹きつけられて読むと少し肩透かしかも。