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『大般涅槃経』ともいいますが、お経のような難しいことが書いてあるのではなく、ひとつの物語調に書かれていてとても面白いです。
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p156
「アーナンダよ。わたしが亡くなったのちには、修行僧チャンナには、<清浄な罰>(ブラフマ・ダンダ)を加えなさい。」
「尊い方よ。<清浄な罰>というのは、そもそも何ですか?」
「アーナンダよ。修行僧チャンナは、自分の欲することを何でも言ってもよい。しかし修行僧たちはかれに話しかけてはならないし、訓戒してはならないし、教えさとしてはならない。」
※チャンナーChannaー車匿.
かれは気むずかしく、かたくなで、教団内部にあっても他人と協力せず、とかく摩擦・抗争を起こした(詳しくは赤沼智善『印度仏教固有名詞辞典』p128−130)しかしここで述べられている罰を受けてのちには、人格も円熟したと言われている。
Wikipediaー
チャンナは釈迦と同じ日に生まれたという。チャンナは自分がクシャトリアであり、仏と最も親しい者であると思い込んでおり、しばしば悪口を働き、そのため悪性車匿(あくしょう・しゃのく)、あるいは悪口車匿(あっく・しゃのく)といわれた。舎利弗や目連に対しても嫉妬し悪口をいい、釈迦仏も幾度も彼に注意したが、その場では大人しいが、しばらくするとまた悪口を言うことを繰り返した。また戒律を犯しても認めようとせず、他の比丘衆からもよく駆遣呵責(くけんかしゃく=厳しくその責を咎める)された。
釈迦仏の入滅直前に、阿難(アーナンダー)がチャンナをどう扱えばよいかと問うと、ブラフマ・ダンタ(黙擯=だまってしりぞける、つまり無視する)の罪法を科した。アーナンダーは、それでもチャンナは気が荒く乱暴者であるから、そのばあいはどうすればよいか再度訊ねると、仏は大勢の比丘を率いていけばよいと答えた。しかして釈迦仏が入滅した後に、アーナンダーは500人の比丘を連れてコーサンビーのゴーシタ苑に彼を呼び出し、仏から伝えられた罪を申し渡した。彼はそれを聞き、気絶して倒れたが、それを機に心を入れ替え修行に励んだ。
p313
「つくられたものは実に無常であり、生じては滅びるきまりのものである。生じては滅びる。それら(つくられたもの)のやすらいが安楽である。」
というこの詩は、釈尊の亡くなったときに唱えられた詩である。
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釈迦の最期の日々が、事実・創作入り乱れて詳細に綴られている。
永遠の命であるはずの神格化されたブッダと、生身の人間として必ず臨終があるブッダに、どう整合性を持たせるか。
そんなことに後代、経典をつくった人々は悩んだに違いない。
もちろん、下痢をしたとか腹痛を起こしたなどの生々しい描写のほうが、惹きこまれる部分だ。
詳細な訳注とともに読めば面白い。
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苦からの解脱を解き続けた釈迦、最晩年も説法の旅を続けた。病気に苛まされながらも訪れた村々で渾身の教えを説く。比較的史実に近いのではないかと推測されている涅槃経です。
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一周するとここに辿り着く本。
ウンベルト・エーコが「全編アクション、現代の読者が現実から逃避するために書物にもとめるすべて、セックス(それもたっぷり)、不倫、男色、殺人、近親相姦、戦争、虐殺、なんでもござれときている」とおちょっくっていた「聖書」とか、その親戚(「聖書」で反省したのかかなり堅物)の「クルアーン」よりは面白くないけど。
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先に、渡辺照宏先生の『涅槃への道―仏陀の入滅』(ちくま学芸文庫)
http://booklog.jp/users/murasakiasano/archives/448008956X
を読んでから、こちらに取りかかるほうが、一般の読み手には
都合がよいと思います。
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仏陀の死までの最後の旅を描いた仏典。
仏典にしては珍しくストーリー性が有り、
死という結末に向かって話が展開される。
阿南尊者が懇願すれば死ななかった事になっていたり、
地震が起こったりと神話的な描写もあるものの、
驚くほど人間らしい「死」の様子が描かれている。
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ブッダに最後に供養をささげたチュンダに注目です。
カーストの外にある鍛冶屋の息子チュンダの供養の食事を
ブッダは快く受けてその結果死へとむかうのですが・・・
この供養は釈尊がお悟りを開かれたときのスジャータの
乳粥の供養と同じように尊くおおlきな功徳があるということ・・
チュンダは日本では純陀尊師といわれ在家仏教の祖といわれるかたですね。
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『大般涅槃経』のパーリ語(サンスクリットの俗語の一つ)からの翻訳である。ほかの仏典と同様にくり返しが多いものの、ガウダマの死に関する物語であり、ストーリー性があって比較的読みやすい。興味深いと感じたのは、アーナンダがガウダマに死なないでくれと懇願しなかったため、もはや弟子たちがガウダマから独立して教えを説けるといった悪魔の言葉をゴウダマがききいれ、寿命の素因を断つ所である。キリスト教でもそうだが、奇跡を行う教祖の死には愚かな弟子がつきものなのである。ガウダマは鍛冶のチェンダが捧げたキノコ料理を食べ血を吐いて、沙羅双樹の所まで歩いて、そこで死ぬ。死ぬ前に、チャンダの不安を取り除いてやること、修行・布教・葬儀(千枚の布にくるんで、油につけて火葬)、教団内の不満分子に「清浄な罰」(教えないこと)をするように等と言い残す。また、修行者は葬儀に関わらず、在家信者の王族にまかせるように言うのだが、アーナンダや大カッサバらが遺骨の分配をとりしきる。そして、あちこちにストゥーパ(卒塔婆)が建つことになる。
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ブッダの「教え」として読むよりは、「修行を完成させた者」の最期の「物語」として読んだ方が味わい深いように思う。
非常に、詳細にブッダの入滅までの様子が描かれている。
教え自体にはあまり踏みいって描かれてはいない。
ブッダが、側近に若き人アーナンダを連れて、余命が三カ月であることを知りながら、心を落ち着かせ、町や村を回って教えを説く様が描かれている。
「戒律とはこのようなものである。精神統一とはこのようなものである。智慧とはこのようなものである。戒律とともに修行して完成された精神統一は大いなる果報をもたらし、大いなる功徳がある。」云々・・・。
しかし、その言葉のなかに、「尊師」の、心の統一と清らかさ、そして物事の道理に通じている聡明さを感じることができる。
同じ言葉の、確認するような、繰り返しの多さも、この仏典に挙げられる大きな特徴。
「諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
アーナンダよ、このようにして、修行僧は自らを島とし、自らを頼りとして、他人を頼りとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないのである。」
と、ブッダは、最期の旅で繰り返し、「自灯明・法灯明」の教えを説く。
また、悪魔がブッダのところにやってきて、「弟子たちも立派なのだから早く入滅されたらどうですか」と繰り返し勧める場面もあり、それを止めなかったアーナンダがブッダに「おまえの罪である、お前の過失である」と諌められる場面もあり。
ブッダは、鍛冶工チュンダの提供したキノコを食べて、激しい下痢、血便が出るほどになったというが、それでも精神統一を保って、旅を続けたという。
それでも、ブッダは「尊い供養である」と言う。
世話役のアーナンダが、水を汲みに河へ行くとその水が澄んだりして、「すごい神通力だ!」と驚いたり。
沙羅双樹の花が季節でもないのに満開となった話は有名ではあるが、ブッダが、それを見て、「修行完成者は、このようなことで供養され尊敬されるのではなく、正しい理法に従って実践した者であるからこそである」と言っている話は興味深かった。
入滅時には、誰の入る隙間もないほど、神霊たちがブッダを取り囲んだという。
最期に、ブッダは修行僧たちに「何か、疑問はないか」と何度も問うが、最期にアーナンダが、「ブッダに関し、法に関し、集いに関し、道に関し、実践に関し、ひとりの修行僧にも疑い、疑惑が起こっていません」と答える。
ブッダの最期の言葉は、「諸々の事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい。」であった。
あとはブッダ入滅後の、遺骨の分配やストゥーパについても生前ブッダは詳しく指示しており、その通りになって、遺骨は天でも地でも尊ばれたということである。
私たちは、自分自身の死に際して、こんなに落ち着いていられるであろうか。
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http://scheherazadeoflight.blog.fc2.com/blog-entry-327.html
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亡くなった同僚僧の名前を次々と上げて、彼らはどうなったんだと聞いたり、ブッダが死んだらどうしていいのかわからないと縋り付いたりする、アーナンダとのやり取りが印象的。
ブッダは、それに対して決して明確に死後について語らない。自らの老いや寿命を率直に説いて、人は皆死ぬんだと諭す。その上で、ただブッダとその教えを守って正しく生きよと説くのみ。
宗教と聞いて、思い浮かべる奇跡とか超人的な力とは全く別次元、普通の人間としてのやり取りがある。そして、この悩みや対話は、数千年を経た我々にも全く同じ質量感で迫ってきます。
実は、本書を読む前に、本書については、五木寛之さんの百寺巡礼のインド編とNHKの100分de名著という番組の2系統の解説に触れています。
私の印象は、ひとりの老いた人間としてのブッダに焦点を当てた五木さんの解説に寄るところが多いものです。
NHKの番組の方は、番組のコンセプトに沿ってか、サンガという組織論に重点が置かれていて、それはそれで興味深いのですが、私は五木さんの読み方の方が好きです。
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ゴータマ・ブッダがニルヴァーナ入る、すなわち輪廻転生から離れた境地に入る、つまり死ぬ前のお話。
七つの法を守っている間は修行僧たちは繁栄するという教えや、その他の教えを説いていることが記されているが、なにぶん読みにくい。
300ページ以上あるので、読了までかなりかかるな、と気にしていたら、本文は半分だけで残りは解説であった。
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(2016.10.19読了)(2016.04.12購入)(1981.06.10・第3刷)
副題「大パリニッバーナ経」
Eテレの「100分de名著」取り上げられた本なので読んでみました。
ブッダが涅槃を迎える前後のことが記してあります。どこの村に行って誰にあって、何をしゃべったのか、というあたりです。
出されたキノコ料理でおなかを壊し、亡くなったようです。
遺体は火葬され、遺骨は八つぐらいに分骨されて埋葬されたとか。
仏教の教えを学ぶ人にとっては、示唆に富む教えが詰まっているのでしょうが、凡人にとっては、なにごともなく読み終わってしまいました。
キリスト教にとっての新約聖書福音書に当たるような本なのだと思います。
全体で320頁ほどある本なのですが、翻訳部分は180頁ほどでその後に130頁ほどの訳注がついています。
【目次】
第一章
一、鷲の峰にて
二、修行僧たちに教える
三、旅に出る
四、パータリ村にて
第二章
五、コーティ村にて
六、ナーディカ村にて
七、商業都市ヴェーサーリー
八、遊女アンバパーリー
九、旅に病む‐ベールヴァ村にて
第三章
一〇、命を捨てる決意
一一、悪魔との対話
一二、大地震に関連して
一三、死別の運命
第四章
一四、一生の回顧‐バンダ村へ
一五、ボーガ市における四大教示
一六、鍛冶工チュンダ
一七、臨終の地をめざして‐プックサとの邂逅
第五章
一八、病い重し
一九、アーナンダの号泣
二〇、大善見王の物語
二一、マッラ族への呼びかけ
二二、スバッダの帰依
第六章
二三、臨終のことば
二四、死を悼む
二五、遺体の火葬
二六、遺骨の分配と崇拝
訳注
解題
●法に関する講話(45頁)
戒律とはこのようなものである。精神統一とはこのようなものである。知慧とはこのようなものである。戒律とともに修養された精神統一は、偉大な果報をもたらし、大いなる功徳がある。精神統一とともに修養された知慧は、偉大な果報をもたらし、大いなる功徳がある。知慧とともに修養された心は、諸々の汚れ、すなわち欲望の汚れ、生存の汚れ、見解の汚れ、無明の汚れから完全に解脱する。
●きのこ料理(110頁)
尊師が鍛冶工の子チュンダの食物(きのこ料理)を食べられたとき、激しい病が起こり、赤い血が迸り出る、死に至らんとする激しい苦痛が生じた。
●訪ねて感激する場所(130頁)
修行完成者はここでお生まれになった
修行完成者はここで無上の完全なさとりを開かれた
修行完成者はここで教えを説き始められた
修行完成者はここで煩悩の残りのないニルヴァーナの境地に入られた
☆関連図書(既読)
「お経の話」渡辺照宏著、岩波新書、1967.06.20
「釈尊物語」ひろさちや著、平凡社新書、1976.05.08
「釈迦と女とこの世の苦」瀬戸内寂聴著、NHK人間講座、2000.04.01
「ブッダ『真理のことば』」佐々木閑著、NHK出版、2011.09.01
「寂聴生きる知恵」瀬戸内寂聴著、集英社文庫、1997.03.15
「「いいこと」がいっぱい起こる!ブッダの言葉」植西聰著、王様文庫、2010.12.20
「ブッダ『最期のことば』」佐々木閑著、NHK出版、2015.04.01
「般若心経」佐々木閑著、NHK出版、2013.01.01
「「色即是空」の研究」山本七平・増原良彦著、日本経済新聞社、1984.10.25
「わが般若心経」西村公朝著、新潮文庫、2002.04.01
「生きて死ぬ智慧」柳澤桂子著・堀文子絵、小学館、2004.10.10
(2016年11月3日・記)
(「BOOK」データベースより)amazon
原始仏典の中にはブッダの生涯はほとんど記されていない。だが彼の死は、信徒にとって永久に忘れえぬ出来事だった。パーリ語本『大パリニッバーナ経』の中に、ブッダの死とその前後の事件が詠歎をこめて語られている。本書はこのパーリ語本を底本とし、サンスクリット本、漢訳本を参照して邦訳。巻末に周到詳細な注を付した。
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◯全く月並みな感想ではあるが、師の入滅を聞いたアーナンダが、悲しくて閉じこもったところを、師に呼び戻され、諭されるところ、とても古い古典ではあっても、慕う人をなくすということの喪失感への寂しさや悲しさを感じる思い出深いシーンであった。
◯しかし、過剰に神格化することや、教団を形成するための都合であるとか、そういったことの入る余地がないシーンだけに、事実であるように感じられ、また、その際の師の教えも、虚飾なく、真実語られた言葉なのかなとも思えた。