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表紙のフェルメールの天文学者の絵が同じ年に生まれたスピノザだろうという内容。フェルメールの絵の表紙にひかれてしまったが、内容は期待外れだった。
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ジャン=クレ・マルタン(杉村昌昭・訳)『フェルメールとスピノザ』。
ちびちび読みながら、なんとなく読了。
フェルメールの描いた「天文学者」のモデルがバールーフ・デ・スピノザであったかどうかは
とりたててこの本の要点というわけではなくって、
光学(マルタンがいう「まなざしの効用」)としてスピノザの思想を読んでいくことが
この本の肝でござるゆえに、そのヘンを誤解して読むとおもしろくはなかろうと思ったりする。
スピノザはなにも決定論者だったわけではない。
むしろ、自己以外の外部にもたれかかろうとする人間に、自由の厳しさを教えようとしたのだろう、とか思った。
厳しいけれども、そのさきにはきちんと見返りがあるのだ、ってことだろうかぬ。
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前半は何が言いたいのかよく分からなかった。後半になって、フェルメールとスピノザの交友関係にからめて、永遠の瞬間を絵に表出させたフェルメールがスピノザの哲学の『永遠』の観念の体現者のような論旨。そもそも、フェルメールとスピノザは同一人物では?という疑いもある中、今更こんな本が出ても何だかなー!という感じ。翻訳が悪いのかとも思うが、、、
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なんやかや書いてあるが、
「われわれの立場はむしろベルクソン的なフィクションの自由によるもので、一見ありえなさそうなことが、確かなことよりもずっと創造的な空間を開くという確信に基づく。」
というのに要約されている。
その通り、ここに関係があったのかなかったのか、究極にはわからないけども、関係があったとみたほうが、世界は豊かになる
正確な歴史を知りたい、というのは、そもそも矛盾だ。
正確であろうとすると、歴史は存在し得ない。
では、何を基準にするか、というと、記録があるかないか、でしかない。
果たして世界のどれほどが記録されているのだろう?
記録されてないからといって、それは今の歴史学の方法にあわない、というだけで、解釈の可能性をなくすのは、そんな退屈な歴史がちなみに何の役に立つというのだ?
実証的な歴史という怪しさにこもるだけでなく、実証的な歴史は残しておくにしても、それだけでない歴史があっていい。
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観念(もの、肉体に属するコナトゥスも観念だ)に永遠を表したスピノザに対応し、フェルメールの視覚表現は、見るという、観念を接続しない肉体の機能をもって永遠を顕現させるというような内容。
生まれた年が同じとか、フェルメールはスピノザの絵を描いていたとか、そういった同時性は特別この対応関係を深めたり、根拠づけたりはもちろんせず、むしろスピノザの神の観念を用いればいろんな事象が永遠の相のもとに説明されうるように見える。
レンズ磨きとフェルメールの暗室のつながりのエピソードなど累進していく、重層的な語り口が楽しい。