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雪村の中にいる「男の子」はメタファーなのだろうな。自分が嫌いな人の耳には誉め言葉は届かない。自分に全てのベクトルが向いていると、人を介してしか自分は存在できなくなる。しかも人から愛されてもそれを疑いたくなる。ほんとうに気持ちを向けるべきは世界の側。でも雪村は何度か告白されててうらやましい(爆)
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この世は二人組ではできあがらないと似ている。著者のポリシーがびしびし伝わってくる。そちらの方が全面に出ているせいか、物語の内容は印象に残らなかった。だけど、好きな小説です。
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『あのさ、私、最近急に、世界がある、っていう気がしてきたんだけど、時田くんは最初っから、世界がある、って知ってたの?』
自分はカメラになって世の中を写しとりたい、自分というカメラで。山崎ナオコーラはどこかでそう言っていた。そしてこの本の中でも主人公の作家に同じようなことを言わせている。そう言う山崎ナオコーラの小説は、確かに見過ごしてしまいそうな世界を山崎ナオコーラ色のレンズを透して描いているのが魅力になっている場合が多い。しかし最近の彼女の小説はどこかしら自律宣言めいたものが多いようにも思う。世界ではなく自分自身を描いてはいないだろうか。この「私の中の男の子」もまた然り。
もっともこの本は前半と後半で随分と趣きが異なるようにも思う。前半は一人の女性の気持ちが小さな世界の中だけで右往左往する様子が描かれる。その閉じたような世界観があるからこそ後半で一気に世界が広がるような印象が強くはなると思うけれど、小説というよりは誰かの日々のブログを読み続けているような、ちょっとした居心地の悪さが、そこには付きまとう。それは他人の日記を盗み見る時の居心地の悪さとどこかで繋がっている感覚だ。この小説の主人公を山崎ナオコーラ自身に重ねあわせて読まないようにしないと、その感触は増々強くなってしまう。
そんな私小説的な雰囲気もさることながら、世界を山崎ナオコーラ色のレンズを透して写しとってみたいと公言していた作家の良さが前半の恋愛小説めいた文章の中からは中々見えてこない。もっと、なるほどそういう風に世界をみることもできるなあ、という話を期待しながら読んでいるファンとしては残念な感じがする。
後半、一人の人間として自律するさま、世界が急に広がるような展開、が描かれるようになると、少々ぶっきらぼうな紋切り型の言葉づかいでありつつも断言した中に同時に許容される不確実性や多様性が存在する、という山崎ナオコーラの独特のイメージが広がってくる。その多少哲学的な物言いこそ自分が好きな山崎ナオコーラなのだ。世界は自分自身の視点からだけ成り立っている。そう宣言しながらも、彼女の小説の主人公は常に世界の小さな変化に敏感だ。その世界を記述する文章がとても印象的なのである。
それにしても最近の山崎ナオコーラの小説の中で流れる時間の早さは、少し度が過ぎはしないだろうか。確かに大きな精神的な変化が昨日今日の時間の長さの中で起こるのは不自然だとしても、まるで朝の連続テレビ小説の総集編を見ているような時間の流れ方起こる時に、少々置いてけぼりを喰らったような感覚を味あわされることがある。むしろその変化がじっくりと描かれてたらば、と思うこと仕切りなのである。
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ジェンダーのおはなし、なのか…?
とにもかくにもナオコーラさんのおはなしだなあ、という感じ。
突拍子もないことを淡々と書かれてしまうと、淡々と受け入れるしかなくなる。
さらりとした錦紗のような物語だった。
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自己愛?自己否定?
こういう小説は、距離をうまくとりながら、客観的に読めたらいいとおもうが、どうしても共感しようとする姿勢で読んでしまう癖があり、うまい感想がでてこない。
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山登り辺りからずれていったというか、なんか置いていかれたような。
働く女の子にはみんな、心に男の子がいるのかな。この考えこそジェンダーな気がするけど。
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山崎ナオコーラは好きな作家だが、
この作品を読み始めたときは
いつもと似たような登場人物に少し飽きたかなという印象だった。
しかし読み進めるにつれてやっぱり引き込まれた。
性別に対する不満や不安、こんな風に考えることある、と感じた。
思ったこと、考えたことを文章にするのが上手だなぁと
作家なんだから当たり前だけども素直に感心した。
自分とリンクする部分を感じつつ
この作品はどこまでフィクションなのかな?と思った。
そして案の定、著者紹介の絵に笑った。
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著者近影のあたりについては、最近読んだ山本文緒のエッセーで、「この人は顔にコンプレックスがないことが不思議」みたいなことをネットで書かれ、「そーかー、この顔はコンプレックスを感じなきゃいけないような顔なのか」とはじめて思った、という話を思い出した。結局彼女は顔は自分でもあまりポイントにならなかったらしいけれど(ただし太ることについては気になるらしい)。
文章を書くことによって、身近な=物理的な人間関係から超越することができると思っていたのに、ネットなどの双方向メディアを通じて、かえってそれを意識させられるというのは、たしかにそうなんだろうなぁと思った。ネット社会になるまでの作家は、実際、生身の肉体からある意味超越できたのかもしれない。
ネットの匿名性も、程度の問題にすぎないということを人々は意識するようになり、日本にはなじまないと言われてきた(実名登録の)FACEBOOKも遅まきながら流行をはじめ、人々の認識もまた変わってきたんだなと感じさせられた。
それ以外は、今までのナオコーラ節の繰り返し観は否めなかった。もうちょっと冒険が欲しいかなぁ。
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女の子の中の男の子の部分って必ずあると思う。
女の子扱いされるのになれてても、それが当たり前だと思ってても、日本の男社会が基礎の目線で見られるときに女でいるのが億劫なときって必ずあると思う。
それが書いてある気がした。
ここまで酷くないけど、私も出来るなら男の子になりたい。
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あ、読まなきゃ、ナオコーラ、と思う瞬間があって
それは、新刊がでたときでも、ずっと読みたかった作品をようやく見つけたときでもなくて、ふと、今だ、というとき
そして、今のわたしが、いつも出てくるので
ぞぞぞ、とする
不思議なくらいに、わたし
今の、わたし
わかっているのだけど、気付かれないように、言葉を積み上げようとしてこなかった気持ちを、暴かれてしまう
こんな人がいるのだなぁ
こんなにも、おなじことを抱えている人がいるのだなぁ
でもって
いつも物語としては、うーん、と思ってしまうよ
なんだろう
科白ひとつひとつ、これ、言いたいっていうのが際立っているというか、物語が途切れているような気がしてしまう
あまりにも、科白にはっとしてしまうからかも
すきです、山崎ナオコーラ
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■性別の曖昧な作家になりたいんです。
書籍「私の中の男の子」
(山崎ナオコーラ著・講談社刊・193頁)から。
主人公の若手女流作家・雪村は、どこか憎めない
存在感があるな、そんな感想を持って、読み終えた。
偶然、私が図書館に行った時、新刊コーナーにあり、
何気なく手にとってしまった、という書籍であり、
正直、あまり期待せずに読み始めたのだが、
飄々とした行動や考え方が、妙に親近感を覚えた。
読後に残された多くのメモを読み直すと、
これかな、っと思えるフレーズにぶつかった。
「性別の曖昧な作家になりたいんです」
「私の作品の持ち味である『性別を越える陶酔感』を」
若い女性が書いたのに、
「男の人に『俺のための本だ』と思ってもらいたいんです」
そんなフレーズが気になった。
私はそこまで意識していないが、文章に性別なんて関係ない、
書いた人の性別が必要なのか、と思うことはあり、
彼女の言葉を借りれば、
「女の人に『私のための本よ』と思ってもらいたいんです」
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今回の物語のテーマは「性別」。
10代で作家デビューを果たした主人公が、女性扱いされることに疑問と嫌悪感を抱いて、それでも仕事に生きるのだ!ともがき苦しみつつ、周りの人間と、社会の中で生きて行くという物語。
ナオコーラさんの文体に目が慣れてきました。
さくさく読めてしまう。
ただ、雪村(主人公)の性格があんまりイメージできなかったのと、前半と後半の繋がりが「…ん?」という感じだったので☆みっつ。
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「男性」を主体として書くことに長けている作者が、今回は性別を超越した「人間」を描く。
女性でも男性でもない「作家」をめざして物語は進む。
主人公は自分を自在にコントロールしようともがく。ただ、ナオコーラさんの文体は「もがき苦しむ」という重々しいものではない。もがくことも人生の一部分ととらえているかのように、実にかろやかに表現する。
普遍の世界があることを信じながらも、作家としてただ強く、そしてより良くなるために孤独と歩む。
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雪村には十九歳まで性別がなかった。第二次性徴はあったし、体は膨らんだし、性交の経験もしたが、とくに性別はなかった。十九歳で作家デビューしたときに、初めて性別ができた。
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はじめて山崎ナオコーラさんの本を読んだ。好きでも嫌いでもない感じ。主人公に感情移入して読むより、主人公の姿を眺める本だなと思った。