紙の本
文学の本質は「涙」であると断じる著者ならではの卓抜な評伝
2012/05/18 15:36
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投稿者:あまでうす - この投稿者のレビュー一覧を見る
林芙美子に続いて著者が取り上げたのは、なんと北原白秋です。
明治大正昭和の3代にまたがって詩歌の世界で活躍したこのいぶし銀のような文学者の生涯と業績を、前著と同様に慈しむように呼吸を共にするように、もう2度と戻らない昔を懐かしい昔をしみじみと振り返るように書き表しています。
廃市、柳河の自然の中ではぐくまれた伸びやかな詩魂が、若き日の名作「邪宗門」「思ひ出」を生んだのもつかの間、明治45年に引き起こした人妻との姦通罪事件による入獄、そして郷里の実家の倒産と一家逃亡は、詩人の生涯を激変させると共に、その文体と詩形をいわば「社会化」し、鍛え上げることになりました。
詩壇の寵児として一斉風靡した若き絶頂期よりも、社会的現実との格闘や挫折を経た後の平易な童謡つくり、そしてどこか水墨画を思わせるような、晩年の内心の想いをありのままに歌いながら自由で自在な古淡の境地を高く評価する著者の主張には説得力がありますし、白秋は軟弱で思想が無いと馬鹿にする、頑なで浅墓なイデオロギー論者への反論もじゅうぶん頷けます。
脳内論理の思弁で世界を解釈したつもりの自称思想家よりも、軟弱で繊細な自然鑑賞家の直観的詩藻のほうが世界を正しく射ぬいていることが多いもの。
「からまつの林を過ぎて、からまつをしみじみと見き。」
という詩句には、長谷川等伯の「松林図屏風」の極北の人世観がたゆたっているようです。
また、白秋の「からたちの花」が素晴らしいのは、それまでからたちの白い花や青い棘、まるい金色の実についてうたってきた詩人が第5連で突然、
「からたちのそばで泣いたよ。みんなみんなやさしかったよ。」
と転じるからだ、と説く著者はこの詩句に詩人白秋の真骨頂を見ているのですが、日本文学の本質は「涙」であると断じる著者ならではの卓抜な視点だと思います。
からたちのそばで泣きたる少年が「からたちの花」を作曲したり 蝶人
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本書を繙き、白秋の境涯に触れながら、
家業の破綻という同じ運命に翻弄され、
有為転変を生きた山頭火のことを、
たえず対照しないわけにはいかなかった私である。
山頭火、明治15-1882-年12月生れ、出生地は現在の防府市八王子、
近在では大種田と称された大地主の総領息子であった。
白秋、明治18-1885-年1月生れ、周知の如く福岡県南部の柳川出身、
生家は代々続いた海産物問屋であり造り酒屋でもあり、
これまた総領息子として生を享けた。
両人ともに早稲田に学んだ。
山頭火は、明治34-1901-年、開設されたばかりの東京専門学校高等予科-翌年早稲田大学に改称-に、3ヶ月遅れの7月入学であった。
また白秋は、明治37年4月、早稲田大学予科へ入学。
山頭火は文学科志望、同期に小川未明や吉江喬松、村岡常嗣ら。
白秋は英文科、同期に若山牧水や土岐義麿がおり、
牧水とは同郷の誼でいちはやく下宿を共にするほどに交わっている。
だが、両人とも、すでに家産の傾きをかかえ、早稲田での学業生活は長続きしていない。
山頭火は、神経衰弱を病んで、明治37年2月に退学、
同年7月には、病気療養のため帰郷している。
彼が、自分より2歳年下の萩原井泉水に師事し、
おのが詩業を自由律俳句に求め、句作するようになるのは、
帰京後、結婚そして長男出生を経た後の、
大正2-1914-年、31歳のことだった。
白秋は、入学の翌春-M38-に早くも退学しているが、
「早稲田学報」の懸賞詩に一等入選をするなど、
その詩才は、すでに詩歌同人らに評価高く、注目の人であった。
さらに翌39年の春には、与謝野鉄幹・晶子の新詩社同人となり、
木下杢太郎や石川啄木、吉井勇らと交わるようになる。
若くして文芸を志し、まことによく似た境涯にありながら、
この二人、それぞれの詩才の開花、その時期のズレによって、
その後の歩みは、決定的なほどに乖離しているのだが、
その対照に想いを馳せながら読み進めるのもおもしろい。
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それなりに北原白秋についての知識、イメージは持っていたが、こういろいろ知らされても興醒めの感じもする。特に暴露本というのではないが。
”見ぬもの清し”とも言うではないか。
それにしてもこの本を書くのに9年もかけるのは長すぎるのではないか。集中が欠ける。 読む方も。
白秋が小笠原に行った話、大正14年に樺太に行き、紀行「フレップ・トリップ」を書いたことを知ったのは良かった。
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故郷・柳川を出て、東京の眩しさに陶酔したことから来るきらびやかな言語、北原白秋の色彩へのこだわりの解き明かしは説得力があります。東京では隅田川周辺の水の町に詩情を見たのも、出身地の故でしょう。三崎、小笠原父島、葛飾、小田原に住んだその半生。ゴーガンの絵の影響を受けた詩歌という説明は意外でしたが、なるほどとも感じます。姦通罪(不倫)での下獄経験、三度の結婚と二度の離婚。樺太への旅、柳川への空からの旅、ドラマティックな人生です。柳川から出てきた際に遊び人・啄木から見て純情な青年だったというのは面白いです。「落葉松」、「からたちの花」と日本人に愛された詩ですが、白秋が童謡も子供に一流の歌を謳わせるという情熱を持って書いたというのは素晴らしい話です。「雨」(雨がふります。雨がふる。)は完璧ですね。「カナリア」「この道」など。晩年の白秋が妻子とともに家庭的な父親に収まり、軍歌に力を入れる一方、早い段階で戦争を疑う詩を残していたということも初めて知る世界です。