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「コードが法」ならグーグルやフェイスブックのエンジニアが何を考えてコードを書いてるか理解しなければならない。 p.29
関連性レースの中心にはパラドクスがある。パーソナライゼーションのアルゴリズムはデータを必要とする。しかしデータが増えると、そのデータを整理するためにフィルターの進化が必要になる。マッチポンプ。 p.53
あなたの行動は商品になった。 p.62
営業部門と報道部門を分離する新聞が登場した。客観性の支持、変更報道の糾弾。20世紀後半のジャーナリストの矜持、倫理的モデル。新聞は中立的立場から報道し、世論を形成する。
リップマンのように批判した人がいたから、現状のシステムには倫理と公的責任が(不完全ながらも)書き込まれている。しかしフィルターバブルにそれはない。 p.76
パーソナライゼーションは、幅広い知識や総合力が消えて過集中が増えるアデラル社会をもたらそうとしている。 p.115
セレンディピティ。夢の論理を組み込む必要がある(エール大学教授デイヴィッド・ガランター)。 p.127
パーソナライゼーションが進むと少数の巨大企業が大きな力を持つようになる。膨大な量のデータが集積されるため、政府(民主的であっても)がかつて無いほどの力を潜在的に持つようになる。 p.177
Hello, World! システム化の全能感。システム化のトレードオフ。ルールによってコントロールしやすくなる一方、微妙な雰囲気や肌触りなど、深いつながりの感覚が失われてしまう。 p.211
フェイスブックは自社を「ソーシャルユーティリティー」と呼ぶ。まるで21世紀の電話会社だと言いたいかのようだ。しかしプライバシーポリシーが不安定で後退しているというユーザーの苦情は「自己責任」だとして取り合わない。使いたくなければフェイスブックを使わなければ良いというのだ。大手電話会社が「電話の会話は公開する。それが気ににいらないなら電話を使わなければ良い」と言えるとは考えられないのに。 p.218
事態をさらにややこしくしているのが、自社の成果が望ましくない影響を社会にもたらすとき、明白な運命という技術決定論的な表現を用いるオンライン世界のアーキテクトが多いことだ。シヴァ・ヴァイディアナサンが指摘しているように、テクノロジストは「〜できる」や「〜すべき」とめったに言わず、「〜になる」と言う。「今後、検索エンジンはパーソナライズされるようになるでしょう」と受動態で表現するグーグルのバイスプレジデント、マリッサ・メイヤーのように。 p.219
技術は予定されたコースを進んでいると信じるエンジニアや技術決定論者は少なくない。 p.219
大きな力をもつ新興のアントレプレナーたちにとって技術決定論は便利で魅力的だった。技術決定論であれば、自分たちがしていることに責任をもたなくてよいからだ。祭壇の聖職者と同じように自分たちは大いなる力の器にすぎず、その力にあらがうことは無駄と考えられるからだ。 p.219
社会的な責任や政治的な責任に対するソフトウェアアントレプレナーの姿勢がめちゃくちゃなのも、驚くには値しないだろう。��の主因は、できるかぎり速い成長を求めるのがオンライン事業というものだからだと思われる。まだ若いプログラマーが大成功と大金持ちへの道を歩きはじめるのだから、このようなことをじっくり考える時間がなくても当然だ。背後のベンチャーキャピタリストから「マネタイズ」の圧力を加えられることも、社会的責任について熟考している暇がない理由のひとつだろう。 p.220
技術決定論者は、技術とは本質的によいものだと考えがちである。しかし、ケビン・ケリーがなにを言おうと、技術にはレンチやねじ回し並みの善意しかない。技術がよいことをするように人がしたとき、人がいい形で使ったときにのみ、技術はよいものとなるのだ。このことは技術史のメルビン・クランツバーグ教授が30年近くも前に上手に表現し、クランツバーグの第一法則として知られているーー「技術は善でも悪でもない。中立でもない」だ。 p.230
(市民社会に取って有用なツールを作るという)この課題の解決は、膨大な技術的スキルと人間性の深い理解が必要とされる偉業である。そのためには、グーグルの有名なスローガン、「邪悪になるな」の先をゆくプログラマーが必要だ。善を為すエンジニアが必要なのだ。p.230
アレグザンダー:混交の街、孤立集団の街、サブカルチャーのモザイク。それぞれの地域が文化的に特徴を持ちやすい設計。「このようなサブカルチャーははっきりした違いをもつ特徴的なものでなければならないが、閉鎖的であってはならない。お互いにいつでも行き来が可能で、人がサブカルチャーからサブカルチャーへと自由に移動し、自分に適したところに居を構えられるものでなければならない」 p.271
「デフォルトの暴政」(ブラッド・バーナム)。 p.276
グーグルのエンジニアは「ある種の情報がほかの情報よりも価値がある」と決めている。アルゴリズムによって。 p.285
パーソナライゼーションがおこなわれていることがわかるようにすべき。パーソナライゼーションをユーザーがコントロールできるようにすべき。パーソナライゼーションに不規則性を組み込むことでセレンディピティの問題を解決すべき。 p.287
キャス・サンスティーン「賛否両論の併記を情報アグリゲーターに義務づける(公正原則)」。 p.289
個人情報に対するコントロールを個人に返すことを企業に義務づけるべき。1973年、米保健教育福祉省からの提言はいまだに有効。 p.290
フェイスブックのプライバシーポリシーには過去にさかのぼる形で改定したルールを適用できるという条項がある。…個人情報はかなり特殊なタイプの資産で、提供したあとも、長期にわたって利害関係が続く。 p.293
オンラインの巨大コングロマリットたちは政治的に強い力をもっている。インターネットの手綱をめぐる争いにおいて組織されていないのが大衆だけというのは皮肉。 p.295
しかし最終的には、仕事や遊び、コミュニケーションの仕方、あるいは世界を理解する方法など、世界何十億もの人々の行動をごく少数の米国企業が左右するようになってしまうおそれがある。誰とでもつながれる世界、ユーザーがコントロールできる世界というインターネットのビジョンを守るーーそれこそ、いま、我々がな���べきことだと思う。 p.296
関連記事:ウェブエンジニアが倫理的であるために必要なこと https://www.facebook.com/note.php?note_id=374883189200222
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最近のインターネットは、利用者の目に見えづらい裏側で色々と仕組まれています。その現況を調査し解説してくれる一冊。
本書はかなり内容が濃いので、先ずは本書の基本的なアイデアだけでも紹介してあります。
フィルター・バブルとは何か?これは既にあなたをも包み込んでいるかも知れませんが、気づいていますか?
http://tk2to.blogspot.com/2012/02/blog-post_25.html
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サンスティン『インターネットは民主主義の敵か』とレッシグ『CODE』を混ぜ合わせて、事例を新しくしたような内容。
こう書くと、もう既に大した内容ではないような気がするけれども(確かに新規性はないw)、非常にうまくコンパクトにまとまっている。それに訳文も読みやすい。
サイバーカスケード=フィルタリングバブルをどう捉えるのかは、依然として問題であることは、間違いないけれども、それを批判的に捉えてうえで、民主主義の危機だ、討議型のコミュニケーションが取れなくなっている!と叫ばれても・・・「まあ、そうっすよね。それで何か問題あるんすか?もうそんなこと自明じゃん?」って感じになってしまうことは否めない。要は、2005年あたりに集中的に議論された事柄から、一歩も前に進めていない気がする。それだけ問題の根が深いと言われれば、そうかもしれないけど、だけど『一般意志2.0』みたいな話を読んでしまった後に、本書を読むと。どうしても・・・「うーーん?」って感じにならざるをえない。
それにネット上でアーキテクチャを構築する企業や技術者に倫理が必要というのも、それはそれでわかるけども、それを啓蒙的に言われてもな・・・って感じ。
まあ批判/非難っぽく書いてしまったけども、ジャーナリズム論の文脈では、面白い箇所もあった。
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何がきっかけでこの本を買ったか忘れてしまったのですが、帯を書いているのが東浩紀さんと津田大介さん、発行が早川書房(いずれもTwitterでフォローしている)なので、その界隈から流れてきた情報を見て、たぶん「これは読んでおかないと」と思ったのだと思います。
表紙側のそでに、こんなことが書いてあります。
"あなた好みの情報を自動的に取捨選択して見せてくれる、近年のネット社会のフィルタリング技術。その裏に潜む、民主主義さえゆるがしかねない意外な落とし穴とは――。
「フィルターバブル」問題に警鐘を鳴らすニューヨークタイムズ・ベストセラー、待望の日本語版。"
そして副題は「グーグル・パーソナライズ・民主主義」です。うわーこれはグーグル批判の本なんだろうなーと思っていたら、グーグルもフェイスブックも批判対象でした。
[続き]
http://wildhawkfield.blogspot.com/2012/03/blog-post_03.html
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豊饒性のパラドックスに囚われているインターネットユーザーの多くは自分に合った情報を提供してくれるグーグル・FB・RSS・(twitter)etc.を重宝している。しかしそこから提供される情報は「選好」を強化するものが多く、自分とは真逆の考えをもつ情報はほとんど存在しない。優れたものや考えは異種の混合で生まれる。インターネットもそういった場で在り続けるべきであり、それを阻害する不可視の「フィルターバブル」を我々はコントロールしなくてはならない。以上がおおまかな概要。
この本を読む数日前に「多くの人がソーシャルキャピタルについて話しているけれどそれを紐帯型と橋渡し型に区別していない」というツイートをしたのだが、それとほぼ同じ内容が本の冒頭に書かれていたのには驚愕した。そして本を読み終えたときに考えたのは、パーソナライズの危険性を説く本を自分はパーソナライズした結果手に入れてしまったのではないかということだ。少し間違えっていたら「これがステマか」と喚いていたかもしれない。
L.レッシグが寄せているように、内容は10年以上前から一部では言われていたであるため人によってはまさしく「選好」の確認・強化に留まるかもしれない。しかし折しもグーグルがプライパシーポリシーを変更し利用者の好みをより正確に把握できるようになった今読んでおいて損はない一冊であることは確かである。
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個人情報保護とか言って仲間内での住所録作成すらも気を使う嫌な世の中であるが、一方ではGoogleやFacebookなどPC・携帯アプリが我々の通話記録・WEBアクセス先・オンライン購入記録等を公然と収集していることについてはさして大きな問題とならないのはどういうことだろう。
詳細は別として誰もが有る意味では知っているこれらネット企業のデータ収集活動がもたらすのものとして著者が掲げる問題は大きく言うと二つだ。
一つは、検索エンジンは我々のWEB検索・アクセス記録を分析することで、個人の嗜好等をキーにして検索結果の最適化(Personalisation)を実施している。即ち、同じ言葉で検索しても私とあなたでは嗜好が異なると同様に検索結果が異なるというのだ。こうした最適化を実施しているのはGoogleだけではなく、オンライン広告業界は勿論のことFacebook、Amazonも利用している。つまりFacebookに記事を投稿しても友人の誰もがその投稿を見られる訳ではない。更にはニュース・サイトにも最適化の利用は拡大している。ニュース記事さえもニュース自体の社会的重要度に応じてというよりも、個人的嗜好や果ては人気順によって知らず知らずのうちに取捨選択表示されてしまうことになる。既存メディアへの信頼が揺らいでいるの事実であるにしろ、そこへの批判は行える。が、批判の対象にすら成り得ないアルゴリズムによって社会的に重要なニュースがネット空間から排除されてしまうのは行き過ぎと言えよう。こうした「最適化」を著者はフィルター・バブルと称している。
もう一つの問題はそうして収集されたデータの使用目的が不明確なことと反論が出来ないことだ。勿論、一義的にはタ―ゲティング広告というものに利用されているのは判るのだが、裏ではそうしたデータが売買されて思わぬところへ波及することもある。各種データを分析すれば個人を特定するのは極めて容易であるし、それが行動ターゲティングに利用されているという。例えば、Facebookの友達の中に軍人が何人か居ればその人間も軍隊への親近感が高いことから、米国陸軍の入隊勧誘に成果を挙げているという。また信販業界でも同じで、やはり友人に「自己破産」または「支払い遅延」等の事故を起こしている人間が居ると、「類は類を呼ぶ」理論ではないが、その人間もまたそうした事故を起こす可能性が高いと判断されてしまい、結果的にクレジットカードの作成が拒否されてしまうが、その理由はデータを買ったクレジット会社から開示されることはないだろうと。
インターネットにより世界が広がった点は認めざるを得ないものの、その陰で余りにも簡単に個人情報へのアクセスとほぼ無制限とも思える利用方法を持つことが事実上許されているネット企業に対して、我々自身が適切なチェック機能を持つことができるような制度が必要となるのだろうし、法的に何らかの制限を設ける事も必要なのだろう。単純に企業の倫理観を期待するだけでは解決不可能なのだろうと思うと何ともやりきれない。
より多くの人に本書を読んで貰いたいが時間の無い人はせめて週刊ダイヤモンドに丁度似たような記事が出ている(下記URL参照)のでそれだけでも参考にど���ぞ。
http://diamond.jp/articles/-/16579
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インターネットは世界、視野をどんどん広げてくれる道具だったが、今はそれが逆に内側に篭っているという内容。
GoogleやFacebook、Amazon等、日常に使用しているWebのサービスでは、サービスの使用者のデータを自動的に収集して管理、分析する。そして使い勝手の良いように、使用者の好みそうなデータや広告等をプログラミングで取捨選択する。莫大な情報から自動でカスタマイズしてくれるので、使用者にはとても便利なようでいて、まるで泡に包まれたような近視的な世界観しか持てなくなる、という危険性を作者は示唆している。
文章は若干読みづらかったが、一方的な情報しか得られない怖さが伝わってきた。フィルタルングを防ぐにはそれらを行なっているサービスを使わなければいいんだけど、なかなか難しい話だ。cookieをマメに削除する等が対処方法としては有効らしい。気をつけておこう。
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パーソナライゼーションが人間の認知や文化、社会構造などにどのように影響を与えるか、という論考。ただのツールでは済まされないくらいに、インターネットが影響力を持つようになったからこそ、全てのインターネットユーザーに知ってもらいたい内容。ただ、文書が読みにくいのが難点。
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閉じこもるインターネットをようやく読み終わった。
いわゆる「フィルターバブル」について語った本。
目次
第1章 関連性を追求する競争
第2章 ユーザーがコンテンツ
第3章 アデラル社会
第4章 自分ループ
第5章 大衆は関連性がない
第6章 Hello,World!
第7章 望まれるモノを―望むと望まざるとにかかわらず
第8章 孤立集団の街からの逃亡
詳細はブログに書く。
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無償のサービスには、個人情報という対価を払っているのです。グーグルもフェイスブックも、それを上手にお金に変えています。
個人情報の会社 bluekai acxiom
行動リターゲティング
あたらしいインターネットの中核をなす基本コードはとてもシンプル。フィルターをインターネットにしかけ、あなたが好んでいるらしいもの、あなたが実際にしたことやあなたのようなひとが好きなことを観察し、それをもとに推測する。これがいわゆる予測エンジンで、あなたがどういう人で何をしようとしているのか、また、つぎに何を望んでいるのかを常に推測し、推測の間違いを修正して精度を高めていく。このようなエンジンに囲まれると、我々はひとりずつ、自分だけの情報宇宙に包まえることになる。われわれはこれをフィルタバブルと呼ぶが、その登場により、我々がアイデアや情報と遭遇する形は根底から変化した。
kayak, axiciom
インターネットのパーソナライズドフィルター アデラルなどの薬と同じように、ごく狭い範囲に注意力を絞り込んでしまう。
最近のインターネットは、いつのまにか、自分が興味をもっていることや自分の意見を補強する情報ばかりが見えるようになりつつあるらしい。
フィルターバブル
思わぬものとの出会いがなくなり、成長や革新のチャンスが失われる
最近のインターネットは、いつのまにか、自分が興味をもっていることや自分の意見を補強する情報ばかりが見えるようんいなりつつあるらしい。;たしかにインターネットの世界にはあらゆる情報が存在しているが、その情報と我々の間にフィルターが置かれ、そのフィルターを通過できる一部の情報だけが我々に届く状態になってきているのだ。しかも、此のフィルターはひとりひとりに合わせてパーソナライズされている。つまり、いま、我々がみるインターネットはひとりひとり違っていることになる
フィルターでユーザ位の言動を変えて行けるとすれば、当然それを利用して利益をあげようとする人間がでてくる。
広告主提供メディア AFM
プロダクトプレイスメント
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私が見ているGoogleの検索結果と、あなたの見ているGoogleの検索結果は違うのをご存知でしょうか?
Amazon.comにログインすると、人によって、おすすめ商品など、全然違う商品が表示されるということは誰でも知っています。Facebookのタイムラインも、「エッジランク」という仕組みに従って、投稿された順番では得なく、「いいね」の数、投稿された時間、投稿相手との仲の良さなどをアルゴリズムとして把握し、表示順を定めています。すでに、人のタイムラインにより多く表示されるために、SEOならぬNFO(news feed optimization)という、分野まで現れてきています。
WEBの世界は、今ものすごい勢いで「パーソナライズ化」が進んでいます。このパーソナライズ化の波の中で、特に大きな力を振るうことになるのが、FacebookとGoogleの存在です。Amazon.comに関しては、基本的には商品の購入に用途が限定されていますが、Goolgeは、様々な情報を調べるために使われ、Facebookは、友達とのやり取りや、知り合い関係での情報収集に利用される、いわば情報の「結節点」になっています。
「パーソナライズ化」とは、現在においては、システムがあなたの行動履歴を記憶し、もっとも最適(好きそう)な情報ばかりを表示する状態になっています。この著書では、主に「パーソナライズ化」によって起きる、情報の偏食の危険性を、様々な事例や観点から論じています。
先程、触れたようにGoogleは、徐々に検索結果のパーソナライズ化を始めています。つまり、私が検索した結果と、あなたの検索した結果が異なる可能性があるのです。たとえば、「最近うちの会社のホームページが、◯◯っていうキーワードでいつも1位なんだよね!」と喜んでいたら、それは自分のパソコンだけの可能性があります。あなたが何回も自分のホームページを見ているので、お気に入りと判断して優先的に上位表示するようにしているのです。自慢していたら、それは自分の環境だけだったというのは笑えません。
まだ、全然甘々なパーソナライズ化ですが、突き詰めればAmazon.comと同様、検索結果に好みのサイトばかりが上位表示される環境が将来出来上がってくる可能性がでてきます。
今まで、検索結果は、誰もが平等というので安心して使っていましたが、これは果たして検索エンジンのあり方として正しいのでしょうか?検索エンジンを辞書に近いものと考えるのであれば、調べごとをした時に、好みに近い答えばかり返ってくるというのは、客観性に欠ける気がします。バカにはバカの世界しか見えないし、賢者には賢者の世界しか見えない。
また、Facebookは「いいね」ボタンや「コメント」の数が情報の優劣を決める大きな要因になっています。この「いいね」の機能について著者は警告を発します。なぜなら、情報の重要度とは関係なく「いいね」の押されやすい情報とそうでない情報が存在するからです。具体的には、「美味しいそうな料理の写真」や、「ダイエット成功!」といった内容の情報には、確実に「いいね」が集まる。しかし、「料理の写真」と「ダイエット成功!」という宣言が、社会的にどれだけ価値が��るでしょうか?
逆に、「朝鮮半島情勢に対する政治コメント」など、重要に感じても、内容が重過ぎて「いいね」を押すのにはばかられる情報は見事に埋もれます。
これらの傾向が、私たちの手に入れる情報の偏食、低俗化をもたらすだけでなく、イレギュラーな情報が減ることで、異質な情報に触れる機会を減らし、私たちの発想を減退させる可能性も十分に考えられます。
あなたは、大きな書店に買い物に行って、普段興味のない分野のコーナーを通りがかった時、ふと目にした本から、意外な発見などがあって、興味を広げるきっかけになたり、発想のもとになった経験をしたことはありませんでしょうか?あの感動が今のWEBのパーソナライズ化には無いのです。
私が面白いと感じているのは、同じパーソナライズ化でも、Facebookと、Googleではその方向が全く異なるものになるということです。
Facebookでは、周り(フレンド)の目があるので、本音ではなく「ヒーロー」「善人」として振るまいがちです。Facebookにいる自分は、「本当の自分」ではなく、「なりたい自分」です。「いいね」ボタンをクリックした集積データも「なりたい自分」が押した「いいね」ボタンの集積データです。
一方、Googleは、ひっそリ人に知られたくない情報を検索する用途にも使われます。自分のコンプレックスの解消法(抜け毛、ダイエット、病気etc)、また、アダルト画像の検索など・・・・。つまり、Googleが集積している情報とその結果は、「知られたくない本当の自分」です。人によっては低俗な自分の集積かもしれません。
そういえば昔、Google検索で「夫」の後にスペースを入れると予測変換で「死んで欲しい」が出てくるってのがありましたね(汗。
「Google検索で「夫」の後にスペースを入れると・・・」
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1335522.html
「見栄っ張りな自分(Facebook)」の集積データにしても、「知られたくない自分(Google)」の集積データにしても、それぞれ違った意味でイヤらしい価値がありそうです。というより、見えっ張りな自分も、全体像でまとめられると、十分に知られたくない自分ですね。(笑)
これらの情報は、当然商業的にも、政治的にも価値のあるものになるのは言うまでもありません。この著書では、その情報を利用することによって、どんなリスクがあるのか、どのような可能性があるのかまで、示唆しています。Facebookの「いいね」を押しているだけで「犯罪の容疑者」にされるとか、洒落になりません。詳細は、ぜひ読んでみてください。
パーソナライズ化で奪われる私たちの感動、奪われる個人情報。エンジニアたちは、現時点では、これらの倫理については極めてピュア(場合によっては革新的に)と言わざるをえません。Googleは、don't be evil(邪悪になるな)と標榜していますが、どのように具体的な倫理規範を持つかは言及していません。邪悪ではない技術と行動が、邪悪な者に利用されるのは、チープな映画でも見飽きるほど出てくるテーマです。
私としては、WEBのパーソナライズ化そのものに問題があるのではなく、その取り扱い方と、技術に対応した十分な倫理基準を定めれば、未来において��問題を抑えていくことは充分に可能なように思えます。実際に、著者も具体的な提案を複数本書の中で提示しています。
今後必要なのは、WEB技術に対する深い知識と、倫理、社会に対する見識を持った人たちをうまく企業と関わらせていく作業でしょう。
WEBのパーソナライズ化は、まだ気がついていない人も多いようですが、インターネット社会の未来に食い込む最重要テーマの一つです。もし、Amazon.comのおすすめ商品や、おすすめメールなどに、微妙な違和感や、不気味さを感じた方は、本書は、必ず心に響く内容となるでしょう。
専門的な参照文献の参照や、具体的なインタビューも豊富で、大変よく書かれている著書ですので読み手があります。
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タイトルは原題の『フィルターバブル』のほうがわかりやすかったかもしれない。サイト側がユーザーの履歴などでコントロールすることにより、見る人によって情報が違ってくる。それが進むと、本人が欲しい情報ばかりを見るようになり、社会的に知っておいた方がいいことなどが、入らなくなるのではないかと。
ちょっと違うが似たような体験。仕事柄、弊社の社員は自分に関係のないブランドを検索することがよくあり、そうすると、行動ターゲティングにひっかかり、そのブランドのバナー広告が多く表示され、この企業はすごい広告費を使っていると勘違い。
フィルタを通すことは、いいことでもあり、おかしなことが起きる可能性もある。著者も言っているように透明性が必要な気がする。
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本として面白くない。訳者あとがきだけを読めば充分。
大した科学的根拠もなく感情論だけで人種、職業、宗教などの差別を行なっている人と同種の印象を感じた。
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私たちはパーソナライズされたフィルターバブルに包まれています。
「フィルターバブル」という言葉は恥ずかしながら聞いたことがありませんでしたが、普段から、検索にはGoogleを使い、フェイスブックにどっぷりハマってる私にはすぐにピンときました。
バブルに包まれて心地よく漂っていてはイカンなぁ。
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資本主義金融社会に閉じ込められた民衆を
エリート層を解体し民主的に解放するかに見えたインターネットも
所詮はアラジンの魔法のランプと同じで道具でしかない
魔法の道具を力任せの権力で逆手に取られてしまえば
そこに依存するしかない民衆は白痴化の道を逆戻りだ
要は道具に依存せずに
人間そのものが自主的に成長して道具を使いこなし自分を解放するしかない
インターネットは民衆の成長を促すキッカケとなったと言えるし
これからも成長する道筋で反面教師としての
気付け薬の役目を果たしてくれるだろう
検索をアプリ任せにして与えられた甘い餌に飲み込まれてしまえば
支配者側の思う壺だし
巨大化したフェイスブックやアマゾンやヤフーやグーグルが
束ねた情報を権力が飴と鞭をちらつかせて吸い取れば
本人さえ知らない民衆の情報が一方的に分析されて
個人管理に利用されることになる
本音で民主主義の実現を可能にすると思われたインターネットも
実は単なる道具であり
そのコントローラーを握ったものがすべてを管理してしまえる
使いようで今までになかった危険を併せ持つことになるのだから
あらゆる力を持つに至った金融支配者が
自分の首を絞めかねないこのコントローラーを放っておく筈もない
各国の政府や軍隊があらゆる手を使って巨大化したウエブ組織を巻き込み
世界中の個人データを管理しようとしている
民衆を売買するこの取引は
唯一ウエブ管理会社の倫理観と視野の広さに掛かっている
しかし法的に迫られてもいるし巨大な権利を餌にされて
誘惑されているだろうから目先の甘い汁に酔いしれてしまえば
未来を棒に振って横流ししてしまいかねない
今のところグーグルは頑張っているというけれど
すでに小さいところから崩されているのかもしれない