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分析哲学の本は、無未無臭でどうしても読み進めていくことが困難なものが多い気がするし、論理学とかきちんと勉強してないと、馴染めないものが多いので、これまで僕は敬遠してしまっていた。だけど、この本は、著者の体温が伝わってくるし、比較的平易な記述で問題の核心にズバッと入っているような気がして、面白かった。
分析哲学の出発点にもなっている、「言語論的転回」にもそれをどのように受け止めるのかが様々であるというのは、そうなんだ〜と。最後の「時間」分析のところは、「今」という時間をどのように考えるかという問題(マクダード)で、難しくついていけなかったけども、すごく面白そうなので、もう一度読み直す。この辺りは入不二基義先生の本なんかでも勉強できそう。。。
個人的には、社会構築(構成?)主義的な議論には、かなりのシンパシーを感じているので、分析哲学ももう少しちゃんと勉強したいなぁ〜とこの本を読んで思った。
著者は分析哲学をあくまでも思考のための「道具」として認識していると言うのは、何ともプラグマティズム的というか、そこもかなり共感が持てる。
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発売されたばかりの分析哲学の入門書。ですます調で書かれてあるので読みやすいでしょう(比較的ね)。「科学哲学」に興味がある人にも適します。それにしても、この著者が僕より3歳も年下なんて……。
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■読みながらの疑問
+ p8「英語圏の哲学については分析哲学が哲学の全体を覆ってしまった」 -> 本当にそうなのか? 身びいきに見た感じではないのか?
+ そもそも哲学とは分析することではないのか?
+ 「言語」に特別な意味と位置づけを与えすぎていないか?
+ 「言語」は表現方法のひとつでしかないのではないか?
+ 言語になっていないものを切り捨てて良いのか?
+ 言語は人工的な言語も含めるのなら、言語ではなく表現や記号としたほうが良いのでは?
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物心ついた頃には「心は脳である」という信念を持っていたと思う。心が物質的な現象だなんて、まったく当然の考えではないのに。このような物質主義を幼少期から植え付けられて育ったのが現代の日本人なんだろうなあ。もちろんこの世界には心を物質的だとは考えない人々もいるはず。
分析哲学で重要な概念は「意味」と「同一性」。→まず意味の問題があり、それが意味の同一性の問題に転じ、そこから、対象の同一性、規則の同一性、行動の同一性といった問題が芽を出していった(…)。
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クリプキの『名指しと必然性』の内容をパラフレーズしてくれていてわかりやすかった。ありがたい。
量が少ないけど、心の哲学についてわかりやすく書かれていてよい。
時間の哲学については気合が入りすぎてわかりにくい。つめこみすぎな感がある
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分析哲学の概観書。
各講義の個人的メモ
【講義1】
分析哲学の歴史と発展について概観。また本書の進行方法について言及している。はたして分析哲学がどういったところに役に立つか??
【講義2】
意味の存在する場所についての議論。意味のイメージと概念の違いに焦点を当てて、意味のありかが、個々人の心の中に存在していないのではないか、という問題提起を行っている。
問題提起を行った章、という感じでいまいちしっくりこない。とりあえず、わからないということがよくわかった。
*本書の公共空間の定義がいまいちわからない。私空間の空集合とでも思っておけばいいのだろうか。
*二講義目を読んで思ったが、具体例がわかりにくい。「Aの解決方法は●●でこの問題が解決できるかもしれない→でも、Bの場合は○○って可能性もあって一概にはいえない」という、進め方なのだが、このBの例が理解できない場合が多すぎる。というのも、理解できない理由についての記述が少ないからだ(分析哲学系では常識すぎる話?)。これは、紙面上の都合なのだろうか・・・
【講義3】
・ラッセルの記述理論について。⇒確定記述を分析するために、確定記述を含まない複数の文に分解する方法について説明している。
・フレーゲの述語論理学とラッセルの記述理論の関係。
・クワインの宇宙検索
⇒なんだか小難しく考えすぎていて、なんでそう考えるのかがいまいちよくわからない。なぜラッセルの記述理論のように分解する必要があるのか。。フレーゲの議論を読んでも、いまいちよくわからない。
【講義4】
講義3の内容が何となく理解できたので、先に進む。
この章は、フレーゲの理論の拡張としてのウィトゲンシュタインの『論考』について説明。といっても概略だけ。
・ウィトゲンシュタインは言語の限界を認識の限界と主張していたが、これは諸命題が言語に写像できることから導かれる。
・クワインの2つの経験主義。
【イメージ】知識体系の現状を以下のように説明している。同心円をを描いて中心部と周辺部に注目する。中心部は経験(が変わる、または観察データが変わる?)に依存して、知識は変化しにくいが、周辺部は経験のありさまに大きな影響を受けやすい。(結局、中心部も経験によって変わりうるなら、このクワインの議論も間違ってる可能性あるやん。言い訳も微妙。本書がフォローしているように、その点を「無視している」ってのも、議論の穴に思える。)
⇒経験によって修正されない真理は存在しない。ウィトゲンシュタインに間違い。ウィトゲンシュタインの議論の視点を変えている点では、かなり鋭い。
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わかりやすい口調・説明だった。
分析哲学の入門としてはかなり優秀なんじゃないかなーと思う
科学哲学をかじった人だとさらに楽しいとおもう
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かいつまんで「分析哲学」を紹介すると、言葉を考えていく学問と言うことになります。言葉と言っても、単語を掘り下げていくというよりか、ひとつの文章を一つの単位として読んで、その中での単語の働きなどからでてくる意味から探っていく感じです。そうやることで、信じられないかもしれませんが、森羅万象にも近づいていくことになるんです。言葉をベースにちまちまと哲学すると言ったほうが早いのかもしれないです。イメージ先行、発想先行で考えていくわけではなくて、言葉で論理的に、飛躍せずに考えていく哲学といえるでしょう。
そのあたりの説明などはまったくといいほどないのですが、それはそれ、分析哲学のありかたとして、哲学者・ウィトゲンシュタインの手法のように、一つの文章を読んで、その方向性や全体としての意味などを見ていくスタイルなので、読者は自分で本書を読みながら汲み取っていかなければいけない。いろいろなトピックを、著者に導かれながら考えていくのですが、そうすることで、あぶり出されるようにわかるのが、分析哲学と言うものの有りようだ、という構造になっています。
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哲学って,人間の思索の追究ということで魅力的ではあるんだけど,やっぱり深入りすると妙なことになりそうな。特に最終章の時間論読んでそう感じた。エントロピーは未来だけでなく過去に向かっても増大するっていうことの発見は哲学の手柄というような書きぶりだけど,ホント?ピント外れの議論もいっぱいやってて,かなり回り道をしているような気がする。
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20140609読了。
分析哲学は言語を読み解く哲学、ということか。
章ごとに読みやすく理解しやすいのと、全く染み込んでこないものと差が激しかったのだが、概ねわかりやすかった。
そんなことどうでもいいじゃん、と思う部分もあるのだけど、そういう重箱の隅をつついていくのが、哲学を分析する面白いところなのだろう。
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[ 内容 ]
フレーゲとラッセルの論理学研究に始まり、クワイン、ウィトゲンシュタインらの活躍を経て、現在では哲学の全領域に浸透した分析哲学。
言語や概念の分析を通じて世界を捉えるその手法は、驚くほど幅広い分野で、新たな発見をもたらしてくれる。
「言葉はなぜ意味をもつのか」「自然科学における自然とは何か」といった問いから、可能世界、心の哲学、時間と自由といったテーマまで、哲学史上の優れた議論を素材に、その先を自ら考えるための一冊。
問題を正確に考え抜く「道具」としての分析哲学を伝える、珠玉の入門講義。
[ 目次 ]
講義1 分析哲学とは何か
講義2 意味はどこにあるのか
講義3 名前と述語
講義4 文脈原理と全体論
講義5 意味はどこに行ったか
講義6 二つの自然と、意味の貨幣
講義7 可能世界と形而上学
講義8 心の哲学の眺望
講義9 時間と自由
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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「読売新聞」(2015年03月15日付朝刊)で、
池谷裕二先生が紹介しています。
(2015年03月15日)
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分析哲学も、一般の読書人向けの入門書が乏しい分野だという印象があります。大庭健の『はじめての分析哲学』(産業図書)や、冨田恭彦の小説形式の本はたしかに読みやすいのですが、とりあげられているテーマに偏りがあって、分析哲学全般の入門書とは言いがたいところがあります。とくに可能世界意味論の登場以降の動向も踏まえた入門書というと、本当にかぎられてくるように思いますが、本書はその貴重な一冊です。八木沢敬の『分析哲学入門』三部作(講談社選書メチエ)に比べるとかなり読みやすいのですが、それでもクリプキの「本質」理解の検討をおこなっている第7講の議論は相当に難しく感じました。
第6講では、言語ゲームの実践における人々の行動の無根拠な一致がわれわれの生活の底板を形成していることに着目して、それを「原初的自然」と呼び、この「自然」とクワインの認識論の自然化がめざす自然科学的な「自然」との関係について考察がおこなわれています。著者は、ウィトゲンシュタインの私的言語批判の議論を参照しつつ、言語が私的な心の領域から公共的な領域へと移行することで問題が解決したのではなく、公共的な領域でこそ規則のパラドクスが考慮されなければならないと指摘します。これによって、ベタな行動主義との違いが定められることになるのですが、さらに著者は、人びとの行動の無根拠な「一致」がまさに「一致」として記述されるのは、その記述自体がベタな行動主義と同様の「非原初的な自然」の次元に属していることに依拠していると指摘し、「原初的自然に訴える議論は、非原初的な記述のもとでしか、理解可能な説得力をもちません」と主張します。
一方第9講は、著者の専門である時間論で、とくに時間対称的な物理的な世界観の中に「時間の矢」を見いだそうとする議論が、ひそかに日常的な時間の非対称性を密輸入してしまっていることを指摘する議論などは、興味深く読みました。
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時間論の分岐の問題が特に面白かった。
自明と思っていることも分析されていくと、日頃いかにあいまいなままなんとなく受け入れているんだなと感じた。
アキレスと亀のパラドックスとかに近いのかもとも思ってしまったけれど。
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単語、文章、テキスト全体は、何を指し示すことができるのか?論理とは何か?言語と論理の関係は?意味とはどのような場に発生するのか?。等々、じっくり読めばいろいろとおもしろく勉強できる本。でも読後半年の今、内容はほとんど忘れてしまった。また機会があれば再読したい。