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・吉野孝雄「宮武外骨伝」(河 出文庫)は旧著「宮武外骨」の改題新装改訂版である。「あとがき」に、「初版以来の文脈をかえ ることなく、その後判明した若干の誤記を改め、最小限度の興味深い新事実を加筆するだけにとどめることにした。」(404頁)とある。小 幅改定で、研究書ではなく、あくまでも伝記であるとする。序章、終章の間に8章、本文計10章からなる。序章は昭和9年の筆禍雪冤祝賀 会、第一章は筆禍の原因となつた頓智協会と明治22年の「頓智協会雑誌」について記すが、以下は出生から死去までの編年体である。これを 読むとさすが外骨と思ふ。どこを読んでも退屈しない。いくつになつてもおもしろい。奇人、反骨の人といふのは月並み、吉野作造が評した 「外骨君は稀代の偽悪者だよ」(323頁)といふ言にうなづかれるところが月並みではない人だと思ふ。
・私が初めて外骨を知つたのは有光書房版の「わいせつ廃語辞彙・わいせつ風俗史」であつた。何も知らずにこれだけ買つた。辞書として買つ た。他意はない。ただ、変はつた号の人だとは思つた。その後、外骨は明治新聞雑誌文庫を作つた人だと教へられた。正直、驚いた。猥褻の語 と東大のと冠される文庫が結びつかなかつたのである。アカデミズムに猥褻は似合はない。世の常識か社会通念か、いづれにせよ凡人の感じる ところではあらう。外骨はこの辺りを軽々と飛び越える。縦横無尽に駆け巡る。花鳥風月の浮世絵であらうが春画であらうが気にしない。浮世 絵の世界は、あるいはさういふ世界かもしれない。しかし、政治はさうはいかない。さうして、やつと私は外骨がすごい人だと知つた。さう、 すごいのである。並みの言葉では評しえないものを持つ。いくつもの修飾語を重ねれば評しうるのであらうが、それではまだるい。「頓智協会雑誌」28号の明治憲法発布のパロディー、最初の筆禍である。「骸骨が研法を下賜するの図」(43頁)や「研法発布囈語」(44~50 頁)はよくできてゐる。ここの本文は二段組みで、上に研法、下に憲法がある。そのいぢり方が分かる。ほとんど単純に他の語に置き換へてゐ るだけであるが、これとてもそれなりの素養がなくではできぬことである。明治人のすごさを私は外骨からも感じる。漢文の素養である。鷗外 にしろ漱石にしろ、すべての基礎は漢文にあつた。外骨は郷里に近い高松でも、初めて東京に遊学した時も漢学塾に学んだ。地主の息子に英学 は似合はない(92頁)といふわけであるが、そんな消極的な理由で修めた漢学がここで生きる。研法第三条「会主ハ尊重ニシテ侮ルベカラ ズ」などといふのは一見何の工夫もなささうだが、やはりかなり考へられてゐるのだと思ふ。かういふのはパロディー、もぢりだから、制約が あつて却つてその素養は分かりにくい。他の引用からは、文体は様々であつても、その漢学の素養の程が知れる。実際のところ、外骨の素養が どの程度のものか、これは私には分からない。それでも現代日本人、例へば私自身と比べれば、その差は明らかである。私にはとてもあんな語 彙を駆使した文章は書けない。今となつては古いだけだと言はれかねない文章であるが、明治人の文章は一つの典型として覚えておくべきもの だと思ふ。しかも外骨は「稀���の偽悪者」である。それなのに、いやそれゆゑに東大に明治新聞雑誌文庫を作つてしまつた。天性の新聞、雑誌 を愛する心、これをジャーナリスト魂と言ふべきか。それが操觚といふ本書のキーワードにつながる。操觚はサウコ、文筆に従事することであ る。書かずにはゐられない。本書は外骨が操觚者であることをやめられなかつたと確認できる伝記である。おもしろい。
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吉野孝雄『宮武外骨伝』河出文庫
権力と戦った“操觚者”の稀有なる魂の軌跡
本書の主人公・宮武外骨(がいこつ)ほど型破りな人間はそうそう存在しない。反骨のジャーナリスト、著述家、明治文化・風俗史・新聞雑誌研究家……。巨人を形容するには、どれも不足となってしまう。
では何と呼ぶべきか。外骨の自認通り「操觚者(そうこしゃ)」と表現しよう。操觚者とは古来、文筆を生業(なりわい)として生きる者のことである。明治前期のジャーナリストは操觚者と名乗ったというが、それは、あらゆる手段で籠絡(ろうらく)しようとする権力に対して命がけで攻撃し続ける人間の異名でもある。
外骨の武器はユーモアとウイットでえある。『滑稽(こっけい)新聞』『面白半分』など百編を超える雑誌や書籍で権力の老獪(ろうかい)さをあばき出す。筆禍(ひっか)による罰金・発禁は二十九回、入獄は四回、のべ四年間に及んだ。
「自分は旗印として平民主義を掲げるのではなく、平民主義を生きるのだ。頓智(とんち)と諧謔(かいぎゃく)で人間の平等を主張するのだ。それが操觚者としての自分の生き方だ」
明治維新は四民平等を唱えたが、その旗印はだいぶ色褪(いろあ)せてきた。平民主義を唱えた先達(せんだつ)が次々と懐柔(かいじゅう)されていくなかで、外骨だけは人間を非人間として扱う権力の魔性とは徹底して「生き方」として戦い続けた。その軌跡は「虚偽を排し形式を打破し、露骨正直天真爛漫(らんまん)、無遠慮に大胆に猛烈に其(その)虚を訐(あば)き実を写し以(もっ)て現代社会の指導者たり革命者たらん」生きざまである。
外骨が標的にしたのは、虚偽を容認する人間の憶病な心である。魂と社会の変革は別々のものではない。そこに目を向けよ!
そして、何をどう「笑い飛ばすのか」。これは極めて現代の課題でもあろう。最も信頼できる評伝の新装新版の文庫収録を寿ぎたい。
--拙文「吉野孝雄『宮武外骨伝』河出文庫 権力と戦った“操觚者”の稀有なる魂の軌跡」、『第三文明』2012年9月、92頁。
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http://d.hatena.ne.jp/ujikenorio/20120803
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2月に伊丹市美で外骨没後60年記念の「シャレにしてオツなり」を見てきたら、久しぶりに外骨が読みたくなって、図書館で復刻版の『筆禍史』を借りてみた。が、明治44年初版で大正15年に改訂増補されたものを写真製版して復刻した本は、当然のことながら旧字、旧仮名、文語体で、すらすらとは読めず。ところどころを拾い読み。
外骨自身が筆禍王のような人なので、その外骨がまとめた中古以来の筆禍史という内容にも興味はあるのだが、図書館で所蔵している外骨本のうち、この『筆禍史』だけが「ミヤタケ、トボネ」名で書誌がつくられていたのが気になったのもある。(☆)
どこかに「ミヤタケ、トボネ」の読みがあるのかと復刻版の『筆禍史』をあちこちひっくり返してみるが、それらしきところは発見できず。名前のことも知りたくて、外骨の甥にあたる(晩年の外骨と暮らした)吉野孝雄が書いた『宮武外骨伝』を借りてきて読む。
■外骨の改名の件
これまでに読んだもので、外骨が「廃姓」を宣言したことは知っていたが、喜寿を境に「ミヤタケ、トボネ」とよませるようになったことは初めて知った。外骨がうまれたときに両親がつけた名は「亀四郎」である。
▼明治十七年、十八歳の春、両親の名づけた「亀四郎」を「外骨」と改名する。「外骨」は「がいこつ(旧カナではぐわいこつ)」とよみ、中国の梁の時代の字書「玉篇」の「亀」の説文に、「亀外骨内肉者也」(亀ハ外骨内肉ノ者ナリ)とあったのによる。硬骨の自負とともに、親の名づけた「亀四郎」という名の持つ平凡な響きに規定された人生を、亀四郎は改名という行為により拒否したのである。役所に改名届けを提出して、戸籍上も「外骨」となった。やがてそれは昭和十八年四月、喜寿(七十七歳)を境に、「とぼね」とよませるようになるまでの本名となる。(『宮武外骨伝』、p.106)
昭和18年の改名について、吉野はこうも記す。
▼昭和18年になった。…(略)…日本の敗北も近いに違いない。この年の4月、喜寿(七十七歳)を迎えた外骨は、それまで音読みで読ませていた「がいこつ(ぐわいこつ)」を「とぼね」と改名する。「がいこつ」という骨の張った音はいまの自分には相応しくない。明治新聞雑誌文庫という目的があるとはいえ、そして時代の悪化があるとはいっても、世の中の流れにいわば背を向けて生きるいまの外骨である。戯作者流に「とぼね」と呼ぶのが相応しい。名実ともに備わった、かつての「がいこつ」は、明治・大正という時代の中にだけ生きている。いまの自分に「がいこつ」の真骨頂はない、と外骨は思っている。改名通知葉書を印刷すると外骨は友人知人に宛てて発送した。この知らせをうけた小林一三は、その返信のなかに「とぼけと間違ひたい」と書いて、改名のまじめさをからかっている。(p.342)
巻末の宮武外骨年譜の当該年の箇所には、こうある。
●1943年・昭和18年(77歳)
四月中旬、七十七歳の喜寿を機会に従来の「がいこつ(ぐわいこつ)」を廃し、和訓の「とぼね」と改名し、改名通知を印刷し友人知人に送付する。(p.382)
ところで、『筆禍史』は初版が明治44年(1911年)、改訂増補が大正15���(1926年)であって、外骨の名はまだ「がいこつ」のはずである。
ここで、大阪府立図書館と、自治体立では一番とも言われる蔵書をもつ大阪市立図書館の蔵書検索をしてみたところ、府立には初版(和装本)の『筆禍史』(雅俗文庫)があり、市立には初版の雅俗文庫のものと、改訂増補版の『筆禍史』(朝香屋書店 )の所蔵があり、書誌にある著者名のよみはいずれも「ミヤタケ、ガイコツ」であった。
なんでうちの近所の図書館の書誌は「ミヤタケ、トボネ」になっているのだろう??しかも、復刻版の出版年は、国会図書館の書誌やネットの古本屋で出ているものを見ても1974年のようなのだが、近所の図書館の書誌は「1977年」なのである。なんらかの根拠や調べに基づいているのであれば、その資料を知りたい。
■若い頃から保存してきた新聞雑誌
吉野の『宮武外骨伝』は、少年時代から「読み終えた新聞や雑誌を一ページずつ皺をのばして火熨斗をかけて保存」(p.95)していた姿を伝える。 そうした紙の束が下宿の部屋の隅にうずたかく積まれていたそうである。私もついつい紙の束を溜めがちだが、外骨が若い頃からずっとずっと溜め続けた新聞雑誌の量にはおそれいる。
東京帝大の法学部内に明治新聞雑誌保存文庫の設置が決まったとき、外骨は60歳。「当時すでに外骨が蒐集していた明治二十年代までの新聞は約5万枚、雑誌約2万部五百十余種類、単行本は約1500冊にのぼっていた」(p.323)という。こうの外骨が保存し続けた新聞雑誌が、「明治新聞雑誌文庫」の核になった。
▼いままで、学者は無論のこと、吉野[作造]博士や中田[薫]、穂積[重遠]両教授は例外として新聞や雑誌に史料的価値を認めたものは少い。しかし、日本の近代を研究するためには新聞や雑誌が不可欠の資料となることは間違いない。偏った学説に歪曲された論文よりも、「生ま」に時代の空気が伝わってくる新聞、雑誌にこそ真の意味の資料性がある。いまの新聞雑誌と違って、ことに明治初年の新聞雑誌にはそれぞれの立場に立った主張があった。反権力を貫いた新聞もあれば、御用新聞と庶民の反感を買った新聞もあった。なかには徳富蘇峰の「国民新聞」のように、平民主義を称えて華々しい論陣を張りながら、しだいに政府の御用新聞化していったものもある。地方紙も含めて、それらの新聞を総体として眺めた時に、自ずと日本近代の意味も明白になってくるはずだ。そして、自分が半生を賭して戦い、数限りない筆禍をうけた明治藩閥政府の実体も明らかになるだろう。筆禍を受け、傷つき倒れた幾多の同志たる操觚者の墓標としても、明治の新聞雑誌を蒐集保存しなければならない。外骨はそう心に誓っていた。(pp.318-319)
関東大震災によって「東京市内の多くの新聞社が罹災してその保存紙が焼失」(p.318)したこと、「検閲のために内務省図書局に納められていた新聞雑誌も灰燼に帰した」(p.318)ことを目の当たりにして、いまこそ明治大正の新聞雑誌を蒐集保存しておかなければ貴重な史料が失われてしまうと、外骨は必死だった。
当初、外骨は、この新聞雑誌の「保存文庫」を民間に設けて、財団法人の組織で運営したいと考えていた。そのかたちが、"反権力の野人"として生きてきた自分の生涯にふさわしいと思ったからだ。だが、博報堂をいとなむ友人の瀬木博尚は、吉野作造、中田薫、穂積重遠といった外骨の考えをよく理解する学者が東京帝大にいるのだから、「彼らの力により東京帝大の内部に設置するのが最良の策だ」(p.321)と言った。正論であった。「関東大震災のような災害にも強く、しかもあらゆる権力の力の遠くおよばない所はその権力の内部にしかない。長く保存を考えるならそれ以外に途はなかろう」と(p.321)。
たしかに、この文庫が後の戦災を免れたのは、東京帝大内にあったからといえる。
■外骨と「穢多」
『筆禍史』の末尾には「予の先祖は備中の穢多であるそうな」に始まる自跋(あとがき)がある。吉野の『外骨伝』は、もとは『宮武外骨』のタイトルで、1985年に河出書房新社から文庫になった。
このとき、注や解説をつけるなどの配慮をしたうえで刊行してほしかったと部落解放同盟の香川 県連(香川は外骨の生地である)から抗議があり、香川県連と解放同盟の中央本部、部落解放研究所と「何回かの協議を重ねた」(p.399-400)ことが、私が借りて読んだ改訂版の文庫『宮武外骨伝』(1992年刊)には記されている。
吉野によれば、外骨が「穢多」「新平民」などの言葉を用いたのは「単なることばの言い換えによって差別的現実を曖昧にすることに批判的だったため」(p.401)だろうという。
外骨の子ども時代を記した第2章「庄屋の息子」では、外骨の父・宮武吉太郎の近在の被差別部落の人たちに向けた態度が綴られている。庄屋であった吉太郎は、年に2、3度は日を決めて、年貢米の余剰を小作人のかれらに分配し、金を借りたいという者には無利息で貸し、田畑の小作を望む者には喜んで小作権を与えたという。
「川向[かわむかい]の本家さん」と親しまれた吉太郎だが、「川向本家の米には穢多米が混ぜてある」という噂がたち、米穀仲買人仲間は、米の売れなくなることを恐れて、取り引きに応じようとしなかった。そのとき吉太郎は「穢多も非人もあるものか、誰が作ろうと米は米だ。同じ五体を備えた人間の作った米を差別する奴らなどこちらから取引はおことわりだ」と激怒し、直接に問屋へ出向いて年貢米をじかに卸売りする手段で対抗した、という(p.80)。
「予は斯様な事実を幼少の頃から見聞して居たので、予も亦新平民を軽蔑することなどなく寧ろ自ら進んで彼等に同情を寄せた」云々という外骨の文章(大正2年11月「新平民の娘」、p.80)を、吉野は引いている。
これに関して、『宮武外骨著作集』の第8巻に、師岡佑行による解説「宮武外骨と『穢多』の語」があるそうなので、こんど図書館で読んでみるつもり。
外骨は生涯にいくつもの雑誌をつくり、新聞を出した。長く続いたものは少なく、筆禍のため発禁に終わったもの、創刊してすぐ廃刊となったものも多いが、新たなメディアをつくるアイデアや売る方法がとにかくおもしろい。六角形に造本してみたり、定期増刊で絵葉書集をつくってみたり、十二種類の雑誌を入れた「袋雑誌」をつくってみたり。
■言論の自由な時代の筆禍
言論の不自由な時代を長らく過ごした外骨は、1946年に出した「アメリカ様」で、"勝って下さったアメ��カ様"がもたらした初めての「言論の自由」の幸せを綴る。万一にも日本が勝っていたら、軍閥や官僚や財閥がますます威張り、封建思想やら侵略主義で民はどんなに苦しめられたか知れないというのだ。
とはいえ、外骨は、"日本を負けさせて下さった"アメリカ様になびくこともない。アメリカ様も都合の悪いことは葬ろうとするのであって、現に外骨の「アメリカ様」のうち1ページはマッカーサー司令部より削除を命じられている。私が手に入れた文庫(これに「筆禍史」が新字で抄録されている)には、「米国進駐軍マックワーサー司令部より削除を命ぜられたる『アメリカ様』の一頁」が、参考のため保存という但し書きをつけて収録されている。
言論の自由になった時代に"アメリカ様"からも筆禍を受けたところが、外骨らしいというか、日本とアメリカの両方から弾圧を受けた人は、他にそうそういないのではあるまいか。
吉野の記すところでは、天皇制の軍閥政府の下ではまとめたくても公刊できなかった「大逆事件」について、ずっと資料収集を続けていた外骨は、日本の敗戦後、やはり1946年に龍吟社から『大逆事件顛末』※を編纂出版しているそうだ。この本は大阪府立図書館に所蔵があるようなので、ぜひ読んでみたい。
吉野の本には「操觚者」という語が頻出する。これは「文筆に従事する人、著述家・記者・編集者など」を指し、いまでいうジャーナリスト」だという。
(3/11了)
※近代デジタルライブラリー
『大逆事件顛末』
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450455/2
(☆追記)
近所の図書館で、復刻版『筆禍史』の書誌、「ミヤタケ、トボネ」と「1977年」の根拠もしくは典拠について尋ねてみたところ、当時、目録を作成した職員はすでにいないので、何を参照したなどの詳細はわからないが、1977年は史料受け入れ年を記した誤りであろうということと、この資料のみ「ミヤタケ、トボネ」になっているのは、「宮武外骨」を「ミヤタケ、ガイコツ」からも「ミヤタケ、トボネ」からも引けるように統合すべきところ、それができていないということだった。
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讃岐国阿野郡は権力の腐敗を言論で追及し、言論弾圧を受けたジャーナリストの宮武外骨(みやたけとぼね)の出身地である。外骨は風刺雑誌「頓智協會雑誌」を創刊した。明治二二年(一八八九年)、頓智協會雑誌に戯画「頓智研法発布式研法」を掲載し、大日本帝国憲法発布をパロディ化した。「第一條、大頓知協会ハ讃岐平民ノ外骨之ヲ統括ス」とする。外骨は天皇が薩長藩閥の傀儡に過ぎないと見抜いていた。
しかし、これが不敬罪に問われて、三年八か月も投獄された。明治政府にとって痛いところを突いていたことを示すものである。その後も言論弾圧を受けたが、官僚の腐敗を批判し、権力批判を続けた。警察署長の不正などの警察不祥事や悪徳商法も告発した。