紙の本
勉強ではない「学び」がある
2016/02/10 00:24
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投稿者:センター長 - この投稿者のレビュー一覧を見る
すでに言い古されたことであるが、勉強と学びは違う、ということを再認識させられた本である。東日本大震災によって、それまでの常識や想定が見事に覆され、われわれは再び「学び」とは何かを考えざるを得ない状況に追い込まれている。さらに、現在の高齢社会にあっては、誰もが学び続けることが、日本再生の処方箋のような気がした。
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051
人間世界では「想定外」の事態に対してさえ、なんらかの判断を下さなければならない局面があるのも冷厳な事実である。したがって「想定外」のことも考えておく必要がある。p28
「学ぶ」という以上には「想定」の枠での積み上げ的な「学び」だけを意味するわけではなく、その枠を超える「学び」の能力も含まれているということである。p29
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うーん。単純に、自分が好きな文章ではない。
内容については、ところどころ参考になる。
感想が難しい・・。
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There have been many stupid books recently, but a book should be like this book. I could revise my thoughts. 多书在书店很坏和愚,还这书很好。我会修改学习的思想。我喜欢他的意见。
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日垣さんの推薦。
ロンドンへ行く飛行機の中で読んだ。
佐々木先生によれば、学ぶは、「知る」「理解する」「疑う」「超える」に分かれるという。
宮城県沖の地震確率が高いのは知っていた、田老町などで大規模な堤防ができていたのは知っていた、昭和三陸津波で、土地区画整理事業や高台移転が行われたのも知っていた。
しかし、現実に、行方不明者を含めて2万人の人たちが亡くなった。自分は、何も、理解し、疑い、そして、超えていなかった。
自分は、いろいろな専門家が、想定外とか、津波を一部減殺したとかいう言説には納得できない。人が一人でも死んだ以上、堤防、土地利用に関係していた行政マンは、深く反省する以外にすべはない。
自分は、3月11日を境に、平日は震災復興と都市計画を再勉強始めた。そして今感じていること。
(1)ハードだけでは人の命は守れない。むしろソフト、人の避難活動を一緒にした防災対策をつくる必要がある。
(2)じっくり地元の意見調整をすることと、地元被災企業が倒産し続けている現実をうまく調和させ、必要なところは先行させて事業をする。
(3)既存の学閥、学問や組織の縦割り、国、県、市町村の横割りをすてべ超越してえ、人がしなない復興計画をつくる。
このために、自分に何ができるか、何をすべきかを全力で「学び」、そして、実効にうつしていきたい。そのために是非少しでも長く復興に関わっていたい。
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今の私が置かれている状況での学びを続けるには、どういった心がけをすればよいのか。このような思いから本書を手に取った。学び続ける気概となるエンジンと燃料は、メインテナンスと補充が必要だからだ。ところが5章くらいに差し掛かった頃、読書の動機はうれしい誤算であることに気付いた。この本は、学校や大学・大学院で何らかの形で、学生を学ばせる立場にある人々が読むと有益だろう。
第1・2章では、学びの多様性の紹介がある。震災・原発事故、『学問のすすめ』を解題してその説明がある。
第3章では、アリストテレスによる学が整理された。第1に神・自然の理論学、第2に倫理のような人間によって変えることのできる領域:実践学、第3に日常品や思想・文学の制作学だ。
第4章で、学ぶということを分解して説明している。第1段階は事実ないし確実とされている知識や情報を「知る」こと、記憶すること。第2段階は、知識や情報の内容を「理解する」こと。第3段階は、事実や事実の関係とさえているこうした知識や情報を「疑う」こと。この「疑う」という学びの行為には勇気の要素が入ると福沢は述べている。第4段階は、既存の知識・情報を「超える」こと。としている。
次の一文が非常に重い。 「実存主義的に表現すれば、人間は歴史の中に「被投企的存在」ということになる。」ここから、しばし主語を人間以外の主体置き換えて法人やその他の主体に置き換えて空想してしまった。
「自らのこれまでの目線を再検討したり、新しい現実に目を向けなければならない」と気持ちを引き締めた。著者もこれを鬱陶しい、不愉快と話している。目をそむけたくなる所に問題の所在があるということだろう。
また、173頁の次の文のように短絡的に考えることを戒めている。
「ピーター・ドラッカーに「マネジメントはリベラルアーツである」という言葉あるそうであるが、出来合いの知識を振り回すことから新しい展開が開けるはずがなく、知の奥行きの深さを謙虚に見つめ、継続的に「学ぶ」精神が必要になる。」やはり良薬は口に苦し。だ。
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想定内のことに対して打つべき手も打たないで想定外という枠に押し込もうとする姿勢を断じる。ルサンチマンをやめ本当に自分たちの為に学び工夫する姿勢を後押ししてくれる一冊。
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震災での想定外な出来事を契機に、学ぶことの本当の意味を見直す。「学問のすすめ」が書かれた、歴史的な意味合いを作者なりに解釈しながら、学びについての、深い洞察が続く。作者の専門分野である、政治の世界での学びなど、学ぶことが即実践されるべき世界での、ていたらくは、嘆くしかない。高校生、大学生くらいが読むといいが、社会人とて、生涯学びは必要。人生の中弛み、諦めも始まるであろう、40代の人こそ、読むべきかもしれない。
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タイトル通り、学ぶとはどういうことか、著者の見解を寄せている。
知る・理解する・疑う・超えるという4つの段階で学びについて論じる。さらにそれを現代の政治や経済にどのように反映させていくのか、非常に興味深かった。
個人的には、「考える専門家」と「考えない専門家」の部分がおもしろかった。今の「常識」が何か本質的なものを見落としているような気がしてならなくなった。
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学者の本という感じ。難しい。
〈学びの段階〉
1、知る 2、理解する 3、疑う
そして、超える。
「学ぶ」内容は無限。唯一確かなのは、「学ぶ」側がその気にならないといけない。
〈「学ぶ」ことの類型〉
1、究極的・絶対的心理の存在を信じ、それに到達することが「学ぶ」こととする型。
2、現実を「可能性の束」と考え、その観点から、新しいことを試み、選択するための知的作業としての型。
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福沢諭吉の著書からの引用が多く見られた.彼が,その当時「学ぶ」ということを適確に捉えていることに著者は評価しているが,そのような普遍的な知識を習得し,著作に表すことは凄い.
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佐々木毅著『学ぶとはどいうこと』。元東大総長で、政治思想史の重鎮が、いかなる学ぶ意義を、いま説くか。興味があって、購入の手順。
アリストテレス、福沢諭吉と古典が引用されて、果たしてそのオチはと読みすすんだが。どうもその帰結は、政治家の「学ばない政治の災禍」(
180p)という点に主張点は、あるようだ。
「精神的エネルギーの枯渇」(196p)。二本の学習スタイルが学校時代の学びに収斂し、なにを学んだかよりも「どこで誰について学んだか」出7処遇が路線化されている、学歴主義。
学閥のネットで情報をわけあい、予算をうごかしていく仕組みが、政権交代があってもかわらず、3.11東日本大震災を経てもかわったとは、言えないようだに、エリートの保身があるのかも知れない。
読み終えたところで衆議院は解散。与党も野党も、国民の支持をとりつけているようには見えてこない。政治家と官僚は、本書を一読、政策のねりなおしが必要なのかも。
どこかで著者は東大曾朝時代に、東大出身者の官僚や政治家に問題ありといわれても、それが東京大学の教育の問題といわれてもと、当惑したことがあったと、記憶する。
総長を任期満了。肩の荷がおりたところで、すすめられるままに「筋をとおされた」か。(講談社 2012年)。、
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レポートのために。
ちょっと私には難しかった。わからない言葉も多々出てきたので、辞書片手に時間がかかった。
政治のことも少し勉強してみようかなと考えさせられた。
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http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2821206
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[購入] 元東大総長の著者による本質的な「学び」論。
エッセイというかたちで、歴史や社会にとっての「学び」の意味やより根源の人間にとっての「学び」の意味が綴られる。
哲学や歴史などの観点からの語り口は決して易しくなく、読み進めるのに時間がかかる。
先にあとがきを読んでから読み進めた方が理解が促進されるかもしれない。