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恐らくは十代の頃に出会うべき詩人なのだろう(尾崎豊のように)。読み進めてもしばらくはなかなか共感しづらかったのだが、後半、放浪のまにまに悔恨や呪詛が混じり始めるに至った途端、既視感に見舞われる。何と愚かしくも侮りがたき人の生。
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全然読んでません!でも、パラパラと!
そんなことを言いたいのではありません!
ありのままで純粋で、チャーミングで、こんなふうに言葉を紡げることは本当に素敵で、喜ばしいことなんです。
特にこの感情が好きだな
間違っているかもしれない、でもこうやって言葉にできますか。これが素敵なんです。
まさに詩人
宇宙とこの世界の、たかだかの一人ランボーは、胸の内を吐露します。それが詩だと私は思います。
詩は、その隔たりにあります、自己と世界のその底知れぬ狭間、膨大な隔たりから生まれるんです。
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ランボーが詩作に打ち込んでいた期間は本当に短いのだと思い知った。
権力や正義といったものに猛烈に反発し、言語に革命をもたらすとまで息巻き創作していた自身の詩を、晩年若気の至りであるかのように嫌悪していたことも興味深い。
結婚して家庭を持ち愛を育むことへの憧れるも、その夢は叶えられることはなかった。そんな願望を内に秘めていたのがわかるからこそ、彼の人生が切なくてならない。不幸な方を選択してしまう彼の性格と、ふりかかる不運…。
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ランボーといえば、思い出す古いコマーシャルがある。
その詩人は底知れぬ渇きを抱えて放浪を繰り返した
限りない無邪気さから生まれた詩
世界中の詩人達が青ざめたその頃
彼は砂漠の商人
詩なんかよりうまい酒を などとおっしゃる
永遠の詩人ランボー
あんな男 ちょっといない
サントリーローヤル
1982年に放映されたCMのナレーションです。(長沢岳夫作)
この本の編訳者、野内良三氏が、本の おわりに
で、取り上げられていたので、懐かしく、嬉しく思いました。
観客のいない砂漠で演技する芸人の一団というシュールなミスマッチ。、、、野内氏は、ポップなBGMと、書かれていますが、私はとても、エキゾチックなBGMに感じました。
このCMは鮮烈だった。
たしかに、ランボーは「ちょっといない男」だ。
と、野内氏は、書かれています。
確かに。
私が、「ちょっといない男」として、日本の詩人で、連想するのは、全然違う作風ですが、宮沢賢治です。ランボーは、37歳で亡くなっていますが、宮沢賢治も、ほとんど同じ年齢で、死去しています。
私は、時々、(宮沢賢治より長生きしているのだから、、、)と、理由も無く思う時が、あります。だからなんだ、という訳でも無いのですが……。
魂をむき出しにして生きる人種には、この世で、長く生きていくのは、難しい事なんだろうな、と、考えました。
覚え書きとして。印象的なページ
ランボーの言葉
見た、十分に。
幻影はありとあらゆる大気に見いだされた。
待った、十分に。
街街のざわめきを、夕暮れに、太陽の下で、そしていつでも。
知った、十分に。
生の休止を。ー おお、ざわめきと幻影!
新しい愛情と新しい物音のなかへ出発するんだ!
野内良三氏の こめんと
この作品には、ランボーを突き動かす力がよく示されている。その力に促されながら、ランボーは生き急ぐ。もっと立ち止まればよかったのに、もっとゆっくり生きればよかったのにと、思わずにはいられない。
この作品を読むと、きまって、寺田寅彦の文章が私の脳裏をよぎる。
「いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かないところへ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。頭の悪い人足ののろい人がずっとあとから遅れて来てわけもなくそのだいじな宝物を拾って行く場合がある」(「科学者とあたま」)