投稿元:
レビューを見る
友人など要らない、コミュニケーションなど要らない、著者の主張は前作から一貫している。
しかしよくよく解釈してみれば、馴れ合いや同意するだけのコミュニケーションは本質から目を背け、現状かを硬直化させるから、それを重視する必要は無い、と言っているだけだ。
本質的にはそうなのであろう。個人的はそれで良いのだろう。しかしこれは求められる人の論理、価値を生み出せる人の論理であると思う。
多くの人はそれほど価値のあるものを生み出せないから、価値を生み出せる人にコミュニケーション(時にはそれは媚、同意、イエスマン、アドバイスという名の迎合)という手段でその分け前にあずかろうとしているのではないだろうか。そのような小手先のテクニックをコミュニケーションと呼ぶのには確かに抵抗はあるのだろうが、システム的にそのような人を生まないようにするには、そのような人を本質的議論に引き上げて行くための方策は示されていない。
投稿元:
レビューを見る
まずは疑ってかかること。
自分は中々出来ていないよなぁと内省した。
この震災の特殊な雰囲気を語っていてそこは自分自信なるほどな、と頷けたのでした。
ただ論理的思考が日本人は不得意、と書いてあるにもかかわらず、この本が論理的に書かれていたのかと思うと謎。
投稿元:
レビューを見る
映画監督「押井守」の出した新書。
「凡人として生きること」以来かな?
タイトルを漠然と見てしまっては、中身とのギャップがあるなと読んでて思う。
タイトルの「、」に意味あり。
「他人と付き合うということを、愛だの恋だの友情だのという漠然とした言葉をならべて語ったつもりになっているだけでは文化としての価値を何も語っていないに等しい。そのような感覚で、コミュニケーションを語るのは卑怯だ」
投稿元:
レビューを見る
個人的には好きな文脈で、内容はすんなりと頭に入ってきました。とはいえ、(余計な)コミュニケーションは要らないというお話なので、タイトルから入るとコケるやも。押井節という点も慣れない方にとっては注意が必要かもしれません。
投稿元:
レビューを見る
うーん、考えさせられました。
やはりツイッターやfacebookなどのSNSは、真のコミュニケーションという意味では、その範疇ではないのかもしれません。
かく言う私もTwitterユーザーの一人ですが、TL上を川の水のように流れては通り過ぎていく話題は、深く考える暇を与えません。
フォロワーを増やしたり、あ互いに『イイね!』を言い合っているだけでは本当のコミュニケーションになっていないことに、そろそろ皆が気付いてくる時期なのです。
例えば、お互いの健康状態を確認しあったり、自分の頭の中で浮かんだ言葉やアイデアをメモがわりにタイプしたり、他人の呟きからインスピレーションを貰ったり…その程度のツールなのかもしれません。
このようにインターネット環境が浸透してくる前は、現実世界においてもっと豊かな言語空間が広がっていたような気もしてくるのです。
押井さんの文章から、今の私たちは職場や家庭や学校などでのコミュ二ティにおいて、本当に議論しなければいけない案件について、見て見ぬふりをしているのだという事に気付かされました。
それは人を傷つけたくないから、言い換えると自分が傷つきたくないから。
また3.11のこと、原子力のこと、戦争のことなどについての文章では、押井さんの見解すべてを理解することはできませんが、常に物事の本質について考えていらっしゃるのだと思いました。
そして巻末に書かれている言葉は、とてもずしんと響きました。
大事なことは、アンテナを張りまくることでも、世界中の情報に聞き耳をたてることでもない。
自分で考えること、自分の人生とどう向き合うか、もっと言えば死とどう向き合うかだけだ。
問われるべきは知識ではなく、覚悟なのだと。
投稿元:
レビューを見る
押井守監督による震災後ならではのコミュニケーション論。かるい気持ちで手に取ったけど、かなり強烈な問題提起の書でした。
考えること。覚悟を決めて生きること。意志を実現するために、周囲をロジカルに説得していくこと。
自分なりにちょっとずつ、ことばで対話する環境や習慣を組み立てていきたいなぁ、と感じました。だいたい「コミュニケーション」に該当する日本語がないということが、その概念がもともと存在しないってのを露呈しちゃってるんだな・・
投稿元:
レビューを見る
なんというか、久々にテンションが置いてけぼりになった本でした。
コミュニケーションとはそもそも何か。
それは一つには、「現状を維持するためのコミュニケーション」であり、
もう一方は、「異質なものとつきあうためのコミュニケーション」である。
日本人は概してこれら二つの区別が苦手であり、というよりかはむしろ前者の意味でしか使えていない。後者の意味でのコミュニケーションをとるべき場でも日本式の「空気」やら「暗黙の了解」やらで片付けてきてしまった。
その結果日本にはまともな言語空間と言論空間がなくなってしまった。
と、ここら辺は割りと面白かった。
んだけど、その後そうした日本のコミュニケーション不全によって、
語られなくなってしまった(語ることができなくなってしまった)諸問題に立ち入っていくところで、押井節が一気に爆発して全く置いてけぼりになってしまいました。
まぁ毒も刺もなく、至って平和なテンションの人間が撮った作品を見たいかといえば全く見たくないから、期待通りと言えば期待通りなんだけども。
投稿元:
レビューを見る
どうもこの人の本を読むと不快になります。
批判されているというバツの悪さか、自分に似た人をみたときの感覚か。
短絡的な、他者と自分との立ち位置の差に思いの至らないつぶやきの数々をこき下ろし、また原発事故に対する宮崎駿の態度も断ずる。信じないことから考えをはじめろと、順番に考えろという。出来てるよ、と反発したくなるけれど、本当に出来てるのか、考えてみると不安になる。
暖かい人に転向したいと思っているけど、やっぱりこちら側に転んでしまいそうな、狙われた不快。
投稿元:
レビューを見る
所詮幻冬舎。新書としてのまとまりは稚拙。
しかし軽く「自分ではない人の現代に対する疑問」を覗くには良いかな。
①インターネットの普及に伴い、ツイッター、フェイスブックなどを通して社会やその人の背景から切り離された個人が発言するようになった現状、責任を離れた発言や正されることのない支離滅裂な「書き言葉」が溢れている。
②「和の心」を大事にしすぎる日本人はコミュニケーションの基本の議論をしない(出来ない)ため、人に伝える言葉もどこか自分の伝えたいことよりも場が円滑に進むことを重視した結果の産物になりがち。
=そうした中途半端なコミュニケーション、意志のない言葉ならば何の価値もない。「おまいら、頭使ってるか?」ってことでしょう?衆愚政治期のようじゃないか?と。
投稿元:
レビューを見る
日本人は情緒に流されず論理的に考える能力を獲得せねばならない、という主張には頷くがこの文章では。論理的思考能力はあるが文体に落し込めないのかそれとも本当に思考能力がこれ位なのか判断がつかない。編集者はもっと仕事をするべきだった。とはいえ納得できるくだりも多い。ジャスミン革命でネットが力を持った、とされる言説に対し「単に抑圧する方の力が衰えたから」とするのは恥ずかしながら目から鱗だった。SNSは自分に都合のいい空間を作り出す、現実とは違うから混同してはいけないとはよく言われる事、そこに過剰な期待を持ち気味だった自分に反省。またネットでのコミュニケーション(らしきもの)が最終目的になってしまっているのもおかしいよね。同意を投げてくれた人に必ず同意を投げ返すってこれは正高信男指摘するところのサルの呼掛け合いであってコミュニケーションじゃない。総評、ぼっち系にはグッとくるタイトルだけど決まらない本だなあ。
投稿元:
レビューを見る
ツイートして空気を読んで生きている「つもり」になっている、現代の大半の人達に対して警鐘を鳴らす本書。
空気なんか読むな。
自分の頭で考えろ。
自分の言葉で語れ。
賑やかしのコミュニケーションなんかに意味はない。
そう強く主張する本書は現代社会へのカンフル剤である。
投稿元:
レビューを見る
情報はひとまず信じない、疑ってみる。問われるのは知識ではなく、覚悟なのだ。自分の人生とどう向き合うのか。今生きている人間にとって一番大切なのは、死生観であり、死とどう向き合うかだけ。この前、徳島で出会ったある社長さんから学んだことと重なった。
投稿元:
レビューを見る
押井守監督の書籍。
前回の凡人として生きることに続いて幻冬舎新書で出ている。
これは3.11の震災後にツイッターなどをはじめとしたソーシャルメディアがもてはやされたことへのアンチテーゼ、または日本人への警鐘としてのメッセージが書かれている。
目次
第1章 コミュニケーションのできない日本人
第2章 僕は原発推進派である
第3章 曖昧な言葉が生む無責任な世界
第4章 日本はまだ近代国家ではない
第5章 終わりなき日常は終わらない
第6章 自分の頭で考える―本質論の時代
ここに書かれていることすべてに同意するわけではない。
けっこう極端な意見も見えるからだ。
実際、彼はネットを利用しないらしいので、ネットの持つパワーにはステレオタイプな観点でしか指摘ができていない。
言っていることは最もだが、それがすべてではないのだ。
しかし、彼の原発へのそもそもの経緯や歴史から見直すべきという指摘は大変参考になったし、たしかにその通りだと思うこともままあった。
それほどのボリュームでもないし、一読に値する内容であると僕は思う。
投稿元:
レビューを見る
日本人は、本質的な問題について「真剣に議論すること」を避け続けてきた、というのは分かるような気がします。
原子力政策についての話しも...あ、ん?、なるほど。
僕自身の心に著者の言葉が引っかかる。
けれど、読み終わると、なるほどなぁ、と感じました。
こんなレビューでは、全然具体性がないですね。
投稿元:
レビューを見る
馴れ合いではない、新たな関係性を生み出すコミュニケーションについて。戦争、震災を経た今、日本人として必要なコミュニケーションのあり方。押井カントク節は辛辣でときに愛嬌がある。面白かった。