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アミティの刑務所における活動を追ったドキュメンタリー。
アミティとは、罪を犯した人、暴力や依存の問題を抱えている人が問題と向き合い、新たな生き方をできるように支援するアメリカの更生施設。
ライファーズとは終身受刑者のこと。
精神の成長をうながすプログラムは一人ではできない。
人は変われるけれど一朝一夕では変われない。
ずっと刑務所にいるライファーズは、他の受刑者にとって身近にいるお手本であり、支えでもある。
ライファーズは率直に語り、安心できる場を作り、受刑者の相談にのる。
みずから変化を体現することで、「自分もあんな風に変われるかもしれない」と希望を見せてくれる。
受刑者の多くは何らかの被害をうけたり暴力にさらされて育ったりしている。
自分の受けた被害を認め、語れるようになって、ようやく自分の罪についても考えられるようになる。
人を殺しておいて「人間扱いしてほしい」というのは、そこだけみると盗人猛々しいようなことだけど、全部ちゃんと見るとまっとうな意見だとわかる。
生まれてこのかた人間扱いされたことのない人に、被害者がなにを失ったのか分かれって言っても理解できない。
大事にされないと、大事にされないことのひどさがわからない。
この本に出てくる人たちを撮影した映画版のライファーズも見たい。
・子供との面会は受刑者である親への「ごほうび」ではなく、親の義務であり子供の権利でもある。
そういう視点が自分には欠けていたので納得と衝撃が一度に来た。
・アメリカでは厳罰化の流れとともに刑務所の乱立と囚人数の増加があった。
犯罪率は増えてないけど収監される人(大部分は有色人種でアフリカ系とラティーノは特に多い)が増えた。
刑務所では最低賃金よりずっと低い賃金で囚人を働かせることができる。→安い労働力を確保できる。「現代の奴隷制」
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アリゾナ州ツーソン、というと大昔に父が滞在していたところだ。私は行ったことがないけれど、大きなサボテンがうつった赤茶色の土地の写真を見たことがある。そのツーソンにある、犯罪者や薬物依存者の更正施設アミティを、著者の坂上香さんが初めて訪れたのは1995年。以来、なんどもアミティを訪れながら、償いと回復をめぐる旅を坂上さんは続けてきた。
▼人は自らが受けた傷を越えて、いかに成長することができるか。犯した罪に、いかに向きあうことができるのか。暴力に満ちた世界を、いかに変えられるのか。TCのアプローチはこれらの問いに、いかに応えることができるか。(p.40)
※TCとは、Therapeutic Community、治療共同体、回復共同体と訳されている
アミティ代表者のナヤは、この課題をアミティという新たな旅路に託した。1981年のことだ。この『ライファーズ』は、旅路の記録でもある。
アミティの更正プログラム参加者は、自分の過去の経験に向きあっていく。加害者の多くが、悲惨な虐待体験や暴力被害の体験をもつ。ずっと蓋をしてきたその体験と感情を掘り起こすのは、容易ではない。それでも、仲間に支えられ、一足先にプログラムを経験したデモンストレーターの助けを得ながら、その体験を名付け、受けとめていく。そのときのことを繰り返し語るなかで、自分にとってそれはどういうことなのかに気づいていく。一人ではとてもできないし、長い時間を要する作業だ。
ある加害者は、仲間の語った加害経験に自分を重ねて、こう言った。
▼俺もかつては敵対するギャングに対しては、相手がどういう人間だろうと構わなかった。敵としか思わなかったから。アミティに来てから、被害者に顔を与えるということを学んだ。相手を人として見ることでようやく、自分がしたことに対して感情が湧く。それが反省につながる。…俺に起こったことも、彼に起こったことも同じだと思う。(p.177)
暴力から自由になるための旅。
今までと異なる未来を築くことにつながる、語りを通した自分、そして他者との接点。
「ライファーズ 終身刑を超えて」という映画はまだ見たことがないのだが、この本を読み、あわせて『アミティ・「脱暴力」への挑戦』や『癒しと和解への旅』を読んで、映画もみてみたいと思った。
(10/28了、11/8二読)
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「ライファーズ」と聞くと何のことやらと思うが、「Lifers」つまり、終身刑(米国では仮釈放の可能性のあるものと全くないものと二種類あり、両方をさす)を科された受刑者のこと。
アメリカのアリゾナ州にある民間の更生団体アミティ。
刑務所や更生施設などで活動を続ける彼らは、創設者、スタッフからして元受刑者や元薬物使用者であり、同じような境遇を生きてきた犯罪者同士の語りあいを通して、更生と生き方の変革を図る活動を続けている。
実際、四年間でプログラムに400人以上の男女が参加、その再犯率が40パーセントも減ったという実績がある。
そのアミティやそれにかかわった人々を長年に渡って取材し、かつて更生不可能の烙印を押された人物たちの劇的な変容を追って、刑罰のあり方を問いかけた渾身の作。
実際のプログラムは、まさしく心理カウンセリングそのもの。
自分自身をさらけ出し、過去の暴力や性的虐待などの辛い経験から、道に外れ窃盗や薬物依存、はては殺人まで犯してしまった過ちまで全てを語り合い、罪に向き合っていく。そこにはいわゆる専門家はおらず、「ライファーズ」たちが、体現者として、アミティではレジデントと呼ばれている受刑者たちを自らの過去と対峙し乗り越えていけるよう導いていくのだ。
また、日本の刑務所の、受刑者を番号で呼ぶ、受刑者同士の私語は厳禁、仕事をすることが社会復帰に役立つとしてほとんどの時間を刑務作業をして過ごすなど、古くから信じられてきた処遇方法に疑問を投げかけている。なぜなら、著者の取材した実績を上げている更生施設では、日常的に恥や屈辱感を味わわせることは人を卑屈にさせ人間的成長を妨げるとし、罪に向き合うために会話や語り合いは不可欠で、受刑者を孤立させないような工夫がされていたからだ。
理不尽に他人の命を奪っておきながら、加害者はのうのうと生きているなんて許せない、という思いは十分に理解できる。
ただ、著者がアリス・ミラーの本を引いて書いているように、やはり人を犯罪へ暴力へと向かわせてしまった原因は、その生育環境に大きな一因があると私も思っている。
加害者の多くは、自分の犯した加害体験と同様に、被害体験も併せ持っている。幼少期のトラウマは人格形成に大きな瑕疵をもたらし、暴力は連鎖、自傷行為や薬物依存、他人への暴力行為へとつながっていくのだ。本当の意味での加害者の更生がなければ、次なる犯罪の抑止にも、被害者への贖罪にもならない。加害者が心から罪に向き合って初めて、償いの第一歩が踏み出せるのであり、犯罪の減少への一助にもなる。
厳罰化では、犯罪を減らすことはできない。
第七章で取り上げられる修復的司法について読みながら、『弟を殺した彼と、僕』を思い出した。著者の原田氏が、専門の知識もない中、自らの体験から苦しみぬいてたどり着いたのが、生きなおすために加害者と対話することだった。もっとこの手法について、日本で検討するべきなのではないだろうか。
そして、更生施設だけでなく、社会に復帰したときの受け皿の問題も含めて、社会をあげて考えるべきではないのか。
いずれにしても、一筋縄では到��いかないであろうが。
罪を憎んで人を憎まず。
犯罪の原因は個人ではなく社会にあるとして、その責任を社会を構成する我々で追っていくべきなのかもしれない。
残念ながら私は見ていないが、2004年に本取材をもとに『ライファーズ 終身刑を超えて』というドキュメンタリー映画を製作し、ニューヨーク国際インディペンデント映画祭で、海外ドキュメンタリー部門最優秀賞を獲得したそうだ。
現在続編を撮影中だということで、完成が楽しみだ。
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やっとこさ読了!
読むのもなかなかしんどくて、読み進めるのに時間がかかりました。
ライファーズ(終身刑もしくは無期刑受刑者)たちが自らの人生と向き合い、自ら犯した罪と向き合い、新しい人生を歩んでいく道のりの記録。
重大な罪を犯したライファーズの多くが子ども時代に被害を受けていて深く傷ついているということ、その傷つきが彼らを暴力や薬物に駆り立てているということに胸が痛みました。
「犯罪を繰り返してしまうほどの深い傷つきと向き合う」という困難を可能にしているプログラムやコミュニティのあり方に対して強く興味を抱きました。
このプログラムを、犯罪の未然防止と関連させて紹介していきたいなと思いました。
加害者は、被害者でもあるという、シビアな現実。
子どもたちの教育や養育に関わっていらっしゃる方々にもお勧めの一冊です。
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米アミティ、刑務所内の治療共同体、問題に向き合い乗り越えた、人間的成長の体験者が、他者の人生に揺さぶりをかける。
ミステリーがお気楽に楽しめなくなってしまいます。犯罪者は異常者である必要があるのですから。
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読みたいと思った理由
- 映画『プリズン・サークル』をきっかけに知った
- 自分のことを弱者だと認識しており,「無敵の人」に近いと思っている.彼らがどのようなことを考えているのか知りたい.
- 人間は変わるのか,変わるとしたら,何が駆動力になるのか知りたい
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弁護士になりたいと思ったことはないけれど、「修復的司法」の現場には関わってみたいと思った。南アフリカの「真実和解委員会」というのにもとても興味が湧いた。
コミュニティにおける暴力の収め方と、法律という名の暴力について考えさせられた。ルネ•ジラールの『暴力と聖なるもの』という本に、コミュニティ内で起こる暴力の収め方についての文化人類学的な記載と、現代における法律という名の暴力について書かれていたと思うけれど、それをもう一度読み直したいと思った。