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なんというか、いろんな意味で読んでおいた方がいい本だと思った。
宅間守の根本的な問題は、
・自分に対する理想と自分の現実の不一致
・その不一致を自分ではなく他者や社会に帰責しようとする心性
の2つ、要は「分不相応な高望み」と「自己中心的な他罰性向」ということだ。
しかし、この2つをまったく持たない人なんているだろうか。「自分がうまくいかないのは、◯◯のせいだ」とまったく考えたことのない人など、ほとんどいないに違いない。であれば、誰もが、大なり小なり宅間守になる素質があるのだと思う。
それにしても、読んでいて「とんでもないモンスターだな」と思いつつも、誰かがどこかの時点で掛け値なしに彼を愛してやることはできなかったものだろうか、というような、すこし哀しい感じも受けた。最終的に、彼はもうどうしようもないくらいに歪んでしまったわけだから、極刑も妥当だとは思うけれど、やはりそういう哀しさみたいなものは拭えなかった。
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http://www.amazon.co.jp/review/R3IBZJQ7R74UVH/ref=cm_cr_rdp_perm
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この事件以来、子どもたちのいる場所に、自由に出入りできなくなった、という意味では、社会に与えた影響は、ものすごい。
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初から最後までひとっつも救いがなくて、むしろ著者の誠意を感じる。見せかけの希望に逃げるのは簡単だが、まったく救えぬ現実もある。
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自験例を彷彿させるところもあり、読むほどに背筋が凍る。
専門外の人にも分かりやすく(鑑定書には必要な条件)、奇を衒わず、かつ、鑑定人の思考過程や苦慮したようすがありありと伝わってくる真摯な鑑定書。事件以前に宅間を診察したことがある多数の精神科医の診療録や証言、看護記録、なども生々しい。
本事件によって一挙にあと押しされて成立した医療観察法であるが、当の宅間自身はこの法律があったとしても適応外とされたであろう。残された課題を思えば、皮肉ではすまされない。
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岡江晃『宅間守 精神鑑定書 精神医療と刑事司法のはざまで』亜紀書房も読んだのだ。闇なるものを他者化して安堵する自己認識と社会の構造そのものに問題は存在するとは思うのだけど、これを論評するのは難しい。おもしろおかしく手に取る本ではないな、
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2001年6月、大阪教育大学附属池田小学校で児童・教諭を殺傷した宅間守の精神鑑定書。
家族歴、本人歴、本件犯行、現在症、診断、鑑定主文から構成されています。
この本を通して、精神鑑定の道すじについて、初めて知りました。
医療観察法についても思いを馳せながら、読みました。
責任能力の有無に関わらず、やはり、自ら犯した罪については、償ってほしいという思いが、私の中にあります。
それが刑務所の中なのか、病院とのつながりの中なのかの違いがあるだけだと、私は受け取りたいです。
この犯罪行為自体は、絶対に許せないものです。
死刑が確定し、刑の執行に至るまでの間、この罪を償う気持ちを抱くことができていたのだろうかと、そんなことを思いました。
精神科医療、刑事司法、学校教育(宅間氏も、かつては学校に通う子どもであったのですから)の角度から、それぞれの「できること」を考えていけたらいいな、と思います。
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附属池田小事件は、忘れられない事件だ。
その事件を起こした宅間守とは、どういう人間だったのか。
知れば知るほど、人間とは思えない人だ。
なぜ、このような人間になってきたかが、よくわからなかった。
持って生まれた気性なのか、それとも育った環境なのか。
病気のようにも見えるし、性格にも見える。
あんなに早く死刑にしてよかったのだろうか?
どうすれば、彼は改心したのだろうか?
いろいろ考えさせられる本。
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鑑定書を出版するというのは批判を恐れてなかなかできないことではあるが、大きな事件でもあるし、資料的にも価値がある内容。
白眉はやはり統合失調症との鑑別か。
宅間は被害妄想や注察妄想を呈してはいるが、その場限りの一過性のものがほとんどで、妄想対象も漠然とした不特定他者へ拡散したりすることはない。不安や猜疑、恥辱、嫉妬などに由来するある程度了解可能な妄想様観念であり、妄想反応というべきもの。Scのそれとはかなり異なっている、とのことで、シュナイダーのいう情性欠如者に該当する。それに反応性の妄想、気分変調が重なったものである。制御能力などは低下しているが、人格に由来するもので責任能力には影響なし、という結論。
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強姦、暴行、傷害、万引き、無免許、恐喝、当たり屋、ストーカー、窃盗、詐欺、動物虐待、住宅侵入、器物損壊…
池田小事件までに、これらの犯罪を犯してるヤツが、なんでシャバをうろついてんねん。刑務所からだしたらあかんやろ。
町内にこんなん1人いたら、グチャグチャにされるで。
死刑に異議なし。
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大変興味深かった。病院の相談員も一部登場。一度措置入院になっている経過があっても、地域関係機関とのつながりがなかった(と思われる)のは、宅間のどの診断にも当てはまりにくいことがあったのか。この事件がきっかけで医療観察法ができたわけだが、この法律があっても池田小事件を防げたとは思えないというのは筆者の語る通り。事前の段階で、長期入院という形ではなく、宅間のような人物を監視という形ではない形で、見守っていくにはどうしたらいいのか、考えさせられる。
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このような事件をおこした人の心理を知りたいと思った。
ただ、市井に暮らす、凡人が起こしたのなら、誰でも加害者になるのか?とも思った。
病的な精神疾患はない。ただし、人格形成に問題があり、他人のことを思いやる、共感度が著しくない。思考があまりにも自己中心的で、幼いころから、逸脱していたようだ。
だが、精神疾患ではない。では、生れ落ちたときにあったもともとの性格なのか、環境のせいなのか、そのあたりは定かではない。事件を起こそうと思った経緯も、ふつーに生きている人々には理解できない。
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【速読】子どもの時分から暴力的な兆候があり、その後性的衝動の強さ、盗み、執拗な依存など犯罪へ結びつく行動が後を絶たず、その一方で精神病院への入退院を繰り返しており、著者は特異な精神状態と分析してます。その上であの事件を抑制する力は失われていたものの、責任能力はあるとの判断。もし統合失調症と診断されていれば責任能力の有無は違う方向へいっていたかもしれないということで、刑事事件における精神医療の果たす役割ってのの大きさもしみじみと。
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子育て中の身として、何をどう間違えたらあのような人格を持った人間が誕生するのか、知る必要があると思いました。
残酷で目を覆いたくなるような表現が多数出てきます。読んでいてぐったりしてしまいました。
彼が年上女性との婚姻中、女性から保護されている関係にあるうちは、暴力的な問題行動も落ち着いていたらしい。
決して家庭環境だけが原因ではないのかもしれないが、
仮に彼が胎児期から幼少期に、深い深い愛情を受け、自己肯定感を育まれていたら、このような人格形成には至らなかったのではないかと思われる。
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ひとりの人間の生死を、ある意味で託されるということに等しい行為の過程とその結末を、このように示してくれるというのは、それだけで非常に価値あることだし、死刑廃止だの存続だの死んだこともない人間の迷い言を一蹴するにも必要なことであると思う。だいたい、死刑が罰になること自体をまともに考えた人間がいたとするなら、野蛮だとか先進的でないとかそういうことばは出ないはずである。しかも、この死刑囚が示したように、「死んだら終わり」のどこが罰になっているというのか。ひとに罰を与えるどうのこうの言う前に、ひとが死ぬというそのことを考えた人間がそういう中にいるのか。
判決文には殺した子どもの可能性を奪ったことに加え、子どもを奪われた遺族の悲しみが罪とされている。このことは事実だし、もっともなことである。おそらく、多くのひとがそう感じる。
だが、この宅間守という人間にはそんなものは通用しないのだ。彼にとっては、それは罪ではないのだ。したがって、彼にとって、死刑は何の罰にもなっていない。ただ罪のない哀れなひとりの人間が、不当に殺されるのだと息巻くだけなのだ。罰は誰に対しての罰なのか。死刑が罰になるのは、死というものを考えたことのある人間だけである。
死刑の本質は、死という現象が、人工的に与えられるという点にある。人間生まれたからには必ず死ぬ。誰だって死ぬ。死刑囚でなくても、英雄であっても関係ない。しかし、今こうして考え、生きているという点にかけて、死んでないということが保障される。どういうわけか、生きてしまっているのである。
では死なないのはなぜか。それは死ねないからである。死んだら終わり、死ぬのは苦しい・怖ろしい、そういうことを言うひとがいるが、死んだこともないのに、どうしてそんなことがわかるのか。臨死体験、それはどこまでいっても生きた人間の体験でしかない。死というものは生きていないということでしか考えられないからだ。死ぬということば自体が生きていることを前提としてしまっている以上、死というものを捉えられないのは当たり前ではないか。
ただ、死ぬということは生きていない、ということであるのは事実である。死んでしまったら、少なくとも決して「善く」は生きられない。ひとを殺すということは、少なくとも、他人が決して善く生きられないということに他ならない。他人が決して善く生きられないのなら、自分は決して善く生きられないのと同じことである。
彼の罪は他人だけでなく、自分の善く生きる可能性を自らの手で抹殺したことである。彼の罪は、他人に自身の善く生きる可能性を奪われることによってしか贖われない。だから、この点において、彼の死刑が罰足りうるのである。
そんなことも考えられずに、彼は死んでいったのである。人間として生まれながら、なんと皮肉なことか。彼はただ人間として死ぬのではなく、殺処分されたに過ぎないのである。人間として死んでいった陸田真志となんという違いか。
罪や罰というのは、どこまでいっても人間的なものでしかない。人間でなければ、罪だの罰だの並べ立ててもなんの意味もない。宅間守は人間として死ねなかったのである。ど���までも自分がすべてだと息巻くのであれば、彼は生きるということにかけて、死ぬということにかけて、人間であるべきだった。俺のどこが悪いと叫んだその時、なぜ彼は自分の胸に手をあてなかったのか。そんなことをなぜ、他人に聞くのだ、と。そんなことを他人に教えられないとわからないのか。それがわからぬというのなら、人間などではないのである。
彼の精神的特質が、そういったことを考えるにあたって、妨げていた可能性はおおいにありうる。そこで、精神鑑定の出番というわけだ。
だが、精神鑑定や彼の通っていた病院含め、何の病気かを探すことに血眼になっているような気がしてならない。別に精神鑑定が悪いとか、診断したやつが悪いとか言うつもりはない。ただ、病気や育ちの問題だからということで、それが人間である限り、罪や罰が差し引きされるというのはとうてい思えない、というだけである。病気だからひとを殺してしまう、育ちに問題があったから誰かを傷つけてしまう、こんな短絡的な話がまかり通っていいのか。精神鑑定はそんなことをしたいのか。
この精神鑑定というのは、人間であるかそうでないのか、死刑か殺処分であるかを鑑定するものであるはずだ。そうでなければ何を鑑定しているというのか。あてはまる病気を探したって既存の何にも彼にあてはまらななかったのが事実である。彼は病気かどうかの範疇を超えていたのである。
鑑定人たちや彼に携わったひとは、幻聴が聞こえたかや、その時の気持ちを聞くよりも、誰かを殺すことで、一体誰が死んだことになるのか、ひとが死ぬとはどういうことか、そして、それのどこが彼の善く生きることとなりうるのかを彼に尋ねるべきだったと思う。
もう今や刑が執行されてしまった以上、彼が人間として罰を受けて死んでいったのか、もう、誰にもわからない。