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先頃読んだ、『サイエンスライティング』とも関連しそうだと選んだ1冊。
著者は、大手新聞社で長年、科学部記者として働いてきた人物。現在は退職しており、科学ジャーナリストという肩書きになるようである。
前半は大手新聞社の元記者として、新聞の科学ジャーナリズムの歴史を振り返っている。
個人的にはこの部分で結構あぜんとした。新聞の科学報道ってこんなにも「上から目線」だったのか。
この歴史はおそらく(門外漢なので憶測にすぎないが)、日本における新聞そのものの歴史の延長線上にあるのだろう。新聞は社会の「木鐸」たれという精神なのだ。
要するに、この本を読む限りでは、かつての科学報道は、上意下達方式で、「お上」の意向を「下々」に知らしめる意味合いを帯びていた。啓蒙というと聞こえはよいけれども、官公庁の発表を垂れ流すというか、言葉は悪いが、無知蒙昧なる民に教えてやろう、そして民を「正しい」方向に導こうという姿勢である。原子力推進の時代がこれにあたっていたのではないかということだが、この件に関しては、この本の記述だけでは自分には判断がつかないのでひとまず置く。
もうここらあたりで放り出しそうになったのだが、眉根に皺を寄せつつ読む。
後半は思いの外、共感する部分が多かった。
専門外の人と専門家をつなぐ「サイエンスカフェ」の話や、「科学を文化として楽しむ」姿勢、国民全体として見た場合のマクロのリスクと個々人に対するミクロのリスクを区別する必要性など、示唆に富む話が多い。
読みながらさまざま考えた。
科学技術の発展にともなって、門外漢にはもちろん、わからないことが増えていくわけだが、いわゆる「専門家」であったとしても、正確に先が見通せないことが増えていくのだと思う。「科学」だけならともかく、「倫理」の問題が絡んできたら(本書で引用されている『科学は誰のものか』(平川秀幸・NHK出版)で言う「科学なしでは解けないが、科学だけでは解けない問題」など)、民意を問うことは欠かせない。
多分、この先重要となるのは、「これが真実だ」と叫ぶ旗振り役ではない。それが国家への盲従であろうと、科学行政が「しでかした」ことに対する批判であろうと、いずれであっても、「色」のついた意見ではない。
可能であるかどうかはわからないが、科学技術の発展に伴って生じる問題について、判断できる材料を示すこと、広くフラットに、さまざまな主張を示し、そうした専門家の意見にたどり着く術を示すことが、理想的な科学報道の形ではないかと思う。
インターネットは脊髄反射的な情報の海である。
一呼吸置いて、咀嚼した後に示せることもあるのではないか。新聞や書籍には、落ち着いた、大局を見据えようとする姿勢を望みたい。