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古代から現代に至るまでの宇宙像の解明の歴史を物語風に著す。未だ解明されない宇宙像に神の存在を重ね合わせるロマンに満ちた書。
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古代の東西の宇宙観から最先端の宇宙論の歴史を振り返りながら、絶対神に肉薄してきたと思われながら、神が地上の神から、無窮の宇宙の神として遠ざかるように見えて大きな存在になっていくことを感じさせる。意外にも神話の宇宙観に今先祖がえりしているかも知れないと著者は主張しているようだ。ベルギーの司祭・物理学者ルメートルが1927年にビッグバンをなぞる宇宙卵説を唱えた!驚きであり、キリスト教会の開放性を感じる喜ばしい話。著者は神を信じていない?と思われるが、謙遜な思いで神の存在を容認している?のだろうか。神を追い詰めているように見えて、神の掌から逃げられないことを科学者は知っており、一番神を意識しているかも(P17)とは自分のことか。インフレーションがビッグバンの後にあったという最新の説などにも詳しい。
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古代から現代までの宇宙論のあゆみ。内容はごくオーソドックスで,「神」にこじつける必要性は乏しかった。一冊通してほぼ毎ページに神が出てくるのはかなり不自然で,記述は淡々としているのだが何かちょっと鬼気迫るものを感じてしまう。
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人間がいかに宇宙を認識してきたか、神の居場所に絡めての宇宙認識の歴史。はじめは神話の世界からはじまり古代、中世を経て近代・現代の宇宙論までがコンパクトにまとめられている。望遠鏡が使われるようになってからの記述が多くなるが、科学的発見が多くなり、どんどん宇宙の見方が変わっていくのがおもしろい。もっともビッグバン以降はとても常識を越えているので理解度は相変わらずだが、平易に書かれていてわかりやすい。
池内先生の後書きがまるで遺言のように感じるのは私だけだろうか。中日新聞で夕刊コラムも書かれているが、写真を見るとかなりお年に見えるのでちょっと寂しい気がした。
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[ 内容 ]
古来、宇宙とは人々が住む村の界隈のことであった。
そこで語られる宇宙創成神話が彼らの宇宙観を形成し、やがて太陽や月、惑星などが織り成す秩序立った美しい世界が明らかになると、人間は天と神の存在を結びつけていく。
そして望遠鏡の発明を機に、人々が認識できる宇宙は太陽系を越え、銀河宇宙へと広がっていった。
天は幾層にも重なった構造を持つことが分かり、そこに鎮座する神は次々と居場所を変え、容易にその姿をつかませない。
本書は、宇宙と神の関わりをひもとき、天文学の歴史の中で科学者たちが積み上げてきた宇宙論の変遷をたどる。
[ 目次 ]
宇宙における神の存在
神ならざる神―神話の世界
神の啓示―中国、日本、インドの宇宙観
神に頼らない―古代ギリシャの宇宙観
神は複雑―アラビアの宇宙観
神の仕掛け―練金術と自然魔術
神の居場所―天と地の交代
神の後退―無限宇宙の系譜
神を追いつめて―島宇宙という考え
神は唯一なのか?多数なのか?―大論争〔ほか〕
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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2014/11/01
神話的宇宙像から物理学的宇宙像へと、我々は2000年もの間、宇宙の認識論を展開してきた。本書は物理学者の立場から、その認識論の歴史を辿るエッセイ的内容である。
短い新書の中で、多数の内容を盛り込んでくれている。一つ一つを、とても理解することはできないが、タイトルにあるように、神は何処に居るのか、神は何を為すのかを軸として時空を越えた神探しの旅を追体験できるというのが、本書の魅力だろう。
以下、部分的抜粋を載せる
ニュートンの重力理論では、近代科学の方法は、現象の記述を完成させることを目的としており、現象の原因を明らかにすることではない、という記述が出てきた。
またブルーノの宇宙論では、空間的無限性と時間的無限性が唱えられていた。
1956年、宇宙背景放射が発見され、ガモフのビッグバン宇宙論が裏付けられた。ところが膨張宇宙論ではいくつかのパラドックスが指摘された。宇宙項の導入による理論的解決を経て、2003年、年齢が138億年で、空間の曲率が平坦で、ダークエネルギー72%, ダークマター24%, バリオン4%の宇宙モデルが確立するに至っている。
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人文系学問のパラダイムが自然科学のパラダイムと相関があるというところが面白かった。19世紀、宇宙が自分の熱で燃え尽きてしまうという予想「宇宙の死滅」が唱えられたと同時期にニーチェは神の死を宣言していた。偶然なのか必然なのか。レヴィ・ストロースの構造人類学的な見方もなんとなく同時期の天文の見方に似ていたり。
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「どうなのか?」「どうなっているか?」の解明は進みつつも、「なぜそうなのか?」については「神」以外の回答を持たない宇宙論。
物理学同様、宇宙論にも「神」は遍在する。
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宇宙論の歴史について記載した一冊。
切り口として、宇宙の未知な部分を神(something great)として取り扱い、それは東洋と西洋の価値観で大きく異なるものであったのだろう。そして、それが観測事実とともに科学的な根拠をもち、今の天文学へと至った経緯を記載。
そして、その宗教的な部分と科学的な部分の分岐点にニュートンらの学者が存在するといった内容に学問の温もり(人間臭さ)と感じた内容であった。
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この宇宙における構成物質のことをほとんど何もわかってないということ。
そして常に
当たり前が崩れ
宇宙においての新しい知見がこの先も得られ続けていくであろうということが感じられる著書。
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私たちが今まで解き明かしてきた宇宙に関する事実はすべて神による戯れだったのかもしれない。そんな不安とも言えるイメージを彷彿とさせる書籍だった。かつてエントロピーと呼ばれていた宇宙空間も今や物理学云々、量子力学云々で説明されてしまっている。所詮、人間の解釈でしかないことはさておき、宇宙が不変であることは確かに感じることができるのである。アインシュタインが好んだ静的な宇宙は皮肉にもハッブル定数よって否定された。何を言いたいのかと言うと、この世界はふとした瞬間にまったく違ったものに変容してしまうのではないかということである。私たちは目に見えない宇宙について机の上で手を揉みながら考えている。それよって宇宙についての多くの謎が解明されたが、それによって宇宙の本質を知ったことは少なかった。ようは人間の解釈によっては無限の解釈ができるということである。それが丸々この本の味噌になっているような気がした。私たちはもう1度『当然』を見直して考えてみる必要があるのかもしれない。そう思えた本だった。
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古代ギリシャや中国、インドの宗教的宇宙像から現代のダークマターやダークエネルギーが大部分を占めるという宇宙像に至る宇宙観の発展を、(キリスト教的な唯一)神と絡めて解説した本。
少なくとも中世ぐらいまでは、宇宙の真の姿、システムを追求することが、今では科学と対置されがちな神の居場所を追い求める営みであり、その時々の社会情勢と互いに深く影響しあってきたのだということが読み取れて興味深かった。が、14章の人間原理についての記述には違和感を覚えた。人間原理とは簡単に言えば、宇宙が人間を生み出し得たという条件を用いることで物理定数の「都合の良さ」を説明する説である。筆者は、宇宙が、人間のような誕生して間もない浅薄な存在によって左右される筈がない、として人間原理に反論している。しかし、(僕の理解が正しければ、)人間原理は人間を宇宙の運命を定める至高の存在としてではなく、寧ろ「珊瑚の化石」のように扱っている。つまり、珊瑚の化石が地層から発掘される事が、ある地域、ある年代の気候について何らかの示唆をもたらすのと同じ意味で、人間(知的生命)が地球に存在しているという事実がこの宇宙の性質に関する情報を与えるという訳だ。「地球の気候」が「珊瑚の化石」のような「浅薄な存在」によって左右されるとは誰も考えないだろう。人間の視点を、人間自身の存在をいわば外から眺めるという概念を導入する事で何処でもあり何処でもないような虚空に解消したという意味で、人間原理は人間を至高としているのだと言われれば、そうかなと個人的には思うが。以上、僕が人間原理を確認する意味で長々と書きました。
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神と宇宙は相性がよい。
そう聞けば大いに納得できる。
それぞれが、勝手に想像することが許されるから。
ところが宇宙のことがわかってきてしまうと、神は不利になってしまう…いや、神もただやられっぱなしではない。だって、いま科学と神のどちらが人の心を掴んでいる?
一方で、科学も神を気にしていると、やりにくいこともある。そうしたわけで、神と人間を峻別することが、近代科学のやり方。
ダークエネルギーだとか、わかっていない、見えていないものもあるから、まだまだ宇宙に神の居場所はある。
神の本だと思うなかれ。これはやっぱり、宇宙の本である。宇宙のことを知る上で、神という存在が大変うまいこと効いている。神がいてくれたから、複雑な宇宙のことも追いかけてみたい、という気持ちで読めるではないか。
僕の神は細部に宿るものだと思っていたが、こういう神もある。
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第三章あたりまで読んだ。本を図書館に返さないといけなくなったので最後まで読めず、ちょっと残念。いつか続きを読みたい。
印象に残った箇所のメモは以下。
神の変容
「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」における「ほとけ」じゃ極めて日本的な宗教観かもしれない。基本的には自力本願であって、その努力を愛でて最後に「顔」をみせてくれるからだ。これに対し、西洋における「神」は少し異なっている。至高の存在であるとともに、自然界を束ね、難問を投げかけたり、試したりして、人間を困らせ挑発し翻弄する存在である。唯一神であるが故に人間に対して自由に振る舞う子ことができ、人間が右往左往する様を天の高みから楽しんでいる。人間は自らの無力さを知りつつも、神に対抗しようと身構え反応する。それに応じて様々な物語が編み出されていくことになる。そのような意味で、神と人間相剋が続いていく動的な宗教観と言えるかもしれない。(p13)
神話時代には、自由闊達な神であったのだが、農業革命以降においては、厳かで自らの絶対性を人々に強要するようになった。(p14)
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図書館で借りた。
宇宙科学の発展に、科学者観点の神とはどんなだったか、をなぞった特徴的な本。
著者は京都大学の先生で、「物理学と神」がベストセラーとなり、その続編的な本らしい。そちらは読んでない。
日本人は宇宙にそれほど興味を持たなかった、という話や、「神はサイコロ遊びはしない」と言ったアインシュタインに対し、ボーアが「ひょっとしたら神はサイコロ好きかもよ」と反論したという話は印象に残った。