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連作の二冊目。
このひとの文章読んでいると、学者っぽいなぁと感じさせられる。目の付け所が、いい意味でめんどくさいところが。文体も。
でもフィールドワークの眼を、身体に染み付かせて普段から生活してるねんなぁと思わされた。
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社会学を学ぶ上で必要なフィールドワークの方法、あたりまえを疑うこと、社会に根深いいろいろな諸問題を学問として捕らえそこで感じる違和感がなにかを知らしめる。
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ソフトバンクの白戸家の犬のCMシリーズの見方がおもしろかった。社会で見られている日常との違和感でCMができていて、唯一、日常性を保っているのが樋口可南子の演じるお母さんだと説く。確かにそうだと思う。この広告を外国の人に説明するのが難しいのが、日本の家庭の生活で当たり前のことがわからないと説明しづらいのだと気づかされた。全編に渡って、身近にある携帯だったり、電車通勤だったりの日常性からの違和感が社会学だと言っているが、哲学めいたところもあり、もう少しわかりやすく書けないのかとも思った。
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前作よりちょっぴり違和感が残った。電車内でのスマホとか…新聞読んでるのとかマンガ雑誌読んでるのとは違うのかな、とか。車社会に生きてるので、あんまり実感がわかないが。でも全体的に面白いし、紹介された本は全部読んでみたくなる。
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普段の様々な場面で違和感を覚える機会、まっすぐに向き合いなぜ違和感を覚えたのかをじっくり見直すことで、その後の日常生活の方向性や質を変えられるかもしれない。
こんなふうに社会を捉えながら、日々を暮らしている人がいるんだ、人間の多様性ってすごい。
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社会学とフィールドワーク。
自分には、内容が難しかったが、いずれの内容も面白く読んだ。考えることがしばしば。
読後感としては、「難しかった」が率直な感想だが、それとまた同時に、「大学生の時にこういう講義を受講したかったな」と。
つまり、いろいろことを突き詰めていく面白さを味わったということか。
再読・熟読したい1冊で、手元に置いておきたい。
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はっと気づかされること多数。スマホを持つ自分と他者との関係。障碍を持つ人をわれわれはどう見てしまっているのか。夫婦別姓に反対する主張はどう作られているのか。日常で「ん?」と思うことを糸口に考えさせられる。良い本。
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社会学における「フィールドワーク」の位置づけを学ぶことができる。できる限り自分を「あけておく」という表現が興味深い。
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・いまひとつまとまり感がなかった。
・「いま・ここ」
・電車でスマホしかみない客たち
・「当たり前」を疑う
・リア充
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だれかの「生きづらさ」に目を向ける40冊
所蔵状況の確認はこちらから↓
https://libopac.akibi.ac.jp/opac/opac_details/?reqCode=fromlist&lang=0&amode=11&bibid=2001010248
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社会学というジャンルに興味を持ち、読んでみた本。
筆者の問題意識はこのように語られている。
私が問題としたいのは、
①「生きる」意味をつきつめる必要のない「日常」を、私たちは普段、どのように生きているのだろうか、
②そのように「日常」を生きること自体がどういう営みなのだろうか、
③私たちが「日常」にどのようなまなざしを向ければ、よりおもしろく生きることができるのだろうか、ということなのである。 23p
入院患者は、なぜ家に帰りたいのか?という問いに対して、ロールモデルのDrの一人である藤沼泰樹先生がこのような方をおっしゃっていた。(うろ覚えだが)
「家に帰りたいのに理由なんていらない。家で過ごすのが、その人の日常だからだ。」
「自分はなぜ生きるのか?」「生きることに意味はあるのか?」
などと哲学的に問うと、大抵袋小路にハマってしまう。
それよりも、
「自分が生きている”日常”はどのように成り立っているのか?」
と目を向けることは、贈与論的にも有用な視点なように思う。
https://bc-liber.com/blogs/06c097ec60c3
signに気づき、signを出そう:「世界は贈与でできている...
こば
09/11 14:16
日常とは、サッカーボールの上に乗った卵のように不安定なつり合いであり、危ういバランスの上に成り立っている。
そのことを改めて考えるきっかけとなった本でした。
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(以下、メモ)
シュッツの日常生活世界論
「いま、ここ」が至高の現実として最も重要。その構成要素を考える。
■先人たちの世界
いま、ここに至るまでの先人たちの蓄積。
硬直した解釈よりも、多様な解釈の可能性に開かれるべき。
■彼らの世界
現在は、直接的な現前の世界から「彼らの世界」までグラデーションになっている。
同じ現在でも、より出会う頻度が少なかったり、関係性が薄かったり、より匿名的な人たち。
■同時代人の世界
自分が死ぬまでに一度も会うことのない、その意味でまったく匿名的な存在が生きている世界。
「彼らの世界」や「同時代人の世界」を理解しようとするとき、私たちは「類型的な知」を用いる。
■未来を生きるであろう人びとの世界
まだ生まれていない世代や、子ども世代。
「あたりまえ」の執拗さと恣意性
たとえば、大学生に、家で下宿人のようにふるまうように指示を出す。
出された食事を大げさにほめ、低姿勢でおかわりを要求する。
親は普段と違う子どもの様子に困惑し、具合でも悪いのかと心配するが、大学の課題なのだと説明すると、「そんなくだらないことやっているのか。さっさと食べなさい」と返す。そうして、ほんのわずかな間攪乱された食卓の「日常」が一気に回復し、家族の「あたりまえ」が維持されていく。
このように、何気ない食事の光景であっても、普段の学生自身のふるまい・親のふるまいなど、「あたりまえ」を維持するための方法的実践によってつくりあげられている。
強固になった「あたりまえ」は、つねに反復されていることが気づかれないほどに安定し、執拗な現実として私たちの「日常」を構成していくのである。 82p
一方で、「あたりまえ」を維持している秩序は、常にその意味が変容する可能性を持った恣意的な現象でもある。
私は新幹線通勤をしている。大抵朝は空いていて前後左右の席がガラガラなことも多い。同じ時間にいつも乗っている「乗客仲間」は、お互い距離をとって座っている。
ところが、時にそうでない乗客が乗ってくることがある。
あるとき、私が2Aに座っていたら、後から乗ってきた人が2Cに座ったのだ。ほかはガラガラなのにである。
自分のパーソナルスペースを害されたような気分になって、結局私の方が移動した。
その方は急いでいる雰囲気だったので、出口に近い席に適当に座ったのだろうと想像するが、「もう少し周りに配慮できないものか」と思ってしまった。
「新幹線車内では他人とはできるだけ距離をとって座る」というのが私にとっては「あたりまえ」だったが、それは少しも普遍的ではなく、その方にとっては「あたりまえ」ではない恣意的な現象だったといえるかもしれない。