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ハル・フォスターの「アート建築複合態」を読む。
建築の近代史を、本書を参考に門外漢的にざっくりまとめると、
1)土着建築の時代
2)モダニズム/国際主義の台頭(規格化と反装飾、土着性の喪失、越境的/建築のメディア化)
⇒ル・コルビュジェ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファンデルローエ、丹下健三……
3)ハイテク工学主義の活躍(機能主義と工学技術優位の形態決定、ポストモダン)
⇒ハイテク御三家:リチャード・ロジャース、ノーマンフォスター、レンゾ・ピアノらとそのフォロワー
4)視覚効果優位の時代
⇒DS+R、ザハ・ハディド、ヘルツォーク&ド・ムーロン、SANAA、伊藤豊雄……
となりそうだ(間違っているかもしれないけど……)。
本書では近年、建築とアート(特に抽象絵画と彫刻)との相互の乗り入れが活発になっていることが示される。CADの発達によって立体表現の制約がなくなり、工学的な技術発展がそれを後押しし、国際的に活躍する建築家の職能は完全に“アート”の領域に踏み出ししつつあるという。
ただ、そのせいもあってか東京オリンピックの騒動においては、神の目線から見たランドスケープ的な象徴性(つまり外形の新奇性)だけが議論の的となり、その場所における人間体験の企画は不思議と話題にのぼらなかったように記憶している。
ザハ・ハディドの初期のプランを森喜朗が「腐った牡蠣」と称したのがその象徴で、結局のところその形態の根拠や機能的側面、工学技術的な達成にはスポットが当たっていなかったのではないか(少なくとも、世間的には)。
本書によると、ザハ・ハディドはもともとロシア前衛アートに薫陶受けた抽象画をデジタル技術を用いて制作していたらしい(世界(89度))。過去の建築作品にも「正面から見ているのに、パースが歪んで見えるような形態をあえて採用したような建屋(ヴィトラ社の消防署 - http://gigazine.net/news/20071211_cool_fire_station/)」を作っていて、どうやら「視覚の実験」から物事を発想しているようなのだ。
おそらくザハ・ハディドが作りたかったのは、「パース図画上の特異性」でもって語られる建築史上のメルクマールであって、場の歴史性の継承や競技場としての体験/ユーザビリティではなかったように思えてしまう。だから結果的に隈研吾案でになってよかったのではないか……と、個人的には思ったりする(そもそも競技場を建て直す必要があるかどうかは別にして)。
ちょっと2000年代以降の「アート建築複合態」は、素人目には少々「新しすぎる」ようだ。メディア受けするような形態の捻じれを過剰に競い合う、不毛な市場に見えなくもない。
個人的には「2)モダニズム」と「3)ハイテク工学主義」のちょうど間、レンゾ・ピアノの職人的な遊び心が発揮された、機能主義に立脚する準ハイテク建築という方向性が好きだし、おそらくはこの方向性と土着的な素材の融合がいいのではないかなぁ、というぼんやりとした感想をもった。
まぁ、単純にレンゾ・ピアノについては、オフグリッドの住宅ユニット「Diogene - http://www.rpbw.com/project/97/diogene/」の構想と、自身の工房で工具が大量にかかった壁をバックに嬉しそうに微笑むその肖像(http://blogs.c.yimg.jp/…/mi…/folder/572060/57/34243457/img_0)がすごく格好いいなぁ、と思っているだけなのだが。
なんやかんやで結局は、皮相的な好みに終始してしまう世界なのかもしれない……
後半の現代アートの側に焦点を当てた章はものすごく難解で読みにくい。ただ、彫刻家リチャード・セラに著者はたいそう入れ込んでいて、アート側から建築に介入する作り手として重要であることは、ひしひしと感じられる。