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ずっと気になっていた「遠野物語」を
京極夏彦氏のremixバージョンで、やっと読むことができました。
現代仮名遣いなので大変読みやすかったです。
伝承という形態をとって綴られたこのモノガタリ集はあきらかに文学作品であるとともに、普通の物語とは違う。
たくさんの不思議な話があるなかで、中には現代科学で説明がつきそうなものもあったりする。
妖は現代で生きるのは難しいだろうなぁ。
そしてこの作品を読んでいて「百鬼夜行抄」が無性に読みたくなりました。
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遠野物語が現代語訳で読めるのは大変幸せなことだと思う。おまけに行間も京極氏の解釈によって大変わかりやすく補足されている。
言い伝えというものは何も遠野に限ったものではなく、全国各地に同様なものが存在っすると思うが、遠野という地域の歴史的な背景や地形的な特色も解説されていてわかりやすい。
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遠野を訪れる道中、予習の為に読みながら汽車に揺られた。京極夏彦さんということで、どんなおどろおどろしい文章が連なっているのかと構えていたら(偏見です)、思いの外シンプルで読みやすかった。
これを読んで、語り部のおばあちゃんの話も聞いて、地方の貧困が透けて見える話も多く、面白かった一方でやりきれない気持ちになった。
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「遠野物語」を読みやすく現代文にかみ砕きながら、装飾はほとんど行っていないので、原典の持つ素朴な「得体のしれないものを伝承する」という姿勢を感じ取ることができます。
怖がらせようという意図のある「伝承話」ではなく、あくまでただそう伝わっている、ということを伝えていこうとする話のかけらたちなので、物語の背後に統一された意図があるわけでも、意外性ある展開があるわけでもありません。
けれど、繰り返し描かれる「この世ならざるもの」がなにかの暗喩なのか、はたまたほんとうの異形なのか、などと想像を巡らせると、とらえどころのない不安やおののきを感じたりもするのでした。
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京極夏彦が遠野物語を現代語訳(と言うと少し大げさな気もするが)するだけでなく、序も含めて順番を大幅に入れ替えてまさにRemixしている。もとの遠野物語も佐々木鏡石の語りを柳田が語り直しているようなものなので二重の語り直しであると。
原典に沿って淡々と訳している箇所もあれば、怪異譚の性格が強いような章は、原典にはない心理描写を思い切って盛り込んで小説風になっている。京極の他の作品は読んだことないのだが、なるほどと思わせる独特の文体。
風邪で熱に軽くうなされつつ読むのにちょうど好適であったか。柳田はまさに同時代のことだと強調しているが、いくら田舎でも明治も終わりの時代にどこまでこれらの話が真剣に捉えられていたのだろう。やや受けをねらった作話が目立つように感じたが
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2019.09.26
柳田國男さんのお名前はよく耳にするので、一度は読んでみたいなあと思っていたところに、ようやく
京極さんなら読みやすくまとめてくれているだろう、と選んでみました
物語とありますが、一本のお話ではなく、聞いた地元話をまとめたもの、という…なんとなくわかっていましたけど、昔話で聞いたことあるような話もあれば、「…え? で??」みたいなものもあり、ちまちま小話がまとまっているだけなので、暇を見つけて読みやすいとみるか、途中で投げ出しやすいとみるか…
土地に根付いたはなしを直接まとめた、実話、というものに特別なこだわり、興味がない自分からしたら、半分くらいは退屈でした
読むために練り上げた物語ではないので、あったりまえですが
ちょっと古い日本文も読めないので、ラストの章と御本人の著はほぼすっとばし…
まあ、読んだことあるよ!という自己満足のために読んだ、みたいなところはありました(むしろなんで読もうと思ったのか…)
短いのに、読了までえっらいかかった…
でも、読めてよかったです
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昨日まで東北を旅行していました。最後の訪問地が遠野です。その前に遠野物語を読もうと思いました。
最初に手にしたのが青空文庫。しかしなかなか読みづらく。たどり着いたのがこの本でした。
原文を単に口語体に変換するだけでなく、本来なら注釈とすべき内容を本文内に上手く取り込むことによって、平易で読みやすくなっています。さらに説話の順番を入れ替えて括ることによって、頭に入りやすく工夫されています。
後ろには柳田さんの原文も付いています。入門編ともいうべき京極さんの文章を読んだ後にこちらを読むと、原文が削ぎ取られたような名文である事が良く判ります。
ところで実際に訪れた遠野。
卯子酉様とか五百羅漢、コンセイサマ、オシラサマなどちょっとディープな遠野も良かったのですが、良く晴れた晩秋の遠野は、盆地を取り囲む山々の針葉樹の緑と広葉樹の紅葉に彩られ、刈り取りの終わった田んぼのあちこちにたわわに実る柿のオレンジ。ちょっと冷たいけど清々しい風。それだけで「民話の里」という雰囲気にあふれていました。
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http://denki.txt-nifty.com/mitamond/2014/07/remix1-b737.html
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京極先生のお話を読んでいると時々登場する、柳田国男先生。前々から気になっていたので手に取ってみました。しかも、京極先生remix。
大枠で民俗学と言われてもなかなかイメージが掴みづらかったが、読んでみると所謂地元の「言い伝え」なのかな、と。一つ一つはとても短くちょっと不思議な出来事。特にまとめてあるわけでもなくただ伝承を書き連ね、そこには答えはないというスタイルがなんだかとても新鮮だった。
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背伸びして岩波文庫の原書から読まなくて良かった。これが率直な感想です。
今月末に遠野に旅行しようと思いたち、実は通読したことがなかった遠野物語に手を伸ばしました。
昔話といえば、遠野。そのくらい有名と思っていましたが、あまり読んだことがある人は多くないようです。
実際読んでみると、あれ?聞いたことがあるなと言う話がいくつも登場します。座敷童子の話、死んだ妻があの世で別の旦那さんを見つけている話。
人の皮をかぶった山姥の話なんかは、私が好きなマンガ、「うしおととら」そのままです。
明治時代に書かれながらも、こうした異郷の物語、異形の話の根底になっているのですね。アメリカではクトゥルフ神話という虚構神話が、ホラー小説のベースになることがあります。
不思議な話、怖い話は真実の是非を問わず伝染するものなのでしょうか。
冒頭で、「原書に手を出さなくて良かった」と書いたのは、私が読んだものが、2013年に出版された、京極夏彦さんの意訳だったからです。巻末に原書があり、その違いをくらべることができます。
柳田さんの文章だけだったら、今こうしてレビューを書いていなかったかもしれません。京極さんから入り、将来原文に当たるくらいのつもりで。
まずは自分にあった文章から読むのが一番です。
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日本民俗学の黎明を告げた名著「遠野物語」。
京極夏彦氏の手によりremixされて、初めて読了することができました。ありがとう。
次は併載された原典「遠野物語」との読み比べができればいい…のでしょう…が、根気のいる作業になりそう…。
100数十年前の人々の様子、考え方、信じていたものなどに触れるのはとても貴重な経験。中にはえ、嘘!と思うような話もあるが、それが当時の考え方なのだなぁと思いました。
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(抜粋)
彼の故郷は、遠野と謂う。
遠い、野と書く。
どこから遠いのか、どれだけ遠いのか、判らない。
いや、元はアイヌの言葉なのである。遠野のトーは湖という意味だそうだから、間違いなく当て字ではあるのだろう。
しかし「とおの」というその読みは、音だけでも一種の郷愁を聴く者の心中に沸き立ててくれるように思う。すぐ目の前にあるのに辿りつけない。見えているというのに手が届かない。そんな儚さ。それでも訪ねてみたくなる、追い求めてみたくなる想いを掻き立てる、そんな愛おしさ。能く覚えているというのにどこか朧げな、まるで幼いころの記憶のような、そんな懐かしさを纏った名であると思う。
いつか読んでみたいと思っていた、柳田國男の「遠野物語」。しかし、ググッてみると、柳田國男の原文は文語体なので途中で挫折することも多いとか。挫折するくらいなら、初めから分かりやすい現代語訳で読もうと見つけたのが、京極夏彦氏による「遠野物語 remix」。現代語訳しているだけでなく、元々の話の順番を入れ替えて読みやすくしている。また、巻末に原文も付いていて、そちらは殆ど読んでいないが、内容は原文に忠実なまま、奥ゆかしい雰囲気も損なわず、決して京極氏のものにしているわけではないが、より一層文学的で読者を引き込むような形になっていると感じた。
序文によると、「遠野物語」は柳田國男氏が、遠野の人である佐々木鏡石氏より明治42年頃から聞いた遠野の話を書き留めたものである。
勝手な解釈を加えたり、省略したりせず、佐々木氏の話を聞いた時に柳田氏が感じたままを、一人でも多くの人に伝えるために、誠実に記録されたものである。
だから文学ではない。文学ではないが、ただの記録でもない。
このレビューの冒頭に抜粋した文章にはかなり京極氏の手が入っているが、柳田氏が自分の表現を前に出さず、佐々木氏の「語り」を忠実に記録したこの「遠野物語」の中には文学の種が無数に散りばめられていると思う。そして柳田氏、佐々木氏の遠野への愛とその“文学の種“とを結実させたのが京極氏ではないかと思う。
河童伝説、天狗伝説、雪女のような髪の長い女性、謎の大男、座敷童、山姥、山神、マヨイガ、化狐、様々な神、臨死状態の人の霊、死者との再会、蜃気楼…。遠野でなくとも日本のあちこち、いや世界のあちこちに散らばる似たような伝説があるのかもしれない。が、それを本にまとめ、後世に伝えようと思った柳田氏と佐々木氏の熱意と愛が歴史に残る“作品“を作り、“遠野“をただの伝説の土地ではなく「物語の舞台」としたのだと思う。
私は「遠野物語」で誤解していたことがあった。
一つは「遠野」は山間の寂しい土地だと思っていたこと。
確かに周囲は険しい山に囲まれているが、かつては奥州貿易の要所でもあった、栄えた城下町でもあったということだ。そして、記憶の海に浮かんでいるような幻の土地ではなく、人々が今も(現実の今もそうだと思うが、柳田氏が記した明治も)暮らしを営んでいる所なのだ。
もう一つの誤解は、「遠野物語」はいわゆる昔話や怪談を集めたものだと思っていたことだ。
柳田氏によると「これは現在、そこで語られている、しかも事実として語られている物語ばかりなのである」とのこと。柳田氏に語った佐々木氏の父親の友人の話とか祖父の代の話もある。「現在」といっても明治のことなので今とは厳密には違うが、書かれた時点で既に過去のことを書いていた「今昔物語集」などとは性質が異なるということだ。現在進行形で不思議な物語のある遠野とはなんと魅力的な土地なのだろう。
また、いわゆる「怪談噺」とも異なると書いている。そういう志の卑しい虚妄のものとは異なると。
長く生きた人の話を聞いているとよく、妄想と現実が混ざっていると思うことがあるが、それを「事実ではない」と否定出来るほど、私は長く生きていないと思う。
また、自然の中には科学では解明出来ない不思議なことが沢山あるが、それを解明出来るほど人間は賢くないと思う。
また、人が代々住み着いた土地には怨念だとか執念だとか死者の残した思いだとか“この世“とは別の世界の人の霊がいるとかいないとかあるが、そういうのって“いる““いない“で割り切ることではなく“感じる“か“感じない“かかもしれない。残念ながら(?)私は感じない人だが。
怪談番組を見て、キャーキャー言ってる人間とそういう話を文学的な物に高めることが出来る人間との違いだと思う。
遠野行きたいなあ。