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古代の12氏族について、祀られる神社の実相に迫る中で、各々の氏族の本当に姿を明らかにする。論調はこれまでの関氏シリーズと変わりなし。
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古代氏族が祀っていた神社の本当の姿を解明しようとする一冊。
日本書紀・古事記などの記述を引用して、興味深い。
神話の時代との境が少し分かりにくいのは、読書の知識不足だと思いますが、一気読みは困難です。
時間を、置いて改めて読み直したいと思います。
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平安朝に至るまでの有名氏族について、その氏族の氏神となる神社の由緒などと結びつけて歴史の裏側を探る本。
平安以前の時代は資料が少なくていろいろ想像すると楽しいのですが、この本の内容もなかなか面白かったです。天皇を擁立してまとまっていく過程は色々複雑だったんだろうなあという思いが改めて強くなりました。
それぞれの氏族のルーツとしていろいろな神社に参拝してみるのも面白いかもしれないなあと思いました。
(以上、ブログ全文です。)
ブログはこちら。
http://blog.livedoor.jp/oda1979/archives/4797479.html
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神社とは祖先祭祀からスタートした国家神道の宗教施設、なのだが、そこで祭られている祭神は歴史上の敗者であることが多い。記紀の世界において各地の神社は一定の政治勢力として登場するが、その由緒や大和朝廷に従うことになった歴史的経緯などは余り語られず、極めて象徴的に、曖昧にしか描かれない。何故だろう、というモヤモヤした思いがずっとあって、この本を手に取ってみた。
物部氏、蘇我氏、尾張氏、秦氏・・・伊勢神宮や藤原氏を祭る春日大社を除けば、この本に登場するほぼ全てが敗者の神社である。歴史上の敗者であることは記紀に明確に書いてあるのだが、それらを祭る神社は奈良時代以降も社領を与えられ、地元民たちが大事に守ってきた。「敗者は祟る」という基本理解、そして、律令制の名の下で土地と人民を直接支配していた豪族たちの力を削ぎ、中央政府が派遣する官僚に置き換えようとした藤原政権の意図。筆者の歴史解釈はところどころで飛躍があるけれども、基本的なストーリーとしては納得がいった。
記紀の編纂にあたって、当時の権力者たちは「間違った歴史記述を正す」と宣言した。即ち、中国の正史のように、勝者の歴史観を打ち立て、それ以外の歴史解釈を許さないということだ。そうして、日本の古代史は神話の世界に押し込められた。だから、現代において歴史を理解しようとすれば、神話と史跡とかすかに残る民俗を手掛かりに、想像するしかない。この手の本を「筆者の想像にすぎない」と切り捨てる人もいるけど、記紀を鵜呑みにするよりよっぽど生産的ではないか。
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二年ほど前に、妻に誘われて「御朱印集め」を始めました。神社に参拝したときに、御朱印帳を持っていって「御朱印」を集めるだけですが、何個も集まってくるとさらに集めたくなりますね。それを母に言ったら、彼女が持っている六冊の御朱印帳を見せてくれて、思わず会話が弾みました。
さて、日本には素晴らしい神社が沢山ありますが、この本によれが、その神社の中には古代に栄えた氏族が祀られているのもあるようです。神社を通して古代史を解説してくれている、私にとっては興味満載の本でした。
以下は気になったポイントです。
・薬1500年にわたって日本人の生活の基準となってきたものは、古代中国の思想、哲学、宗教、倫理、であるがその根幹にあるものは、易、陰陽五行、および古代天文学、道教である(p12)
・問題は、天智系の反蘇我政権が、日本書紀の中で蘇我氏を大悪人に仕立て上げてしまったこと。ヤマト建国来の歴史を改ざんし、さらに神道そのものを改変してしまった。律令制度において、藤原氏は太政官を、中臣氏は神祇官を支配した(p29)
・石切剣や神社が東大阪市にあり、いまも変わらず大阪府民の信仰を集めている、この一帯は物部氏やその支族の居住地のひとつだった(p82、87)
・大宝律令(701)完成から9年後、物部氏最後の大物、左大臣石上麻呂は平城京遷都に際し、旧都の留守居を命じられた。これは新しい政権によって捨てられたことを意味し、物部氏は歴史の表舞台から退場した(p103)
・日本書紀編纂時の権力者は藤原不比等で、彼は中臣鎌足の子なのだから、日本書紀が蘇我氏を罵倒するのはあたりまえのことである(p105)
・奈良盆地の南部は、曽我系の豪族が多く住んだ場所である、入鹿神社以外にも、甲神社があり地元では「入鹿明神」と呼ばれている(p110)
・遷都に対して法隆寺は移築を命じられたが拒み、やむなく朝廷は新しく寺を建立した、これが奈良市内に建てられた「元興寺」である。明日香は蘇我氏全盛期の土地であった(p121)
・尾張は大切な場面で、二度抹殺されている、ひとつはヤマト建国において、もうひとつは、壬申の乱(672)においてである(p151)
・古代における大和神社(おおやまとじんじゃ)の存在感は大きい、持統6年(692)には、藤原宮を選ぶに際して、伊勢、住吉(すみのえ)、紀伊、うなたりの4社とともに、この神社が奉幣を受けている。神階も非常に高く、伊勢神宮に次ぐほどの地位であった(p177)
・中臣鎌足は、百済の王子、豊しょう、であろう(p213)
・平城京遷都は藤原不比等の悲願であった、奈良盆地の南部は藤原氏が権力を握る過程で、その踏み台にして捨ててきた旧豪族たちの本拠地であった、その代表が蘇我氏、阿倍氏等(p221)
・大神神社や石上神宮といった、ヤマト建国から続いているような神社の場合、正面に見える社殿は、拝殿であり長らく本殿を造ろうとしなかった、神が下りてくるのは本殿内に祀られた御神体ではなく、裏手の禁足地や御神体山である���信じられていたから(p258)
・全国の稲荷神社は、おもなものだけでも3万社もあり、やはり数の多い八幡系の神社(宇佐神宮)と合わせれば、全神社の過半数になる、どちらの成立にも秦氏(新羅系渡来人)が絡んでいる(p289)
2019年5月6日
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「神社が語る」と言っても、神社の謂われと古代氏族の正体との関係性を説いている訳ではなく、メインは古代氏族と天皇や乙巳の変などの歴史的事件との関わりを、筆者が推察しているもの。
聖徳太子は実在したのか、蘇我入鹿が太子一族を滅亡に追いやったのか、日本書紀が書くことを鵜呑みにして良いのか、天皇家はどうやって形成されてきたのか、卑弥呼は誰で邪馬台国はどこにあったのか等々、
歴史のおさらいになるし、こんな見方もあるのねと興味が湧く内容だった。
しかし、同じようなことがあちこちに書かれ、また氏族の歴史が章ごとに書かれているので、時間軸が行ったり来たり。図表や歴表等を用いてくれていれば、頭の整理にも繋がるのだが……