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数年前、ある大学の公開(市民)講座で"「江戸しぐさ」は提唱した人の、「こうだったらいいな」なんだよ"とは聞いていた。びっくりした半分、残念ながら、数時間の講座と頂いたレジュメだけでは理解できず、寝かせておいたのだけど、ありがとうございます。何か分かったような気がします。
読みながら、マナーとしては著者さんもまず冒頭で『現代人のマナーとしては実用的』(P3)と認めているのだから、なんとか怪しげな来歴を排して、伝えられないのか、いや、ありがたい(?)エピソード抜きで頭ごなしに偉そうにマナーを唱っても伝わらないよね、とか考えていた。でも、代わりになるものはいくらでもある、と御本の末にはある。
何にせよ、正式な科目になる道徳で取り上げられるものじゃないのだな、と言うところで。
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江戸しぐさという非実在のヨタ話。その荒唐無稽ぶり,創作と宣伝・拡散の経緯,現代社会に与える影響まで幅広く検証した良本。江戸しぐさにとどまらず,似た構造の他のオカルト物件や,今後も確実に出てくるであろう歴史の捏造にも言及して警鐘を鳴らす。
歴史修正主義には敏感なメディアもさほど関心を示さず,教育現場にも蔓延りつつあるのは本当に憂慮すべき事態。「すべてがデタラメというわけではない」「道徳的なマナーを説いてるんだから目くじら立てるな」という反論がどうしようもなく無効であることに,なぜみんな気づかないんだろうか…。21世紀の今も,民主主義っていかにも危うい基盤の上に成り立ってるんだな。
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「江戸しぐさ」と称されているものが、実際の江戸時代の風俗とは異なることを種々の史料から検証した労作。さらに「江戸しぐさ」の誤りのみならず、それを”創作”したり、広めたりした人たちの経歴に着目し、どのような背景で生まれたのか、そしてなぜ受け入れられているのかまで踏み込んで考察しており、今まで著者含めて断片的に語られていた「江戸しぐさ」批判の初めての体系的な著作と言える。
著者も挙げているとおり、完全に虚偽の産物である「江戸しぐさ」が受け入れられる背景として「道徳教育の教材としてならいい」「モラルが低下・崩壊しているのだから必要だ」というものがある。しかしそのような認識もまた怪しい。社会や若い世代などが”劣化”しているのだから、ということで虚偽が黙認されてきたというのもあるが、まずは「道徳的にいい話」それ自体の虚偽を虚心坦懐に見つめるためにも、本書は広く読まれるべきである。
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<目次>
はじめに 「江戸しぐさ」を読み解く三つの視点
第1章 「江戸しぐさ」を概観する
第2章 検証「江戸しぐさ」~パラレルワールドの 中の「江戸」
第3章 「江戸しぐさ」の展開~越川禮子と桐山勝
第4章 「江戸しぐさ」の誕生~創始者・芝三光と 反骨の生涯
第5章 オカルトとしての「江戸しぐさ」~偽史が 教育をむしばむ
第6章 「江戸しぐさ」教育を弾劾する~歴史教育 、そして歴史学の敗北
おわりに 「江戸しぐさ」は最後の歴史捏造ではない
<内容>
公共広告機構の「江戸しぐさ」のCMは覚えている。我が愛する"山口晃"氏の作品だったからだ。そして、「傘かしげ」や「肩ひき」などは何となく目にしてきた。「へぇ」くらいの認識であった。
しかし、この本の最初の部分で、「江戸しぐさ」の創始者、芝三光の本の内容が紹介されると、唖然とした。明治になって生粋の江戸っ子は薩長政府により弾圧され、多くは死に絶えた!?。そのために「江戸しぐさ」は廃れたと…。もうこの段階で「江戸しぐさ」が嘘っぱちであり、著者の言う「歴史捏造」であることがはっきりした。
さらに、著者の危惧していることに私も気がつかなかった口だった。教育の世界にしっかりとこの「江戸しぐさ」が入り込んでいる。それも「道徳」に…。自分の思った型にすべての国民を押し込めたい首相のお気に入りらしい。困ったものだ…、いやそれどころではない!
礼儀というか、思いやりの精神はどの国だからでなく、大事にしなくてはいけない。日本だから、古くからの教えだから、なんて関係ない。正しいものは正しいのだ。しかし、周りをよく見ろ!礼儀がなっていないのは、大人、それも首相あたりの年齢の連中やそれ以上の年の人たち。「年寄りだからいいでしょう」って感じの傍若無人振りが目につく。若いのはけっこうちゃんしてるよ。
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「江戸しぐさ」そのものがある程度歴史、というより江戸時代の風俗を知っていれば失笑ものだけに、「常識をくつがえされる」感覚を味わえないのがこの本の最大の欠点かもしれない。
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これは必読。歴史教育がファシズムに敗北してしまったが、狂人の戯言と笑い捨てていた俺にも責任の一端はある。耳が痛い。
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普段目にするものを無自覚に実在のものと思い込んではいないだろうか。もし、それが全くのでっち上げであっても、気づかない。
江戸しぐさ、この言葉を初めて見たのは東京メトロの広告だった。
傘かしげ、片引き、こぶし腰浮かせ、ふ~ん、こんなの江戸しぐさっていうんだ。へぇ。
という印象でおしまいだった。
この本を読み始めたときに筆者は徹底的に江戸しぐさを批判する。なにもそこまで批判しなくても、そんなに悪いことじゃないじゃん、と思って読み進めた。
読み進めるにつれ、江戸しぐさを広めようとする団体がオカルトだということが暴かれていく。
江戸しぐさを身に着けていた江戸っ子は明治政府に抹殺された、とか
その歴史は闇に葬り去られた、だとか
欧米化させたい明治政府の陰謀、なんてものとか
そこまでくると完全なオカルト団体であることは明白だ。
そして、江戸しぐさなんてものは江戸時代には存在せず、1980年代に作られた創始者の創作であることが証明していく。
現在、この江戸しぐさは道徳の教科書に載っていることを筆者は批判している。
なぜならそこには、江戸時代の日本人特有の行動思想があったという偽の歴史をもとに書かれているからだ。
この本から読み取るべきは、物事を素直に受け取るだけではない、疑ってみて自ら考えるということが必要だということだ。
道徳的には正しいもの。そして愛国主義民族主義に訴えるもの、そういった人の心の琴線に触れるものにオカルトが入りこむとだまされやすい。
人は自分が見たいものを見ようとする。物事は自分が見たいもののように見えてくる。
そういった見方を、ふと立ち止まって疑ってみることが、考えるということではないだろうか。
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「江戸しぐさ」なるものが、現実逃避型のでっちあげられた代物であることを、本書はきちんと論証・論破している。
さて、そんな歴史を改竄した偽物を、道徳教材として子供たちに教えている文部科学省は、いったいどう責任をとるつもりなんでしょ? まさか「ウソも何万回繰り返せば真実になる」式なんじゃないでしょうね。
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江戸しぐさ、という言葉を最近になって知った。そしてそれが眉唾物ではないか、ということも。東京の人にとっては江戸しぐさって当たり前のことなのだろうか?
「傘かしげ」や「拳浮かせ」のような表層的な行為ではなく、江戸しぐさとは「江戸商人の行動哲学」と定義されている、らしい。本書ではこの江戸しぐさなるものがどうして眉唾物と言えるのか、そしてなぜここまで広く普及していったのか、またなぜ江戸しぐさの普及が問題となるのかを、一つ一つ丁寧に暴いていく。
確かに、本書に説得力がやや欠けるのも事実だろう。たとえば
◼️p131-132 越川氏による江戸講の描写は、会員ではなく使用人の視点から見た英米のクラブにこそあてはまるといくわけである。越川氏に江戸講について教えたのは芝である。江戸講が芝の創作としても、そこに芝の体験が反映されていると考えることはおかしくはあるまい。つまり芝は、横須賀海軍施設におかれたアメリカ軍将校のためのクラブで使用人として働いていたと見るのが妥当だろう。
これ、ほんまか?結論までにちょっと飛躍がないだろうか?
まぁこういう若干の詰めの甘さはあるものの、全体として見れば説得力のある内容。結局、現状を否定したい人たちの手によって、ある意味で誰も否定も肯定もできないようなはるか昔の過去・歴史を捏造、理想化するという手法の問題点を指摘しているのが本書と言えるだろう。
◼️p194 フィクションを現実にあった事柄として教えるのは、結局虚偽である。虚偽に基づいて道徳が説けるものだろうか。教え子がその虚偽に気づいたなら、虚偽に支えられた道徳もまた軽んじられるのが落ちだろう。
そして本書が教えてくれるのは、歴史とは意外にも簡単にねじ曲げられ、またそれを多くの人が信じてしまい得るという、歴史の不確定性だ。歴史を語るとき、そのような視点を持っておくことも大切だと思う。
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江戸しぐさってご存知でしょうか?
ボクは不勉強で知らんかったんですが・・・
一部で流行っているようで・・・
いや、一部というか、何か文部科学省の道徳教材に載ってたり・・・
教科書出版社でも好意的に扱ってるんだって・・・
それから全国各地の教育委員会や商工会議所、自治体などで奨励されてたりするらしい・・・
江戸しぐさ・・・
漢字で書くと江戸思草・・・
仕草じゃなくて思草・・・
動作じゃないんだって・・・
「NPO法人江戸しぐさ」ってとこがあって、そこが普及を行っているんだけども、その団体によると・・・
これ、江戸商人の行動哲学なんだそうな・・・
人間関係を円滑にするための知恵なんだそうな・・・
共生の知恵なんだって・・・
で、この江戸しぐさ・・・
著者によると・・・
まったくのデタラメ・・・
歴史偽造だ、と・・・
江戸しぐさの代表的な3つのしぐさ・・・
傘かしげ、肩引き、こぶし腰浮かせ・・・
代表的なこれらも当時の江戸の実情を知ってる人からすると有り得ないこと、と・・・
他にも実際の江戸時代の風俗とかけ離れていたり、江戸時代においては使う意味がなかったり、使うと逆に不利益を被りそうなものばかり・・・
むしろその描写は、昭和以降の風俗と合致する、と・・・
江戸しぐさの作者は、江戸期の風俗をまともに調べて創作することをしてないんじゃない?と著者はバッサリ斬り捨てる・・・
で、その江戸しぐさの作者は・・・
源流を作った人は芝三光(しばみつあきら・故人。本名・小林和雄)で・・・
普及させていったのはその後継者(自称?)越川禮子と協力者の桐山勝で・・・
江戸しぐさの元ネタは芝が米軍でバイトしていた経緯を考えて、英米式のマナーじゃないか?と・・・
そして、江戸しぐさのユートピア的な「江戸」は芝の子供時代のノスタルジーに根ざした世界と考えるべき(一部90年代の風俗に起因するものもあるので、すべてが昭和ではないけど)、と著者は推測する・・・
ちなみに・・・
江戸しぐさの伝道者さまたちも自ら認めているところではあるのですが・・・
江戸しぐさは秘伝であり、書物化、文章化も禁止されており、口伝などで伝えられてきたため文献はない・・・
つ・ま・り証拠がないんですって・・・
でも、証拠がないのは元々文章化がダメな上に、維新の時に明治政府が江戸っ子狩りをし、結構な殺戮があったから・・・
しかもその殺戮自体を明治政府が隠匿したから、だって彼らは主張する・・・
証拠がないのを開き直り、証拠がないのを陰謀論で補強する・・・
なかなかの強引な手口です・・・
江戸っ子狩りなんて、やっぱり良く知っている方ならオカシイと気づいちゃうんだけれども・・・
しかし・・・
何でこんな眉唾モノの・・・
トンデモな・・・
江戸しぐさが、流行っちゃってるのか?
それはいくつか理由はあれど・・・
要は、江戸しぐさの「その内容が、現代人のモラルが低下していると思い込み、それ憂えている人たちに対して、まさにその欲求に応える耳当たりのイイ話として機能したのである」、これに尽きるんじゃないですかね・・・
特に上の年代の方にはウケがイイでしょうね・・・
そりゃ流行っちゃうかぁ・・・
江戸しぐさ知らなかったけど、こんなトンデモちゃんが道徳の教科書などに載ってきているなんて・・・
そっちの方が憂えちゃうよね・・・
怖い怖い・・・
気をつけないとね・・・
人は信じたいものを信じる・・・
よね・・・
自戒を込めて・・・
ササッとスグに読めますし、もしよければ是非・・・
オススメです・・・
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現代を否定するために過去を美化したところで、その思い込みは実際の史料に裏切られるのが落ちである(p.203)
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バカがいかにバカかには興味が薄くて、なぜバカかの方が知りたい。そして、もちろんバカはきっとこの本を読まない。江戸しぐさはつまらないと思うけど、このほんの方が面白いということはない。人生が終わった人には、江戸しぐさが圧倒的に面白いであろう。
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なんだか胡散臭いと思っていた江戸しぐさが、やっぱりなと言う感じです。
似非科学やねつ造、情報源が不明なもの、たくさんありますね。
本書で指摘されているように、こういうものがなんら批判もされず、教育に入っているのは恐ろしいことです。
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僕が「江戸しぐさ」とやらを知ったのは地下鉄の駅に掲示されていたポスターで、新しいパロディものかと、大して気にも留めなかった(地下鉄のマナー向上ポスターは、営団地下鉄時代から洒脱なものが多いので有名。)。
「江戸しぐさ」はいまや政府の肝いりで教育の現場にも入り込んでいるが、本書によれば「江戸しぐさ」なるものは一個人の想像の産物で、歴史的事実としては捏造にほかならないという。
「江戸しぐさ」の史料が残っていないのは幕末に江戸っ子大虐殺(!)と焚書があったからだ、と当の「江戸しぐさ」の承継者が無茶な説明をしているのだから、捏造であることは間違いないだろう。
著者は「江戸しぐさ」が人口に膾炙するプロセスからその内容一つ一つに至るまで徹底的に考察し、「江戸しぐさ」は偽史であると断定する。
さらに著者は「江戸しぐさ」が公教育の現場にまで取り入れられつつある惨状を手厳しく批判する。
道徳心の涵養という目的に資するのだからたとえ偽史でも構わないという「嘘も方便」論に対して、著者は、偽史を教育の場に持ち込むことは「歴史学の敗北」であると断言し、政府を含め偽史を偽史と知りながら持て囃す人々を弾劾する。
ところで、偽史や偽書を公の場で取り上げるのは論外としても、寺山修司が「実際に起こらなかったことも歴史のうちである」というように、偽史や偽書にはある種のロマンがあることは否定できない。
“ロマン”とは言い過ぎかもしれないが、自らの思いを偽史や偽書に託す人の心の暗闇はどういうものかを考えることは、興味をそそる。
著者は「江戸しぐさ」の考案者の人となりについても考察を加えているが、偽史と知りながら持て囃す人々に向けられるものと比べ、その筆致はどことなく同情的にみえる。
これは、東日流外三郡誌事件の“当事者”である著者(僕は著者を斉藤光政「偽書『東日流外三郡誌』事件」の登場人物として知っていた)が、偽書・偽史のロマンあるいは暗闇に魅せられたことのある人だからなのかもしれない。
蛇足。
「歴史学の敗北」を故意に見過ごす反知性なのか、偽史を偽史と見抜けない無能なのか、どちらにしても政府は「詰んでいる」。
さらに言うと、捏造された根拠に基いてキャンペーンが展開されたという構図は、近年の朝日新聞問題と同じである。
安部首相は朝日新聞を厳しく非難していたが、言論機関のキャンペーンの「意図」を政府が非難することはありえないから、政府の非難は「捏造」そのものに向けられていたことになる。
だとすれば、「江戸しぐさ」についても、非難には及ばないまでも、教育の場から排除してしかるべきであろう。
この意味でも、ダブルスタンダードの政府は「詰んでいる」。
もしかしたら、「江戸しぐさ」の中には、「方便仕草」(嘘も方便)というものもあるのだろうか。
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真実を求めるより、自分の思い込みを守る方を選んでしまった。
客観的に見て根拠がうすいことを正しいとする姿勢について、納得の一言。
見たいものしか見ない。