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番町皿屋敷を知らないものは日本人にはいまい。女中の菊が、足りない皿を数える声が、夜な夜な井戸から聞こえるというものだ。
しかしなぜ、を仔細に知る人はそう多くないのではないだろうか。
皿が足りないくらいで殺されて、恨みを持つようになったのはなぜ?
その問いかけに答えるよう、よく知られた結末に向かっての道筋を描くのが本作だ。
「数える」ことに対する個々人の主張を主として章立ては進む。
先を考えすぎてしまい、身動きができなくなってしまうから数えたくない器量よしの菊。
数えても数えても足りない気がする、青山播磨。
数え切れない米搗きの三平。
誉を数える十太夫。
際限ない欲深さの吉羅。
満ち溢れる遠山主膳。
そこに家宝の皿という要素が加わった瞬間に、全ての歯車は狂う。
途中まで、これがどう収斂するのかまったく読めない展開でわくわくしてました。
ページ数としてはいつものごとく分厚いのだけれど、出勤時間とかの合間合間に読んでも3日くらい。
むしろあっけなく終わってしまった印象すらあります。
仕掛けの部分に時間をかけて、畳むところは第三者の視点からの語りで終わらせているせいか、後味はややそっけないような。
とかく引っ掻き回すのは主膳という人物なのだけれど、彼は播磨が自分と同じでないことが許せない。羨望とも少し違う、播磨の中にある自制心や箍を壊させて、自分と同じところまで落としてやろうという気持ちだけで、引っ掻き回す。
最後の人死にはさながらシェイクスピアのハムレット、敵味方なく死ぬ。そのときの主膳と播磨はなぜか同じに見えた、と語る徳次郎。
個人的には、箍の外れた播磨は主膳も慄くようなばけものであってほしかったのだけれど。(家来を斬り捨てていった、というあたりがその描写かもしれないけれど)
吉羅を誰が斬ったのか、菊を誰が斬ったのかは本編では語られない。
播磨恋しさに縁談を妨げようと皿を隠した腰元の仙が主膳に斬られて以降、何故菊が斬られ吉羅が斬られたのかの子細は不明である。
吉羅を斬ったのが播磨であることは恐らく確かだが、なぜそうなるだろうか。
菊が皿を井戸に投げ入れたとして、吉羅は手打ちの罰を受けるべきだと叫ぶ。主膳が菊を斬り、播磨が吉羅を斬るだろうか。
播磨が菊を斬っていたら、と思うとぞっとする。
否、どちらが斬ったかはおそらく問題にはならないのだ。この時点ではすでに播磨と主膳は、同じものだったのだから。
よく知られた怪談をアレンジする京極氏の作品の中では、「嗤う伊右衛門」が一番の出来だったように思う。
よく出来た物語ではあるが、感情移入は難しい。
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皿屋敷にて
ちょうど北斎浮世絵展で、皿屋敷の絵を見てきた所だった。
少しユニークな顔の幽霊が印象的だ。
さてそんな誰もが知っている江戸怪談の一つ、「番町皿屋敷」。
お菊という腰元が青山家家宝である揃いの皿を割った咎でお手打ちとなる。
その後、それを恨みに思って遺体を投げ込まれ態度から化けてでて、「一枚、二枚、.....」と皿を数えてはすすり泣いている。
この怪談をもとに、京極夏彦が解釈し、著者なりの真相に迫った物語。
殿様である青山播磨は何かが欠けていると感じている。
そして菊も播磨と通じる何かを持っていた。
菊はあたしは愚図で鈍間で莫迦ですから、と自らを卑下するがそれは清すぎる心を持ったが故。
しかしそれが惨劇につながるのだから、清らかすぎると言うことは帰って汚れを招くのかもしれない。
私自身はこの菊に終始イライラさせられた。
なぜものを言わぬ、なぜ自らを貶める、なぜ!!!
しかしそれは現代的な考えなのかもしれない。
そして自分ができることが他人にできないこともある、あるいは自分ができないから苛立っていたのかもしれない。
その意味では嫉妬の気持ちが自尊心と絡まり合って悲劇へと向かった、吉羅に私自身はよく似ている。
それを強欲といってしまえばそれまでだが、充たされていることに気づけなかったという点ではかわいそうな女性である。
物語は数え、数えずを繰り返しながら進んでいく。
登場人物たちの心のうちが一章一章で丁寧に書かれている。
そのため、半ばで少し疲れてしまうこともあったが、物語りの後半、いよいよ惨劇に向かっていくという時は井戸から湧き出る暗さに飲み込まれていく。
すべてが終わったあとの静寂。
本当は誰もが恨んでなどいなかった。
足りぬものを探し続けただけ。
しかし、そうではない。
満ちてもいないし、欠けてもいない。
物語りの最後で語られる言葉こそ真実だった。
足りぬ足りぬと叫んでいる現代人。
私たちこそ皿屋敷の住人なのかもしれない。
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なかなか進展しないから途中で投げ出し、数ヶ月後に再びスタート。
数ヶ月空いたけど、読み始めると人物像を案外覚えている。筆者の描き方がうまいんだろう。
そして、後半からゆっくりした歯車が急速に回り出し、すべて壊れた。
ずっとゆっくり回り続けられたら、何も変わらずいられたかもしれないのに…
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数えるから、足りなくなる――。暗く冷たい井戸の端で、「菊」は何を見たのか。それは、はなかくも美しい、もうひとつの「皿屋敷」。怪談となった江戸の「事件」を独自の解釈で語り直す!
不器用さゆえか奉公先を幾度も追われた末、旗本青山家に雇われた美しい娘、菊。何かが欠けているような焦燥感に追われ続ける青山家当主、播磨。冷たく暗い井戸の縁で、彼らは凄惨な事件に巻き込まれる。以来、菊の亡霊は夜な夜な井戸より涌き出でて、一枚二枚と皿を数える。皿は必ず―欠けている。足りぬから。欠けているから。永遠に満たされぬから。無間地獄にとらわれた菊の哀しき真実を静謐な筆致で語り直す
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読むんじゃなかった。
言ってもしょうがないことを、くどくど言う。
考えてもしょうがないことを、くよくよ考える。
こちらまで、物語に取り込まれて、神経を病みそうだ。
読み始めた以上、最後まで読みたいと思うが、ぐじけそぅだ。
とりあえず、最後まで読んだけど。
かなり辛かった。
小説は、読む時期がある。
この本は、今じゃなかった。
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京極さんお得意のバッドエンドだなあと思った。
久々に700ページ超えの本を読んだのでもっと時間がかかるかと思ったが数日で読み終わった。
真相は全て井戸の中に落ちてしまったのかな。
でも、それでいいのだろうな。
関わる人間が集まって、崩れ始めてからは早かった。
このシリーズの中では嗤う伊右衛門が一番好きです。
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最後に何が起こったか、自分なりには描けたけれど。
菊が皿を数えるのは、何が起こったかわからないから、なのね。
しかし、菊の態度はイライラするわ。バカで阿呆で無自覚に傲慢で。
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まさに「耽読」というのが最適な一冊( ´ ▽ ` )ノ
強迫神経症とか鬱病とか発達障害とか、心に問題を抱えたキャラクターたちの心理描写がじつにみごと( ´ ▽ ` )ノ
読んでるうち、自分も彼らと一緒に闇の奥へと飲み込まれていきそうになる( ´ ▽ ` )ノ
映画版の「シャイニング」みたいだね( ´ ▽ ` )ノ
このシリーズ、どれもそうだけど、よくもまあ元の怪談をここまで窯変できるもんだと呆然( ´ ▽ ` )ノ
よくいわれるとおり、サマーこそ現代の戯作者だね( ´ ▽ ` )ノ
つぎはどんな怪談を語り直すんだろう?( ´ ▽ ` )ノ
牡丹燈籠? 猫又? 雪女? 玉藻前?( ´ ▽ ` )ノ
楽しみだね( ´ ▽ ` )ノ
2018/08/08
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何時ものように物語が中々進まないし同じようなことを延々と書いてる。
でも退屈にもならずページを捲る手が止まらない。
特に終盤から急に物語が動き出して結末も何とも物悲しい。
全て京極作品の特徴で好きなものには(僕だが)中毒になる。
僕の生涯最高作品は『嗤う伊右衛門』だがそれに比べると些か物足りなさを感じるがそれでも読み応えは抜群。
とても700ページもあるのかと思うほど一気に読めてしまう作品。
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京極さんもお久しぶり。最近読書熱が高いので、久しぶりにレンガも読める気がして借りた。
大好きな「嗤う伊右衛門」と同じ怪談シリーズ。伊右衛門のように、一章ごとに視点が変わるんだけど、登場人物がすごく多くて、半分くらいまでこれはうまく繋がるのか…?と読み進めたけどさすがに綺麗にまとまった。
登場人物が多いけど、その人たち全てを「数」と絡めてるところ、それぞれの諦観や執着しているところが全然違うのにどこかしら共感できて面白かった。厚さの割にサラリと読める。
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番町皿屋敷とも呼ばれる、青山家の家宝を巡る愛憎劇。
皿の表と裏、底知れぬ昏き井戸、満たされずに欠けている人々。
真相は井戸の底。
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再読了だと思いますが、初回のようなおもしろさ。出会ってはならぬ人が出会ってはならぬ場所であい見えてしまった結果という、哀しい悲しい物語。結末は最初からわかっているのだけれども。
了巷説百物語を読み始めて読みたくなって再読したのでした。