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パトリック・モディアノの小説に触れるのはこれで2作目ですが、この小説を読んで以前読んだポール・オースターの「ガラスの街」という小説の醸し出す空気を思い出しました。
舞台となるのはパリで実際の地名や街の様子が描かれており、以前に長年住んだ身としては実感を持てるのですが、この作品世界の中ではどこか空虚な、顔の見えない街、夢の中の情景のような感覚を覚えます。
印象に残った一節があります。「標ない漠々たる空き地のようにときおりみえるこの人生で、すべての消失線と失われた地平線の真ん中で、人はなんからかの目印(point de repere)を見出したいと希う。ある種の土地台帳を作成したい、と。行き当たりばったりに舵を切っているのだという印象をもう持たないですむように。そこで僕らはつながりを織り結び、危うい出会いをもっと堅固なものにしようとする。」
カフェが、登場人物達にとっての目印、そこに集まる人々にとっての中立地帯として描かれているのが、強く印象に残ります。実際、通りすがりの人々や、その界隈に一時期居住する人々の止り木のような役目を果たしているのが、パリのカフェだと思うのです。
その中立地帯にいる間は何者でもない。そんな時間を後で振り返るときに、人はその場所に永遠に還ることができるできるような気がします。
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語り手が変わる構成は面白く、その切り替わりに法則がなく、想像を裏切る。終わり方はさして重要ではないのかもしれないが、主人公の死で終わるのはやや唐突で、安直に感じる。?な死で終わることは、フランス映画でよくあることではあるが。
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あとがきで翻訳者も述べているが、ポール・オースターが好きな人はモディアノ作品を間違いなく好きになるだろう。
パトリック・モディアノ、何ともいえないこの読後感…癖になりそうです。
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『それ以来、彼女が本を持っていないことはなかった。テーブルの目立つ位置におき、アダモフたちと一緒にいる時、まるでその本はパスポートか、彼女が彼らの側にいることを正当化する滞在許可証のひとつのようだった。でもだれも注意しなかった。アダモフもバビレもターザンもラ・ウーパも。その本はポケット版、表紙の汚れた、セーヌ河畔で買う古本のようで、タイトルは大きな赤い字で刷られていた:『失われた地平線』。当時の僕には、ぴんと来なかった』
パトリック・モディアノを「地平線」に続いてもう一冊。ああ、やはりこれがモディアノの文体なのだなと確認する。断片的というには少し冗長で、パリの通りの名前などが妙に詳細でありながら主人公(達)の語る話はどこか捉えどころがなく、常に「現在」と「過去」の間を意識は行き来しながら、失われたものへの哀惜を語るともなく漂わせる。かと言って、物語として捉えるには散らばり過ぎる言葉の指し示すもの達の連なり。足元は一見しっかりとしているようだが、その歩みは漂うようで、かつ、何処へ向かっているのか行く先は仄暗い影の中。見上げれば現在地を示す案内表示に溢れているというのに。この不思議な違和感。アンビバレンツ。思わず、そんな単語が口を衝いて出る。
連作短篇集のようなこの一冊は、同じ舞台に登場する人物たちの思い出を、各々の視点で問わず語りで語る「私」が何人も語り手となっている。それは輪舞(ロンド)のようでもあり、遁走曲(フーガ)のようでもある。あるいは走馬燈の影絵を眺めているような印象(次々に影絵は手渡されるように移り変わっていくけれど、それは同じ所を何時までも周っているだけなのだ)があり、夏の夜の儚さに似た惜別の思いに耽ける主人公たちを浮かび上がらせる。そしてその動きにつられて読み進めさせる力が、本書には確かにある。訳者によれば、ここに並ぶのはモディアノが従前に用いた様式のアンサンブルのようなものであるらしい。とすればモディアノに詳しくない読者にとっては親切なつくりの一冊とも言える。
この一冊には、訳者による長文の論考が付いており(本全体の1/4程の頁数)、モディアノに対する訳者の熱量がこれでもかと伝わってくる。曰く、何故、これ程日本人に受けそうな作家が今一つ流行らないのか、と。確かに、例えば、寡作ながら同じくフランスの作家であるフィリップ・フォレストも日本人の気風に合うような寡黙な主人公が禅問答のように繰り返す「喪失」の物語を書き、その新作が平積みされるような作家であるのに比べて、作家としてのキャリアも長く作品数も多いモディアノは書店でも余り目立たないような気がする。そして、単にフランスの作家という共通項以外にも、二人には「喪失感」が小説の底流にあることも共通しているし、どこかいわゆる「私小説風」な作風も似ている、というのに。訳者は、モディアノと同世代の作家であるポール・オースターと村上春樹との対比をしているが、確かにオースターの繰り出す謎めいた雰囲気はモディアノにもあると思う。けれど、オースターが、正にそういう謎解きを丁寧に物語に仕上げているのに対して、モディアノは謎を謎のままに残しておくという違いもあるようにも思える(この一冊では、一つ大きな謎……という程でもなく、察しのいい読者ならそうだろうなと予想できる謎ではあるけれど……が、最後に明かされる展開が待っているが)。謎解き風であるということは、つまり、それなりに娯楽小説的要素もあるということ。
『「リアリティがないところが面白い」という、ある種の《転倒》を起こしている点…ひとつには、モディアノの主人公たちは過去と、《亡霊たち》と向き合い語り合う、ある種の《オルフェ》であるにとどまらず、いわばそのプロセスを通じ彼ら自身も《墓の向こう側》の住人、「幽霊たち」、少なくともそのうつせみ(現身)の分身と化してしまうようなところがいつもある……。』―『パトリックモディアノと『失われた時のカフェで』の世界』
翻訳者、平中悠一のモディアノの小説を日本語化する試みには大いに敬意を表するところではあるけれど、やはりモディアノには彼の文体を汲み取って自然な日本語に移し替えることのできる翻訳者が必要であるような気がする。平中が日本語に移し替える損ねている訳ではないけれど、頻出するフランス語の単語のカタカタ表記(例えば、カルティエ(行政区画)は何故、界隈、と翻訳しないのか。それは日本語の界隈に染みついたニュアンスを嫌ってのことなのかも知れないが、カルティエ、でなければそのパリの地域性を喚起できない(と訳者が言っている訳ではないが)というのも少し高慢な視点であるような気もする)が読書の歩みを戸惑わせる。そもそもパリに行ったことが無かったとしても、モディアノが書いていることの本質は翻訳され得る筈だし、翻訳の過程で落ちてしまう(あるいはフランス文化に馴染みのない人にとっては無意味な)表象があったとしても、それが翻訳の宿命のようなものではないだろうか。所詮言葉の持つシニフィエなんて分かりっこない。シニフィアンに拘っても仕方ない。なんて本の内容とは関係ないことをちょっとだけ語りたくなったのも、また事実。もちろん、モディアノが記す具体的な詳細から喚起されるものを多く持っている読者がいることも充分理解した上で言ってはいるのだけれど。
そんなことを言いつつ、それはそれで読書体験としては楽しいことではあると、解ってはいるのだけれど。自分もパリには一度だけ、それも仕事で行ったことがあったりする。昼間はオフィスに缶詰となっていたので、結果として主人公たち同様、朝早くと夕方遅くから夜が深くなる前の、それでも暗い時間帯に街中を無作為に歩き回った。なので当然この本を読みながら、その時の街角や入り組んだ道路の印象が、主人公たちのそぞろ歩きの通りの名前と共に何度も蘇った。因みに滞在したのはシャンゼリゼ通りに近い8区のホテル。知っている名前が出てくれば当然イメージも広がる。繰り返すけれど、それはそれで読書体験としては楽しいことではあると、解ってはいるのだけれど。