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あらゆる思想はそれが「主義」に淫する時、論理が現実から遊離して自壊する。いかに高潔な理想に導かれたものであってもだ。反発はあるだろうが敢えて言おう。ケルゼンの純粋法学が学としての純粋性を守ろうとして現実との接点を見失ったように、その民主主義論も価値相対主義の呪縛に飲み込まれた。
民主主義にせよ自由主義にせよ、決して「それ自体として」価値があるのではない。当然ながらそこにはプラスとマイナスがあり、現実の状況次第でいつでも反対物に転化する。本書でケルゼンは民主主義の「それ自体としての」価値を極限まで追求した。一言で言えばそれは自己決定ということだ。
もちろんケルゼンはシュミットのように「代表」概念を媒介として治者と被治者の同一性をアクロバティックに仮構したりはしない。本書はそのようなシュミットの形而上学への批判として書かれたものだ。ケルゼンは現実の政治において完全な自己決定などあり得ないことを理解していた。だからこそ政党政治を評価し、妥協を模索するプロセスの中で、自己決定からの乖離を最小化しようとした。その限りで彼は現実を見据えていた。
ただ自己決定そのものを疑うことだけは決してなかった。それは価値相対主義への強固な信念から来る。価値に絶対的な基準がないからこそ自らが価値を選択すべきであると。この場合自己決定という決定のプロセスが全てであり、決定内容の是非を問う超越的な視点は持ち得ない。それはシュミット以上に決断主義的である。その論理的帰結として民主主義が民主主義の名のもとに自らを否定することも許容する。良く言えば知的誠実さの表れだが、厳しく言えば学者の自己陶酔に過ぎない。国民の拍手喝采のもとに政権の座についたヒトラーがワイマール憲法を事実上停止したのが1933年、「民主主義の擁護」が書かれた翌年というのはなんとも皮肉である。しかしケルゼンは戦後本書を改訂しなかった。
価値相対主義を基礎にしたケルゼンの法理論や政治哲学にイデオロギー批判の意義があることは認めよう。日本では訳者の長尾龍一氏がその観点からケルゼンの延命を図った第一人者である。しかしそれは批判すべきイデオロギーとの現実の対抗関係の中で、どれだけ実践的な意味を持つかによって真価が問われる。イデオロギーが相対的なものであるように、イデオロギー批判も相対的であることを免れない。
公平を期すために付言しておくが、政治「哲学」としてではなく、政治「社会学」として本書を読めば、現代の政治状況に照らしても貴重な示唆が含まれることは確かだ。例えば比例代表制による小党分立は決して弊害なのではなく、小異を捨てて大同につく妥協を促すものとしてむしろ利点であるとケルゼンは説く。どこかの国で現実を無視した周回遅れの二大政党制を煽った政治学者に聞かせてやりたいものだ。