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おーばあちゃんっていうのは、小学校一年生のチイちゃんのひいばあちゃんのことだ。
おばあちゃんのうちのはなれに住んでいて、ときおりおばあちゃんと一緒にチイちゃんのところに来たり、チイちゃんが遊びに行ったりもする。
チイちゃんはおーばあちゃんが大好きだ。ちいさくてほそくてしわしわで、すきとおった淡いひとみ。もうこの世のガツガツした生活や欲望から遠く、淡い夢の世界、いうなればピュアなイデアに近い世界に生きるひと。あるいは、「この世」の外側に近い場所。
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子供、年寄り。
まだ「あちら側」から来て日が浅く、この世に定着して間もない者、まもなく「あちら側」へ召されようとするもの。死後未生のその境界に接している者たち。
あるいは、いわゆる「女、子供、年寄り」というカテゴリは、一般にこの社会の中枢、中心機能の「周辺」、外側に近いところに位置付けられている。
更に言えば、ここではおかあさんやおばあちゃんはチイちゃんにとっての「社会」、現実の日常生活、社会の側にいる。対して、「おーばあちゃん」がその外側、この世界のマトリックスの不可思議な混沌への繋がりを担当する役柄を担っているのだ。
その繋がりの手だては、物語。
時折チイちゃんにお話ししてくれる、記憶の中の思い出話。あるいはおとぎ話。日々を、日常の出来事を、不思議や喜びや美しいもので満たすためのファンタジイに満ちたイデアの側を語る物語。
…これは、おーばあちゃんがチイちゃんに語ってくれた小さなお話が8章集められた短編集である。こみねゆらさんの繊細で美しい絵が物語世界を美しく彩る。
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第一章「赤い鳥と青い鳥」という始まりと第八章「金色のトカゲ」の結びがきれいに対応している構成上の美しさも深い読後の余韻を生む要素である。感銘を受ける見事なうつくしさだ。
赤い鳥と青い鳥。チイちゃんがよぼよぼしわしわとして弱々しいおーばあちゃんに「年取ってるってかわいそう」と言ったとき、それを否定するために語ってくれた、おーばあちゃんが小さな女の子だった頃の思い出の中の不思議なお話。
広場で一緒に遊んでいた友達とはぐれたとき見つけた、長い柵にとまっていたきれいな赤い鳥と青い鳥、捕まえられそうで捕まえられなくて、ぴょんぴょんと交互に逃げてゆく二羽をどんどん追いかけてゆく。その果てに、二羽が同時に飛び立ち、赤い鳥と青い鳥が紫の靄に変わってきらきらとあたりを包み込んだとき、変容した世界が現れる。
そしてそこにはひどく年取ったお婆さんが、…今のおーばあちゃんが、小さな女の子だった自分をにこにこと迎えたという。
「よくここまできたこと。いつかまたいらっしゃいね。鳥をおいかけてずうっときたみたいに、少しずつ。ずうっとずうっといらっしゃいね、きっとよ。」
と、小さな女の子だったおーばあちゃんに言ったのだという。
自分がおばあさんになったときの未来を見たという子供の頃の未来幻視の不思議な記憶のお話なのだ。���生のはじまりのときに、そのゴールまでの時間が、象徴的なフィールドで描かれているお話。
赤い鳥、青い鳥は、人生のさまざまな場面でそのときそのとき追いかける、さまざまの目的、美しいもののかたちのメタファ。そして、ひたすら追いかけた末、それらがそれらとしての具体性を失い、雲散霧消したようにみえた人生の終わりのとき、けれどそれは具体性としての赤と青の鳥のかたちを失った果てに、違う姿、赤でもなく青でもなく、けれどその両方の属性を失うことなく紫の靄というアウフヘーベンされた姿できらきらと美しく、幸福に主体を包み込む。
ーーそこに今たどり着いた、今のこのおーばあちゃんの姿にたどり着いたのだというのだ。
長い人生、そのひとつの物語の不思議な美しい風景が、ただ目の前の時間、目の前の赤い鳥と青い鳥を夢中で追いかけて長い長い柵(時間)を駆けてきたその長い人生、それを成し遂げて赤と青、それらすべてを得た紫の靄の輝く美しい約束の地、目的の地にたどり着いた充足のことを彼女は語っているのだ。
その地は、世界のすべてを、己の人生の輝き、広い広い果て無い広場(世界の無限)のすべてを感じながらひとすじの慎ましい自分の時間(うつくしい赤い鳥と青い鳥の明滅するひとすじの長い柵。)をまっとうした先の完璧な場所、過去のすべてがトータルにインテグレードされた特異なフィールド。
ーーーそれから、おーばあちゃんは、きらきら目をかがやかせながら、
「ほおら、ちゃあんとこうしてついたんだもの、だから、ちっともかわいそうなんかじゃないの、とってもうれしいのよ」
っていったのよ。ーーー
そうだ、それがこの上なく美しい全肯定された世界であることを、今まで生きてきた世界と自分とがすべて肯定される美と喜びの満足で満たされた場所であることを感じ、無事そこを人生の最終フィールドとしてたどり着いた自分の年月を、老いた形をも含めて祝福されたものとして彼女は喜ぶのだ。
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この物語構成は、宮澤賢治の「マグノリアの木」という小品を思い起こさせる。
賢治のお話の方は、諒安という主人公が、じめじめとした霧の中、苦難に満ちた道のりを修業として上り続けるというものであるが、彼が頂上にたどり着いたときに、すべての今までの道のりが美しいマグノリアによって祝福され、光り輝いていたのを発見するというストーリーになっている。
ひたすら目の前のことに夢中になって無心に歩んできた道のり。ゴール、目的地についたとき、ふりかえると、その歩んできた道のりこそが輝き、価値そのものであり、目的地をトータルな形で輝かしいものにしているいう意味あいをもつ物語構成だ。
「マグノリアの木」はこちらに全文が掲載されているので参考に。
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2章から7章にかけても、チイちゃんの日常やおーばあちゃんの記憶の中の物語が魔法やファンタジーを交えて楽しく語られる。現実なのか夢なのか分からなくなってくるような、子供の頃の魔法や夢に満ちた豊かな世界が現実にまじりこんでくるような、不思議な味わいの物語。おもちゃたちの会話、空き家のもつ���ァンタジー、お人形たちの生き生きと活躍するお話。
そうして、結びの短い第8章が、おーばあちゃんのお話の魅力の秘密をかたるお話「金色のトカゲ」である。
さて、この前の7章のお話では、夢や不思議を打ち壊す現実、という冷ややかな種明かし的な展開がある。(小さなときの夢を果たしてポルトガルのお屋敷で老後を過ごしているはずのおーばあちゃんの友達のその葉書の景色が、別荘地の老人向け介護マンションの部屋の風景であることの暗示)
だが、このラストではそれでも夢の方を信じよう、「信じる」ことの真実、換言すれば、現実と真実は違うのではないか、という命題が浮き上がってきている。
その命題が、最終章にきれいなかたちで語られ、おさめられているのだ。
現実と真実、お話の力、物語の力、想像の力のこと。
…さて、最終章「金色のトカゲ」である。
おーばあちゃんのこころのなかにある思い出のおうち。思い出を管理する門番が金色のトカゲだ。
「むかしのことを思い出すときは、この門番さんにおねがいするの。(中略)思い出のほこりをはらって、いたんだところをなおしてくれたあと、あちらこちらにきれいな色をぬってくれるの、ここはクレヨンで…ここは絵具で…って考えてね。それからわたしにとどけてくれるんだよ。だからね、どの思い出も、まるでさっきあったことみたいに、つやつやしてるんだよ。」
「わたしは、(中略)思い出のお話、ほんとうは違っていて、金色のトカゲがあんなふうにしてくれたことだったのかなあって。」
「だからね、じっさいには、もっとくすんでいたのかもしれないの。…だけどもね、…そう、だけどもね、金色のトカゲは、ほんとうのほんとうは、こうだったんだって色を、ちゃあんとしってて、その色をぬってとどけてくれるんだって、わたしは思ってるのよ。」
「ほんとう」がくすんで色あせた「現実」であったとしても、そのもっともっと深いところにある「ほんとうのほんとう」はきらきらした「真実」の色で彩られているのだ、という…まるでイデア論のような「思想」「信念」「哲学」なのだ。
「おとうさんとおかあさんが、こっちにむかってわらいながら歩いてきた。そのとき、とつぜん、ぱっとわたしは思った。わたしがずうっとずうっと大きくなって、おとうさんとお母さんのことを思い出すとしたら、おこってるときの顔じゃなく、今、見えてるみたいなふたりの顔を思い出すだろうなあって。ときどきこわい顔をしておこるのも、ちゃんとほんとうのことだとしても。」
「チイちゃん」もまた、己の行き着くべき未来の場所をここで幻視する。1章での小さな女の子だったおーばあちゃんの物語の時間がここにきれいに重なってゆく。
目の前のひとつひとつの具体的な小さな現実たちをやがて凌駕するべき大きな真実を選び取る。自らそのフィールドを創造する力。心の奥底にそのような力に満ちた大きな暖かな場所があれば、外側でどんな嵐が吹き荒れているように見えるときも、いつでもそれはどこかで自分の人生を支えてくれる心のセーフティネットとなっていてくれる。
これがおーばあちゃんからチイちゃんに受け渡された物語の力だ。
幼いころ夢に見たようなポルトガルでの暮らしを、現実の老人介護マンションの部屋の中に重ね、その想像力の中で「幸せを感ずる力」をくみ取る手法、方便とすることができるとするならば。
人形やおもちゃたちの王国やドラマを想像することで、日々が輝き、それらを大切にし美しく価値づけることができるようになるならば。
世界はふわりとふくらみ、豊穣な輝きを帯びる。心は何か現実のかたちに壊滅的に壊されたりとらわれ過ぎることなく、どこかに解放空間を保持することができる。そこに対抗する心の力を生み出す祝福され肯定された、誰にも侵されるいことのない輝きの力に満ちた超越フィールド。
「真実」は心の中のきらきらした光、既にかたちを失ったその輝きのエッセンスにのみ存在する。そこでは、かたちとしての現実は既に心を落胆させたり振り回すような力を持たない、解放されたフィールドを心の中にもっていること。嘘や本当、というかたちはそこでは意味を持たないということ。
大人が読んでも、子供が読んでも深く残る絵本というのはあるものだ。これもその中の一冊であると私は思う。
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小学1年生のチイちゃんにひいおばあちゃんがしてくれる不思議なような優しいおはなし。
一歩ずつ年を重ねて現在にたどりついたおーばあちゃんのふりかえる思い出は、ほんとかどうかわからないくらいきらきらしている。
美化っていうのともちがう。
実際より鮮やかかもしれないけれど、でもやっぱりきらきらしてたんだと思うよって言える現在もやっぱりきらきらしてる。
水色のおもちゃぶくろがかわいい。
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自分の内側にたくさんの世界を持っているのね。
たくさんの世界を育みながら、長い時を生きてこられたのね。
それを語って聞かせられるって素敵だな。
そんなおーばあちゃんがいるのは本当に素敵なことですね。
おーばあちゃん。つまりひいばあちゃんなんですが、それにしては子供の頃の趣味や生活が若い。
友達のおうちで着せ替え人形で遊ぶ、それって結構新しい文化じゃないでしょうか。
物語に出てくるひいばあちゃんの年齢も、もう私の時代のひいばあちゃんの年齢ではなくなっているのかもしれないな。
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おーばあちゃんとは小学校1年生のチイちゃんのひいおばあちゃんのこと。
おーばあちゃんはチイちゃんにきらきらしたお話しをたくさんしてくれる。チイちゃんもきらきらする。
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【図書館】私もチイちゃんぐらいの年に〈おーばあちゃん〉がいたら、ちょっと不思議で何だかきらきらするお話を聞いてわくわくできたのかな?と思いました。高楼方子さんの作品、いいですね。
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あーかわいい。
女の子もかわいいけど、なんといっても、おーばあちゃんがかわいい。こんなおばあちゃんになりたいなぁ。
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小学校一年生の「チイちゃん」は、ひいおばあさんこと、「おーばあちゃん」が大好き。
なぜなら、彼女のお話には、おかあさんやおばあさんのそれ以上に、その景色がよく見えるから。
久々の、高楼方子さんの作品は、小学校低学年から対象となっているが、果たして、私が小一の頃に読んでいたら、何を感じたのだろうか?
正直に書くと想像したくない。あまりにも、ありふれたメディアの情報だけを受け入れていた記憶があるので、「こうした物の見方もあるんだよ」ということに、気付かなかったのではないかと思うのです(そもそも、自意識に目覚めていないから、やむを得ないという思いもあるが、それならば、なぜ対象を低学年からとしているのか? これを読んで、いまいち分からないと感じた、小学生の皆さん。いつかその景色がきらきらする時まで、大切に取っておくことを、おすすめします)。
本書は、八つの短篇で構成されており、それぞれに、おーばあちゃんのお話がひとつ入っているのだが、どれも一筋縄ではいかない、深みと味わいがあるような気がして、いつも理解できた感じのチイちゃんは、もしかしたら、天才なのではないかと思う。
まあ普段は、玩具をお片付けしなかったり、おーばあちゃんの靴を隠したり(理由は分かりますよね)、してるんだけど、それでも、おーばあちゃんとは、とても馬が合うようで、友だち感覚になれる親しみやすさを感じ、本書を読んでると、年齢を重ねる度に子どもに還っていくというのは、本当なのかもしれないなんて、思えてきます。
「赤い鳥と青い鳥」
人参をぶら下げられるよりは、こういう発想の方が励みになりそう。
「緑のさかな」
若い内から、こうした素敵な秘密があることを知っている方が、人生は楽しいのかもしれない。というより、私にもあったな。もしかしたら、子供同士で、勝手に謎にしているだけかもしれないけれど、それをあれこれ想像するのが、また楽しかった。
「ほとりのおうち」
おばけのおうちが、明るく楽しいものへと変わる、子供の想像力は、おうちの気持ちも巻き込んでいき、最後はみんな笑顔に。
「妖精のぼうし」
女の子同士の友情の素晴らしさを教えてくれた。
『ふたりでいっしょにあそぶんじゃないと、いろんなもの、ほんとうみたいにならないと思って』
「茶色のかわぐつ」
まさか、靴を片方なくしたことが、こんな素敵な結末に変わるとは思わず、しかも、そこにはある古い童謡集が関わっていたことに、また驚き。
おーばあちゃんの魔法効果です。
「おかっぱちゃんと王子さま」
またしても、おーばあちゃんのかけた魔法が、コミカルでファニーな面白さに変わる、物語の妙たるや。
「トコちゃんのけしき」
おーばあちゃんとチイちゃん、それぞれのやさしさが垣間見えたが、それ以上に、おーばあちゃんのお話の、夢のある風景がこと細かく思い浮かぶ、その情感に、思いが惹き付けられたような気もした。
「金色のトカゲ」
思い出のおうちの、素敵な発想力は、おーばあちゃんの��話の、景色がよく見える理由を教えてくれた。
また、これらのお話のそこかしこに見える、きらきらしたものは、「ルチアさん」に通じるものもあり、それは、やはり高楼さんだからこそ見えている、共通したものがあるのだろうなと思い、こうした見えないものが見える特性には、児童作家になるべくしてなった、意義のようなものを感じさせられます。
そして、私が、いつもの図書館で本書を選んだのは、表紙の「こみねゆら」さんの、ファンシーさの中に、ノスタルジーや素朴さも感じられる、味のある絵柄に惹き付けられたからでして、高楼さんは、作品によって、絵描きさんのチョイスが絶妙ですよね。
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「小学校1年生のチイちゃんには、「おーばあちゃん」ってよんでいるひいおばあさんがいます。チイちゃんはおーばあちゃんのことが大好き。おーばあちゃんは小さくて、しわくちゃで、目が緑色の湖みたいに透きとおっていて・・・・・・チイちゃんは、「おーばあちゃんって、魔法使いかもしれない」って思っています。だって、おーばあちゃんのしてくれるお話は、どれもちょっとふしぎで、なんだかきらきらしている気がするんです。」