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膨大な印刷物を読み、その中から朝日新聞の読者に紹介したいものを選んで紹介し、そこに自分の意見を織り交ぜて書いている。
最初は単なる評論家なんだな、としか読めなかったが、読み進みに従い、作者の思考の深さに引き込まれる。
紹介されていた本をできる限り読んでみたいと思った。
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高橋さんの本を読むならば他にベターな本がいくつもあります。新聞の論壇評論のコラムを集めたもので、それは、たぶん、高橋さんが書こうと誰が書こうと、評論の評論という形になり、それが読む快感となるし、ある種の免罪符として機能する面もある。
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朝日新聞「論壇時評」のまとめ。紙面上では、毎回源一郎さん自身が被写体になった写真が掲載されていますが、本の中にはありませんでした。写真は毎回どこで撮影していたのか気になっていましたが。背景は様々だったので。取り上げるテーマはそのときを反映したニュースを発端とした内容になっています。自分の言葉を駆使して、自分でその背景を自由に考えて表現してみることに億劫になってはいけないと思わせる内容でした。
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エッセイのようにわかりやすく、平易な言葉で書かれているにも関わらず、読むのに非常に時間がかかり、疲れた。いちいち考えさせられるからである。数多くの出典から、筆者なりに感じたことが書かれている。それ以上は書かれていないのだが、自然と読者は「で、あなたはどう考える?どう行動する?」と問われる。その問いに対する答えは読者によって異なるはずで、私自身としても、筆者に共感できる部分、できない部分、よくわからない部分と様々であった。そしてその異なるということこそが、民主主義の真の姿であると思う。
それにしても出典の幅広さには驚いた。論壇誌から通販雑誌、個人が作成しているフリーペーパー、ラップの歌詞、ツイッターのつぶやきに至るまで、どうすればそこにたどり着き、筆者自身の解釈を加えることができるんだろう。とにかくすごいと思った。
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著者は詩人であり、最も言葉を大切にする人の一人だとボクは思っている。そして本書もぼくらを裏切らない。世の中、特にネットの中では、言葉の定義すら満足にされないような文章に満ち溢れていて、とても気分が悪くなるけれど、本書を読むと、ああまだ大丈夫なのかなあ、という安心感を得ることができる。それだけでも本書を読む価値があると思う。
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朝日新聞「論壇時評」に、2011年4月から2015年3月まで掲載されたコラム。様々な人の論が引かれ、著者の問題意識の高さと広さを感じる。意識するからこそ情報に触れ、触発されるような拡大のスパイラルは見習いたい。
15-167
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朝日新聞で連載している論壇時評の書籍化。
ものごとを見たり考えたり読んだりするときに、いろいろな「視点」を忘れずにいたいなと思う。
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朝日新聞「論壇時評」に2011年4月から2015年3月まで掲載された連載記事が収められた本。震災と原発、心身障害児とその親、生活保護不正受給、従軍慰安婦問題、ヘイトスピーチ、イスラム国…あらゆるトピックが取り上げられています。
引用も多いためとにかくたくさんの文献やウェブサイト、動画サイトの画像が紹介されていて、興味を持った話題をより深く知ることができそうです。
内田樹さんの『日本の反知性主義』から
「バルトによれば、無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることができなくなった状態を言う」
という部分を引用し、
「逆にいうなら、『知性』とは、未知のものを受け入れることが可能である状態のことだ。」 - P248
と述べる部分があります。
このことはこの本の中でことばを変えて何度も語られています。
自分には知らないことがたくさんあることを自覚し、自分の意見と違うからといって他者の意見を切り捨てず、常に謙虚に他者の思いや考えをよく聞くことが大事だという筆者のメッセージがとても強く感じられました。
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この本はいろいろな視点を提供してくれ、
考えるきっかけとなるという意味で、
とても興味深く読めた。
恥ずかしながら、知らなかったことも
多くあった。
ちなみにほんの2、3年前の話なのに、
今読むと、また状況が変わっていることも多い。
変化のスピードが上がっている気がする。
いま向かっている方向とか世の中の空気というか、
それが良いのかどうかはわからない。
ただ、一人ひとりが自分で考えて、
自分の言葉で発言をしていくことが
大事なんじゃないかと思う。
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「民主主義ってなんだ!」「民主主義ってこれだ!」とSEALDsがシュプレヒコールしたからでもないのだろうが、改めて民主主義という言葉が注目されている。国会が民主主義を拒否している場面が多すぎるからだけでなく、実際現代が戦後民主主義の危機だから、なのだろう。
高橋は東日本大震災の直後からたまたま朝日新聞紙上で論壇時評を始める。今年の3月までの文章を集めた。
震災、原発、特定秘密保護法、若者の就活、ヘイトスピーチ、従軍慰安婦、などをテーマにしながら、言及するのは評論家の文章だけにとどまらず、マンガ、映画、ウェブから多く採る。その方法は正しいと思う。今さら、評論誌で世論が出来上がっていると思っている人々はほとんどいないだろう(しかし、単純意見を求めようとしていることが民主主義の破壊に手を貸していることも、人々は気づかなくてはならない)。
閑話休題。私は、在特会のレポートを書いた「ネットと愛国」(安田浩一)で指摘されている「彼らの大半は、頼りなげでおとなしい、普通の今時の青年だった」というのに注目した。「彼らは「奪われた」という感覚を共有している。仕事や未来や財産をだ。誰が奪ったのか。それは特権を持っている(らしい)「在日」や、なぜか優遇されている(らしい)「外国人」や、権力を握っている(らしい)メディアや労働組合だ。彼らは「奪われた」ものを取り返すための「レジスタンス」をしている、と信じている。」安田浩一のこの指摘は的を得ていると思う。そしてれが「一般社会でも広がっている」という指摘は、私もうーんと頷かざるを得ない。しかし、高橋は「ほんとにそうなのだろうか」と反論する。ただ、その根拠は各々述べているが、明確ではない。(77p)
「衆議院選挙東京第25区の候補者に会って質問できるか、やってみた」という動画を高橋は泣きながら見る。1人の無名の青年の試みを自分で撮影してYouTubeにUPしたものらしい。私も感動した。(119p)
2014年3月18日、台湾立法院で行われた学生たちの立てこもりの一部始終の記録番組を見て、高橋はこのように感想を記す。
「民意」をどうやってはかればいいのか。(略)学生たちがわたしたちに教えてくれたのは、「民主主義とは、意見が通らなかった少数派が、それでも「ありがとう」ということのできるシステム」だという考え方だった。(196p)
その暮れの自民党が圧勝した衆議院選挙で、「選ぶ人も党もない」と言って棄権した森達也に共感しながらも、高橋はしりあがり寿の「とりあえず、選ぶ候補者には全く自信がないけど、「民主主義を諦めてないぞ」ってことだけで投票にいく。投票先は民主主義だ。クソ民主主義にバカの一票」という行動と共にする。私には、彼らがそこまで悩むのが不思議でならない。彼らと同じように自民党独裁を防がなくてはならないという共通認識はあるのだから、棄権は自民党を利するだけというのは分かり切っている。悩む暇はない。自民党と正反対の投票行動をすれば済む話なのではないか。しかし、私は古いタイプの人間なのかもしれない。私の周りの若者も「この一票はバカだ」ということで棄権した。流されて投票する人よ���はよっぽどいいが、しかし私はそれこそバカだと思う。バカ一票を投じるべきだと思うのである。ここに高橋と彼に共感する若者と、私との剥離がある。
2015年09月5日読了
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国家と国民は同じ声を持つ必要はないし、そんな義務もない。誰でも「国民」である前に「人間なのだ。そして「人間」はみんな違う考えを持っている。同じ考えを持つものしか「国民」になれない国は「ロボットの国」(ロボットに失礼だが)だけだ―というのが、ぼくにとっての「ふつう」の感覚だ。(p.89)
いま、この国では、相手を攻撃することばが飛び交っている。宮崎駿は、過去に遡って告発することばを抑えこみ、肯定的なことばを発することを選んだ。
美と技術の結晶である零戦は、世界とこの国を焼き尽くした。だが、それは戦後復興を支える技術の基礎にもなった。戦争の被害者は、同時に加害者でもあった。善きものと悪しきものを区別することはできないのである。それはいまも変わらない。そのことを知って、なお、前向きに生きていくこと。そう映画は告げているようだった。(p.145)
「戦後」という時代は、「戦争の体験」を持つ人たちが作り出した。だとするなら、その後に来るのは、受け売りの「戦争の体験」ではなく、自分の、かけがえのない「平和の体験」を持つ人たちが作る時代であるべきだ、という考え方に、ぼくは共感する。(p.152)
「読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても。国と国との関係においても」
以来、わたしは、彼女が書くもの、彼女の語ることばを、探すようになった。彼女とは、美智子皇后である。(p.159)
ソンタグはこんなことをいっている。「自分が大切にしている諸権利やさまざまな価値の相克に、私は取り憑かれている。たとえば、ときとして、真実を語っても正義の増大にはつながらないということ。ときとして、正義の増大が真実の相当部分を押さえ込む結果になるかもしれない、ということ。(pp.216-7)
同時代の誰よりも鋭く、考え抜かれた意見の持ち主であったにもかかわらず、スーザン・ソンタグは、「意見」を持つことに慎重だった。
「意見というものの困った点は、私たちはそれに固着しがちだという点である……何ごとであれ、そこにはつねに、それ以上のことがある。どんな出来事でも、ほかにも出来事がある」
そこにはつねに、それ以上のことがある。目に見えるそれ、とりあえずの知識で知っているそれ。それ以上のことが、そこにはある。そのことを覚えておきたい。なにか「意見」があるとしても。(p.235)
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朝日新聞を購読しているので、ほとんどの記事が記憶にあった。
難しくてわかりにくいものもあるけど、どれも本当に大事なことが書かれていることはわかる。でもこうしてまとめて読むのもいいものだ。
特に2013年夏から年末にかけての文章に印象的なものが多かったかな。
P217 それがどのような正義であれ、「おれは間違っていない」というやつは疑った方がいい。(略)だが、正しくなければ愛せないのだろうか。ソンタグにとって、祖国アメリカは「正しさ」と「不正」の入り混じった存在だった。その、矛盾する、等身大のアメリカをこそ彼女は愛した。
こういうの、いいなあと思う。
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民主主義は、最終的には多数決だけど、ちゃんと他の意見にも耳を傾けることなんだよな。今の自民党はそうじゃないよな。
立憲主義もよく理解していないようだし。
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とてもとても大切なことが満載です。
自分で考えるって、実はとても難しい。メディア、周囲の人たち、私が信頼できると思っている研究者、批評家などなどの考えを知り、なるほど!と思う。でも、それって自分の頭で考えられているということになるのかな。いろいろ思い悩むけれど、自分の考えではないのかもしれないけれど、考えることのできる人の主張や意見を読んで、信頼に足ると思うものを見つけていくだけでもまずはいいのではないかと。
高橋源一郎さんのような謙虚で、柔らかで、でも強靭な思考力を少しでも手に入れたい。少しでも、「見えないもの」を「見える」努力をしていきたい。ここでははっとさせられたものを引用しておこうと思う。
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「人間は考える葦である」
を 改めて 思った
その場に立ち止まって ん? をしてみたい
車に乗る生活が当たり前になってしまうと
気になることを見かけても
車を停めて、降りて
ちょっと そこに足をとめて
立ち止まって考えてみる
そんな「仕組み」と
遠ざかってしまう
常日頃 できれば
「歩く速度」で考える生活でありたい
「本」を読むこと は
立ち止まって「考える」
でもある
こんな今(2015.9.17)だからこそ
じっくり考えたい
わたしたちは まだ間に合う
そうありたいために
今こそ 考えたい