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筆者の主張はよく理解した。日本がここまで発展してきた理由、日本人が英語を苦手とする理由、英語化が進むことで考えられうる事態、確かに、って思う。
でも、誰かは英語を勉強しなくちゃいけない。英語を使える日本人がゼロでは困る。
英語教育と日本文化への意識の荒廃は結びつかない。
愚民化は言い過ぎ。面白い本だけど少々極端。
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やや感情論に流されている感もあるが、著者の主張は納得できることも多い。
一冊選ぶなら「英語の害毒」のほうがおすすめ。
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外国語教育政策が財界をはじめ、グローバリストの都合を最優先に作られているのは確かだろう。しかし本書の議論には誤謬や誤解、論理の飛躍があまりに多い。また引用されている文献についても、著者に都合のよいように解釈が歪められているところが散見される。誤った言語観・言語教育観を読者に植え付けかねないトンデモ本である。著者と出版社、また帯にコメントを寄せた識者の良心と見識を疑わざるを得ない。
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英語偏重教育への警鐘をならす一冊。
英語を学びたい人が一生懸命学ぶのも、必要に迫られた人が英語を習得することも、よいことだと思います。
ただ上から「幼少期から英語を学べ」と押しつけてくるのは、この本の著者と同様違和感を覚えるし、疑問も覚えます。
せっかく日本には母国語で高等教育を受ける環境が整い、世界中のマニアックな本まで日本語に翻訳されて図書館や書店に並ぶという恵まれた状況があるのに、なぜそれを壊してしまうようなことを政府は進めたがるのでしょうか。
本で指摘されているように、それは「商売」のためなのでしょう。
しかし一部の人が利益を上げるために、子供にとって重要な「教育」を利用するというのはやめてほしいです。
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他言語を学ぶことはその国の文化を知ること。だからと言って自国の文化や言葉を失っては元も子もない。
「英語化」の前にまずは母語で深く思考すること。そして「政治や経済を論じることば」は、日常の言葉に「翻訳」されなければならないのではないかと痛切に思う。
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英会話や英語学習を否定するものではなく、官庁や大学の受験や業務・授業の英語化、さらにそれに備えた低学年からの英語化学習ラッシュ(英語学習ではない)に警鐘を鳴らす。それは日本人の知性・感性の発達に膨大な負担を与え、長い目で見れば、国際競争力の向上どころか平均的に劣化をもたらすというもの。企業経営者・為政者・教育者には必読の書だと思う。森政稔氏「迷走する民主主義」を読んで、なぜ今のエリートはこんな簡単なことに気づかないんだろうと思わされること多々。その理由はここにもw 巻末「おわりに」だけでも読んでみて!
それにしても、金融危機の国にイチイチ救済条件に英語化を強要するなんて、IMFは胡散臭すぎ…
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近年の英語化、グローバル化に抱いていた違和感の正体が少しわかった気がする。確かに単純労働や介護とか、アジアの人呼んで低賃金で働かせたり、何でもかんでも欧米に迎合するのは違うと思う。ナショナリストではないけど、農産物とか、もっと自国のものを消費するようにしたい。
<メモ>
・福沢の元でも学んだ自由民権運動家・馬場辰猪(たつい)が森有礼の「英語公用語化論」に対しての批判
1)英語学習には大変な時間がかかり、若者の時間の浪費につながりかねない。学ぶことの多い若者の時間が無駄に費やされる。
2)英語を公用語化すれば、国の重要問題を論じることができるのが、一握りの特急階級に限られる。
3)社会を分断し、格差を固定化する。
4)国民の一体感が失われる(例:インド)
・国立大学文系学部の統廃合(国立大学改革プラン)、国家戦略特区構想(解雇規制緩和、外国人労働者の受け入れ)に見られる独断決定
・新自由主義者が打ち出す政策の3つの柱
1)開放経済…貿易や投資、人の移動を国境などの垣根を低くして自由化すべき
2)規制緩和…政府による経済活動への規制は最小限に抑えるべき
3)小さな政府…政府は財政規律を守り、公営企業は民営化してスリム化せよ
→各国政府は国際競争力をつけるという名目のために、自国の国民一般の声よりもグローバルな投資家や企業の声を重視して経済政策を推し進める(法人税の引き下げ、規制緩和や民営化、労働者の権利の削減、福祉や公共事業の削減)
・グローバル人材=外需を奪いに行ける人材
・貧しい国の人々が先進国に移動し、先進国の人々が従事したがらない職種を担う労働者として働きやすい状況を作る
・フィリプソンが『言語帝国主義ー英語支配と英語教育』
で指摘している誤りの信条
→英語は英語で教えるのが最も良い
→理想的な英語教師は母語話者である
・津田幸男『英語支配と言葉の平等ー英語が世界標準語でいいのか?』2006
→英語による文化支配、序列構造の形成
・加藤周一「日本文化の雑種性」『加藤周一セレクション5-現代日本の文化と社会』所収
→日本文化は外来の知を受容し、それを既存の土着文化とミックスすることで作られてきた。
・オルテガ『大衆の反逆』
→民主主義社会を破壊するのは文化や伝統とのつながりを自覚しない愚かな大衆
・クリストファー・ラッシュ『エリートの反逆』
→グローバル化の進んだ現代社会では、民主主義社会の基盤を損なうのはエリート層
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名著。
日本人が苦労して築き上げてきた母国語で高度な学問を学べる環境を放棄してはならない。
新自由主義者どもの悪だくみに触れている点も素晴らしい。
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翻訳と土着化なくして、国の発展なし。英語公用語化反対論の書籍の中でも説得力が群を抜いている。新自由主義の主張(国の歴史や文化はどうでもいい)には加担したくないな。英語ができる人にはなりたいけど、妙な優越感に浸った排他的な人間にはなりたくない。
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自分は幸いにも語学学習が苦ではなく、英語、フランス語、ロシア語、タイ語、朝鮮語の学習はほとんど趣味の領域である。だからこそ日本語にとりわけ強い拘りがある。小学校からの英語教育には断じて反対である。そんな時間があるのなら日本語の小説や詩でも自由に読ませた方がよっぽど有益だ。その意味で著者の主張には全面的に賛成である。
ただ自説の正当性を主張したいがために、極論を前提とした反論が目立つのが残念である。政府や経済界はバイリンガルの育成を目指しているのであって、日本人が日本語を話さない環境整備を志向しているのではない(と信じたい)。そう言う極端な前提が無自覚に置かれていると、せっかくの正論が途端に怪しげになってしまうから注意が必要である。
また、問題の本質も見誤っているように思える。近年英語教育への要請がとりわけ高まってきたのは、一部エリートの陰謀だけではなく、英語圏から流入する、或いは英語圏に日本から発信する情報量が、翻訳と土着化のキャパシティを超え始めているからである。
今後日本が採るべき政策は、ネイティブと同じレベルで外国語能力を発揮できる翻訳専門人材と、日本語しか理解できないけれども各界で世界的な業績を残せる専門家を分けて育成する事である。中途半端に英語が出来る人材を量産しても国力の増進には全く寄与しない。残念ながら外国語の習得能力には個人差が大きいのである。そこは棲み分けが必要だ。
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いわゆる地域語を超越した普遍語(ラテン語)の蔓延は社会の中世化、二極分化の加速という観点は首肯できるし、現代の英語をラテン語に準える点も同様。しかし、表音・表意文字の混在した日本語の読み書きの語としての長所は書かれない。機能面の長所を挙げないとただのイデオロギー論に堕しかねない。また旧軍じゃあるまいし、情報獲得ツールとしての英語の価値は無視できないはず。加え、大学教授が英語講義をできない問題、留学生の低レベル化を等閑視するのは自己保身のそしりを免れまい(気持ちは判るが、正面切って言うのはどうなんだろう)。
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文科省がSGU(スーパーグローバル大学)を支援する制度を始めたらしい。ネットで検索すると一流と言われる大学や、そうでなくても国際化に力を入れている大学などが今後10年にわたり数十億円規模の補助金を受けて、グローバルな人材を輩出するためのカリキュラムを組む。
へえ〜、いい制度なんじゃないの? 学生の皆さん頑張ってね〜、と思っていたけど、どうも問題があるようだ。
そもそもが内需の拡大が期待できない日本の閉塞状況を打開するために、その活路を海外に求めるところから始まっているので、グローバルビジネスに必要な人材を育成するというのが主眼になっている。しかし、そんな政策はいろんな国で取っているから、世界と競争になる。そんな競争に勝つための人材を財界は欲している。即戦力と言うやつだ。そう考えたときに日本人にとってネックとなるのは英語力。だから英語力をつけて世界と互角に戦いましょう!というのが狙いのようだ。
そのためには英語に慣れることが第一。英語での交渉力をつけるには大学の講義もすべて英語でしてしまいましょう。そうすれば手っ取り早く語学力も交渉力もつくよね、と政府は言いたいらしい。しかも英語での講義が増えれば増えるほど良い大学との評価になるので、大学の全講義の50%くらいは国際化のために英語化(オールイングリッシュ)しましょうと言っている。
そんな狙いに著者は、待ったをかける。そんなことをしたら日本語を母国語としている日本人の良さが消されてしまうよ、だって言葉って文化の根幹じゃないか!と主張する。
なぜ成熟した母国語を持ちながら、これからその高度な活用によって様々な学問を吸収しなければいけない学生時代に、わざわざ英語の習得に限った勉強をしなければいけないのだ!と怒っている。
しかもどんなに頑張っても英語を母国語とする英米豪なんかにかなうわけないじゃん!なんで相手の土俵で相撲とるのさ!と戦略のまずさを指摘している。(自分なりの噛み砕いた表現なので、著者がこんな言葉を使っているわけではありません)
なんか大人げない、と思う人もいるかもしれないが、本書を読めば納得しきり。例えば…と書きだすと途方もない分量になりそうなので書かないけど、確かに英語だけ出来る英語バカが増えるかもしれないと思う。(とか言う自分は英語すらできないただのバカ)
ちゃんと断っておくと、著者は語学の習得に関して否を唱えているわけではない。母国語をないがしろにしてまでやろうとしているこのSGU支援制度を見直せと言っているに過ぎない。
とりあえず講義のずべてを英語化(オールイングリッシュ)にするとかはやめといたほうがいいと思う。
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ぜひ読んでください!としかいえない気がします。
『このままではインド版アントニ・ガウディは永遠に生まれない。専門教育が英語でしか提供されない環境では、他人のコピーしか作り出せない』
『他方、英語を公用語の一つに加え、日本よりも英語が堪能な人々が数多くいるフィリピンなどのアジア諸国、あるいはケニアなどのアフリカ諸国は、さほどの経済力を備えていない』
『英語化が日本人の愚民化を招くと半ばわかっていながら、エリートたちは、日本の社会の英語化に躍起になっている。本書の批判は、英語が得意な人々へのものではなく、国民の知的成長の機会を奪い、国力を低下させようとする人々に向けたものである。』
そして、もっと日本語に接してやさしくなりたいとも思いました。
『海外の日本語研究者や日本語教師、あるいは日本語学習者の間では以前から、「日本語を学ぶと、性格が穏和になる」「人との接し方が柔らかくなる」ということが指摘されていたそうだ。』
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内容ですが
はじめに――英語化は誰も望まない未来を連れてくる
第1章 日本を覆う「英語化」政策
第2章 グローバル化・英語化は歴史の必然なのか
第3章 「翻訳」と「土着化」がつくった近代日本
第4章 グローバル化・英語化は民主的なのか
第5章 英語偏重教育の黒幕、新自由主義者たちの思惑
第6章 英語化が破壊するに呑んの良さと強み
第7章 今後の日本の国づくりと世界秩序構想
おわりに――「エリートの反逆」の時代に
でした。
納得できるお話が論理的にまとめられていました。
まず、ヨーロッパで歴史的にあった事実ですが、ラテン語が書く民族の言葉に土着化し、中世から近代へと時代が転換したこと。
それと一番重要なことは江戸から明治にかけての大変革期、先人が西洋文明・文化を見事日本社会に土着化・翻訳したことが近代日本・現代日本の隆盛につながっているということ。またもっとさかのぼれば、日本列島に入ってきた外来のことをうまく日本化してきたというすばらしい歴史的伝統があるのです。
それらを踏みにじる安易な英語化の裏に何があるのか、それは歴然としています。新自由主義者の魂胆なのです。
グローバル化・ボーダレス化・英語化・・・
マジック・ワードに騙されてはいけません(笑)。
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日本の公用語を英語やフランス語に変えるべきという意見は、明治期以降これまで幾度となく議論されたが、世論を得られず実現しなかった。しかし、新自由主義の考え方が一般的になった昨今は事情が異なる。新自由主義が一因となって進行する「グローバル化」は、「時代の流れ」という認識(歴史法則主義)のもと、各国の経済政策は、自国の状況に合わせた政策を打つ自由度を失い「拘束」される。結局、外国資本の比率が高くなった経済界の論理が絶対視されるのである。下(現場)からの反発があっても、意思決定のスピードが優先され、多様な意見に耳を傾ける民主的意思決定のプロセスが切り捨てられてしまう。
このような中で進められる英語の公用語化は、自由民主主義を破壊し、国民の知的成長の機会を奪い、結果的に国力が退化させるというのが、本書の批判の肝である。その主な理由は、次のとおりである。
・民主主義の前提条件となる国民の連帯意識を奪う。
・連帯意識がなくなると福祉政策が成り立たない。
・日常の言葉(母語)で政治を論じることが大切。
・言語の分断(英語能力の有無)が格差を生み出す。
・職業選択の自由を奪う。
・自分たちの潜在能力を発揮できるに至らない。
・英語を身につけるための莫大な時間と労力。
土着語で学ぶことが社会全体の活性化を促した重要な前例として、宗教改革がある。贖宥状の販売に代表されるようなカトリックへの批判を強め、1517年にマルティン・ルターが、ヴィッテンベルク市の教会・城内に「95ヵ条の論題」を張り付けたことが始まりとされる。しかし、宗教改革では、聖書をラテン語から土着語に翻訳したことも重要だ。ルターはドイツ語に、ティンダルは英語に、オリヴェタン(カルヴァンの従兄弟)はフランス語に翻訳した。こうして、当時の「ラテン語という『国際語』『文化語』『学術語』『書物の言語』に対してひたすらコンプレックスを持ち続けていた人々」が、自分たちも、日頃使って暮らしているごく身近な言語を通して、最高度の道徳や知識に触れ、活動することができるという自信を獲得した。これが近代化への原動力になったのだ(pp.46-66)。
英語偏重の教育改革提案は、児童・生徒の将来の幸福や日本の長期的な安定や発展、日本の学術文化の興隆といった観点からではない。「新自由主義的」な経済の論理から発しているのである。しかし、英語偏重の教育改革は結局、世界の「英語支配の序列構造」の中で、日本が非常に不利な立場(搾取される植民地のような立場)に置かれるのは必至であるというのが、著者の主張である(p.218)。