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教育を英語化すると知識層と庶民の格差が拡大し、文化的長所も失われるという主張はわかるが、あとはその繰り返しがひたすら続く。
経済的影響を論じるあたりから怪しくなって、グローバル化否定、自由主義経済否定とトンデモ本の様相を呈す。
日本語力を高めることは大事だが、やはりグローバルに活躍するには英語力を身に着けるしかなく、その潮流を止めることはできないだろう。日本の英語教育が機能していないことを論じその対策を考えてほしかった。
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水村美苗さんの『日本語が亡びる時』を参考図書の一つに挙げ、英語化がいかに危険なものであるかを説明する。
かつてラテン語が普遍語であった時、ヨーロッパ世界において庶民はそれに接することができず、知は特権階級の独占物であった。それを翻訳し、各地の土着語へ変換することで庶民も知に浴することが出来、新たなる思想も草莽の間から生まれるようになった。
現在の日本で進む英語教育の推進は、その逆へ行くことになる。せっかく明治時代の先人たちが西洋の知識を苦労して日本語に翻訳したのに、我々が英語化を進めてしまえばその翻訳語が無駄になってしまう。日本人が日本人らしく日本語でものを考えられるように過去の先人たちが努力してくれたからこそ、我々はわざわざ一度英語を頭の中で介在させることなく、抽象的な概念、高度な知識を即座に思考できるようになったのだから。
また、英語化を推し進めれば外国語が得意な人とそうでない人との間に分断が生まれ、それは政治的な連帯をも危うくする。更に、英語能力により職業の幅が狭まれば更に格差が拡大し、多様な人生の選択肢が失われることになる。
そこで著者が提案するのは、いたずらに英語化を進めるのではなく、先人たちが行った翻訳と土着化の技術を磨き、母語でも豊かな生活を送れるようにすることだという。また、その模範を非英語圏の人々にも示し、必要とあればそれを指南することだとする。
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英語を学ぶことは大切です。相手と対等に議論ができるのならばどんどん学ぶべきであると思います。
ただし、今この国において日本語ですら議論を戦えない輩が溢れかえっています。論破は議論ではありませんただのいじめです。
いかに母国語が大切かというのは世界が証明してる訳であり何故今さら日本は母国語を捨てるような教育をするのか理解に苦しみます。
クール・ジャパンなどちゃんちゃらおかしいという事がなぜ理解できないのだろう。日本を世界に発信したいのなら日本語で正々堂々とやるべきであり、この名のもとに公用語を英語とする英語特区が組み込まれているとなると何とも寂しい。
やらなければならない時はいずれ来る、だけど今ではないそう子供たちに教育ができる社会になってもらいたい。
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確かにグローバル化によって一定程度の英語力が求められていて、場合によっては英語ができないと話にならないケースもある。ただ日本では、英語ができる=仕事ができるみたいな風潮があるのは本質からズレていると本書を読んでいて思った。
改めて言語は単なる手段であって、以上の文脈において言語習得が目的化することは危険なので、「何のために言語学習するのか?」は常に明確化しておきたい。
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英語化がいかに良くないかを理解するために、英語が標準言語になる前のラテン語の歴史などを振り返って論評されています。
客観的な分析により、否定的な意見展開がされており、納得度が高いです。
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母語で思考して,しかも世界に関する概念も母語で理解できるというのが日本語の利点です。大阪公立大学で何年後かに英語公用化するという報道がありましたが,トンダ愚策ですね。維新は歴史を知らない(というか,維新幹部はグローバルなのだろうか?)。
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英語化の行き着く先に、この国「誰も望まない未来」が待っている。英語化は、日本を壊すのである。(p.6)
ヨーロッパ諸国は,ラテン語という「普遍」だと思われていた言語を,それぞれの母語に「翻訳」した。そして,知的な観念を「土着化」することを通じて,各国の言葉で運営される公共空間を作り出し,そこに多くの人々の力が結集され,近代化を成し遂げた。
明治日本の場合も,「普遍」的で「文明」的だと思われた英語など欧米の言葉を,日本語に徹底的に翻訳し,その概念を適切に位置付けていくことによって日本語自体を豊かにし,一般庶民であっても少し努力すれば,世界の先端の知識に触れられるような公共空間を形成した。これによって,多くの人が自己の能力を磨き,発揮し,参加することのできる近代的な国づくりが可能となり,非欧米社会ではじめて近代的国家を建設できたのだ。(pp.91-92)